川口陟
川口陟(かわぐちのぼる)
日本の作家、鑑刀家
室津鯨太郎
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生涯
- 明治16年(1883年)高知県室津の生まれ。
- 室津港は、江戸時代に開港したわが国最古の掘込港とされ、江戸時代から明治時代にかけて捕鯨基地として栄えた。川口は、それにちなんでペンネームを「室津鯨太郎」としたという。ほかに「川口大臥」、「大臥山人」も使っている。
室津港を最初に整備したのは最蔵坊とされ、元は毛利秀元に仕えた武将だという。関ヶ原の後に僧となり諸国をめぐる。室戸岬にある空海ゆかりの最御崎 寺を再興したほか、土佐藩2代藩主山内忠義の命を受け、津呂港(室津港)の整備を行った。工事はのち土佐藩執政(家老)の野中兼山により続けられ、さらに普請奉行一木権兵衛により現在の内港が完成したという。後述
- のち高知市帯屋町に住んだという。
私は少年の頃高知市帯屋町の下一丁目に住んで居た、其處から追手筋の土佐郡第一高等小學校へ通つた。間もなく其學校は高知市高等小學校と名が變つて、其の第一期の卒業生の中に私の名がある筈だ。(略)
私の帯屋町時代は貧乏の絶頂であつた、母は金に困ると「安岡馬吉さんの居所が分つたらお前を連れて行くとお金をくれるけれど」と口癖のやうに言つて居た。それは父が室津の戸長をして居る時分安岡馬吉といふ人が捕鯨組でやつて來て、父が其の人のために大に働き、遂に病を得て三十五歳で斃れた。そして私の一家は離散の憂目を見た。安岡さんは人に向つて「川口の倅はおらが世話せにゃならん」と言つて居たさうである。
- 昭和39年(1964年)没。
書籍
- 「刀剣雑話」:大正14年(1925年)。国広、水心子正秀、本阿弥を主に扱った。
- 「刀剣随筆」:昭和2年(1927年)海外流出刀剣考、南蛮鉄考
- 「刀剣銘字典」:昭和3年(1928年)
- 「鐔大観」:昭和5年(1930年)
- 「新刀古刀大鑑」:昭和5年(1930年)
- 「近世刀剣年表」:昭和10年(1935年)慶長~慶應まで江戸時代の刀剣に関する事項を年次表にまとめたもの。贈答、作品、没年などのまとめ。
- 「中村覚太夫信家鐔集」:大正15年(1926年)
- 「水心子正秀全集」:大正15年(1926年)剣工秘伝誌、刀剣弁疑などを集録
- 「金工総覧」:昭和8年
- 「刀工総覧」:大正7年
- 月刊誌「刀剣研究」:昭和34年(1959年)~昭和39年(1964年)
- 「日本刀剣全史」:昭和48年(1973年)
名物帳について
- 「刀剣雑話」の中で名物帳について語っている。※注釈文は現代語に超訳したもの。
「刀劍名物帳」──以下略して単に名物帳といふ──は抑も誰がこんな書目を附したか不明であるが、其内容及編纂の状況から考へると、名物帳といふよりも刀劍控帳とか覺帳とかいふ名が相応して居る。本阿彌家は別に留帳といふものがあつて、鑑定に来た品は漏れなく控へてある、長さ、刃紋、彫物、中心、銘、地鐵、疵の有無、代金子等を可也精細に記してある、けれども刀劍其物の履歴は記してないから、履歴の分つた品は別に控帳を作つて書留めたもので、書いた人はまさか之を後世公にされやうとは思はないから、掘出した事や賣つた事、安い代附けを高くした事、宇多と見へる刀を郷に研直した事などを隠す事もなく記してある、だから前にも言つた如く、極めて無遠慮に言へば名物帳といふよりも、賣買帳と言つた方が適切であるかも知れぬ。
察するに本阿彌家に對しても祖先以来刀劍に関する何かあるだらうから差出せよといふ命があつたに違ひない、けれども流石に「留帳」は差出す譯には参らず、さりとて何もありませんとも答へる事も出来ず、寄々相談の結果之でも一つ差出して見やうといふ事になつて出したのが「名物帳」であらうと思はれる。上下二冊になつてゐたのを副本を一つ家へ留置てあつたが、其後世古延世といふ人が寫取つて流布するやうになつた。元より流布本と雖輾寫に輾寫で異本が頗る多い、そして異本毎に中に記した刀劍の數に過不足があるから随分當てにならぬ書である。又書名も名物帳となつたり、名物記となつたり、記事が前後錯雑した箇所が多い。松平子爵のお説では「名物帳」は二種あつて、幕府へ上げた書名は「諸家刀劍集」で何等の註なきもの、又註ある本は「名物劍集」と題し芍薬亭本の表題であるとの事である。
大軆以上の如き事情で出来た書であるから之を名物帳といふ書名にすると後世の人を大に誤る事となる、例せば「名物帳」にある刀劍は極めて優れたもののみで、世に名物と稱するに足るべき品であると早合點する人があるだらうが、事實は決してさうではない。「名物帳」に記載された刀劍で随分価値のない駄刀もある。又「名物帳」記載以外には名物たらしむべき名品がないかといふに決してさうではない、世には「名物帳」記載以外で立派な銘刀卽名物たるべきものが澤山ある、それ等の刀劍は慶長頃から萬治頃まで本阿彌家へ研磨又は鑑定に来なかつたから「名物帳」に記載されなかつたまでで、作が勝れて居ないからとか或は又由緒がないから記載されなかつた爲めではない。伊達家の唐人斬景秀とか、小笠原家の長銘新藤五とか、山内家の一國兼光とか、松平家の大般若長光の如きは「名物帳」には出て居なくとも、名物帳の同銘の刀に比して決して遜色のあるものではないし、又稀世の銘刀である事は誰しも異議はあるまいと思ふ。之を要するに「名物帳」に記載漏と否とは刀劍の傑作とか逸品とかいふ事には何等関係のあるものでないと云ふ事を何處までも知つて居て貰ひたいのである。世人は兎もすると「名物帳」に記載の有無に依つて輕重を論じやうとするが之は頗る早計である。次に内容記事の信秘であるが、之は殆ど信じて可いやうである、時々少しばかり部分的の間違ひはあつても、それは輾寫の時誤つたもので、大軆記事を信ずる事が出来る、然し小夜左文字の記事は信じられない。
一木権兵衛(いちきごんべえ)
江戸前期の土木行政家
土佐藩の普請奉行
室津港掘削工事の人柱となり自刃した
- 元は一領具足と呼ばれた長宗我部の家臣。
- 執政野中兼山に小姓として仕え、のち認められ土佐藩内の河川・港湾工事を多く手がけた。
兼山の祖父、野中良平の妻は山内一豊の妹の合(ごう)。兼山の父の良明は5000石を領した。のち浪人する。父の死後、兼山は母とともに土佐に戻り、父の従兄弟で奉行職であった野中直継の娘・市の入婿となる。のち2代藩主山内忠義に重用され、堤防の建設、平野部の開拓と米の増産、森林資源の活用などを行う。明暦2年(1656年)に忠義が隠居すると、兼山の施政に不満を持つものが3代藩主忠豊に弾劾状を提出、兼山は失脚し宿毛に幽閉された。
- 室津港の工事は特に難工事で、港口を塞ぐように斧岩、鮫岩、鬼牙岩という3つの大きな岩が海中にあったのを、「張扇式の堤」により取り囲んだうえ、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたという。膨大な人足を用いた工事は次第に藩財政を圧迫するようになり、野中兼山が失脚すると工事への非難は一木権兵衛が一身に背負うことになった。
- この3つの岩は、地元では竜王(海神)が大事にしていると伝えられた岩であり、砕こうとしても翌日には元通りになってしまったり、または岩を砕くと血が流れ出たという。
礁へ石鑿を打ちこむと、血が出たとか、前日に欠いであった処が、翌日往くと、元の通りになっておったとか、何人が夜遅く酔ぱらって、此の上を歩いておると、話声がするから、声のする方へ往ってみると、彼の礁の上に小坊主が五六人おって、何か理の解らん事を云っておるから、大声をすると河獺が水の中へ入るように、ぴょんぴょんと飛びこんだとか、いろいろの事を云いまして
- 工事の遅れに追い詰められた一木権兵衛は、海神に向かって「此役成に至候は、我命則牲と成て君に捧げん」と誓い、それにより工事が大きく進展すると、延宝7年(1679年)6月17日夜、海中に明珍長門家政作の甲冑、相州行光作の刀を海中に投げ入れると、港の上の石登崎において自刃して果てたという。
- 浦の人々は、工事のために尽力し人柱として果てた一木権兵衛の魂を慰めるために一木神社を建立したという。高知県室戸市室津の一木神社境内には、今もノミの跡が残る「御釜岩」が残されている。
- この逸話は、高知県生まれの明治期の伝記作家、田中貢太郎により小説となっている。
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