後家兼光


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 後家兼光(ごけかねみつ)


大摺上無銘
2尺6寸4分
静嘉堂文庫所蔵

  • 長船兼光
  • 元は三尺余りの太刀を磨り上げたもの
Table of Contents

 由来

  • 直江兼続の愛刀。兼続の死後、兼続の妻(おせんの方。後家)が上杉家に献上したことから、こう呼ばれた。

 来歴

  • 元は秀吉の所持で、没後形見分けで秀吉公御遺物として直江兼続に下賜された。

    直江山城守 兼光

  • 兼続死後に上杉家に献上。
  • 明治時代に上杉伯爵家から山内侯爵家(旧土佐藩主家)に贈られ、その際、蒔絵の鞘を新調した。
    幕末、奥羽列藩同盟に加盟していた米沢藩は厳罰を受けるべき立場であったが、婚姻関係(12代上杉斉憲の正室が、土佐藩12代藩主山内豊資の娘・貞。 山内豊資の弟の子が山内容堂)を結んでいた土佐藩主山内家の助力により逃れたという。本刀はこの礼で山内家に贈られたのだという。
    静嘉堂文庫美術館 | 展示作品の紹介
  • その後岩崎侯爵家に伝わり、現在は岩崎氏ゆかりの品を集めた静嘉堂文庫で所蔵されている。




 (せん)の方

  • 直江兼続の正室。

 生涯

  • お船の父は、長尾景虎(上杉謙信)の重臣で越後国与板城主である直江景綱。
  • 母は山吉政久の娘。
  • 父直江景綱は長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の3代にわたって仕えた宿老で、奉行職を務め主に内政・外交面で活躍した。また七手組大将の一人として軍事面で活躍することもあった。

 最初の夫:直江信綱(長尾藤九郎)

  • 直江景綱には男児が無かったため、お船の婿として総社長尾氏の長尾藤九郎を迎え、直江信綱と名乗らせて跡継ぎとした。
  • 天正5年(1577年)に父景綱が死去すると直江信綱が家督を相続したが、天正9年(1581年)、恩賞を巡るトラブルから春日山城内において毛利秀広により山崎秀仙とともに殺害され、お船は後家(未亡人)となってしまう。

 直江兼続

  • その後、上杉景勝の命令で直江家を相続することになった樋口兼続(直江兼続)を婿に迎えた。
  • 文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の人質となった景勝正室の菊姫(阿菊御料人、大儀院。信玄娘)とともに京都伏見の上杉邸に移りっている。慶長5年(1600年)、お船は米沢に帰っている。
    菊姫(きくひめ)
     景勝正室の菊姫は、武田信玄の娘。母は油川夫人で、同母兄弟には仁科盛信、葛山信貞、松姫がいる。菊姫は、甲越同盟の締結が行なわれた天正7年(1579年)に両家の同盟の証として上杉景勝に嫁いだ。甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼ばれ、質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として敬愛された。
     天正17年(1589年)9月に人質として伏見に上洛し、文禄4年(1595年)9月に景勝が伏見に屋敷を賜ると京都伏見の上杉邸にお船とともに移り、慶長9年(1604年)2月伏見屋敷で死去。享年47。墓は京都妙心寺亀仙庵(現隣華院)にある。
  • 慶長9年(1604年)5月、上杉景勝の側室・四辻氏(桂岩院)が景勝唯一の子・定勝(後の米沢藩2代藩主)を産む。ところが景勝正室の菊姫(信玄娘)は同年2月に死去しており、さらに8月には側室の四辻氏まで死亡したため、直江夫妻が定勝の養育を担当することになった。

    慶長九年二月十六日、伏見ノ邸ニ於テ、甲府夫人逝去シ玉フ、去冬ヨリ少将發病シ玉フ、此事米澤ニ達しケレハ、武田三郎急キ上洛有テ、令妹ノ看病アリ、(略)今日終ニ泉路ニ趣キ玉フ、公ヲ始メ奉リ、諸士ニ至マテ、悲歎カキリナシ

    五月五日辰刻、米府ノ城ニ於テ、玉丸君(定勝)誕生シ玉フ、御母ハ、四辻大納言公遠卿ノ御女ニテ、往年潜ニ米府ニ下著シ玉ヒテ、御本城ニ御住居ナリ

    八月十八日、玉丸君ノ御母堂、御産後ヨリ貴體常ナラス、療養其術ヲ盡シ、禱願其誠ヲ抽ンスルト雖モ、兼テ効験ナク、今日終ニ棄粧シ玉フ、是ニヨリ、早馳ヲ以テ江戸ヘ言上ス

    桂岩院(四辻氏)
     桂岩院は上杉景勝の継室で2代藩主・上杉定勝の生母。公家・四辻公遠の娘。側室として米沢城に居住して景勝の子供を身ごもり、景勝の伏見滞在中の慶長9年(1604年)5月に米沢城で上杉家次期当主となる玉丸(後の定勝)を出産した。しかし、産後の経過が悪く、玉丸出産から3ヵ月余り後、景勝の帰還を待たずして死去した。
     姉妹に後水尾天皇の典侍・四辻与津子(お与津御寮人)がいる。四辻与津子については京都新城及び仙洞御所(桜町殿)の歴史(中段あたり)を参照のこと。なお定勝の子・上杉綱勝も継室:四辻公理娘・富姫(又従姉妹にあたる)を継室に迎えている。

  • 元和5年(1619年)12月19日に夫である直江兼続が死去する。お船は剃髪して貞心尼と号した。※これよりのち、お船は「後室(後家)」と呼ばれたのではないかと思われる。
  • 母代わりを務めた定勝とは大変深い交流があったようで、景勝が元和9年(1623年)に死去し、定勝が米沢藩主になった後も、お船は化粧料3000石に加え手明組40人を与えられている。以後は直江家の江戸鱗屋敷(兼続没地、現警視庁辺り)に住んだ。

    (寛永七年九月)志駄修理義秀ニ御書ヲ賜リ、來年櫻田邸修營普請ノ御底薀ヲ告報シ玉フ、直江後室鱗屋鋪ヘ引移ニ依テ也、

    お船の没後、この鱗屋鋪は上杉家に収められた。「慶長十一年五月十三日、景勝は將軍秀忠より櫻田邸右向鱗形の地二千三百七十坪を下賜せられ、鱗屋敷と號して兼續は之に住居したが、後室の歿後は上杉家に收められた。其後明暦三年正月十九日、類焼の厄に遭ひ」

  • 寛永13年(1636年)にお船が病に倒れると、定勝は茂田左京に命じて、病気平癒祈願として伊勢の両宮にて大神楽を奏せしめ、同日に自ら見舞いに訪れている。
  • しかし定勝の願いは通じず、お船は翌寛永14年(1637年)1月4日死去した。享年81。

    (寛永十四年正月)直江後室山城守兼續妻女宿痾彌留ス、故公御越駕起居ヲ訪尋シ玉フ、舊冬ヨリ祈療微驗ナク、今日下世ス、公ニモ悼惜斜ナラス、寶林院殿月桂貞心尼大姉ト諡号ス、

  • 遺骨は和歌山県高野山清浄心院に納められた。定勝は高野山に使者を派遣し、お船のために常灯料を寄付し、墓石を立てたという。

    同(二月)二十三日、直江後室カ追福トシテ、常燈料ヲ高野山ニ寄附シ玉フ、

    萬年塔の前面下方右側に、「米澤直江山城守爲後室」、左側に、「寬永十四天正月四日宿坊清淨心院」と彫られてある

 系譜

      志田義時
       ├───志駄義秀(米沢藩士)
     ┌─娘
直江景綱─┤
     │直江信綱
     │ ├─────清融阿闍梨(高野山龍光院36世住職)
     │ │
     │ │    戸田氏鉄娘
     └─お船      │
       ├────┬直江景明
樋口兼豊─┬直江兼続  ├お梅
     │      └於松
     │        │
     │ 本多正信──本多政重
     │        ├───本多政次(加賀藩士青地家)
     ├大国実頼─┰──阿虎
     │     ┗┯大国光頼(米沢藩士)
     ├樋口秀兼──┴樋口長兼
     │
     ├きた(須田満胤室)─須田満統(米沢藩士)
     ├色部光長室
     └篠井泰信室─篠井重則(加賀本多家重臣)
  • 兼続は生涯、側室を持つことがなかったが、お船と兼続との間には、1男2女(長男直江景明、長女於松、次女は名が不明)の子に恵まれた。
  • しかし男子である景明は早世しており、また兼続の死後再び後家となったお船は養子を迎えなかったため、お船の死を以って直江宗家は断絶した。

 長男:直江景明

  • 長男景明は慶長20年(1615年)に早世している。

 長女:於松(おまつ)

  • 兼続は慶長9年(1604年)8月家康の重臣、本多正信の次男本多政重を長女於松の婿養子に迎える。
  • 翌年於松は早世してしまうが、兼続の懇願により本多政重との養子縁組は継続され、慶長14年(1609年)には兼続は弟・大国実頼の娘・阿虎を養女にして嫁がせた。しかし本多政重は慶長16年(1611年)に上杉氏の下から離れ、のち前田氏に仕えている。「加賀八家

 次女

  • 色部長実から息子・光長の嫁にと請われているが、結果的に光長には叔母(兼続の実妹)が嫁いだ。
  • 姉の於松に先だって早世した。

 関連項目


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