実休光忠
実休光忠(じっきゅうみつただ)
- うぶ中心、「光忠」の二字銘。
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由来
- 元は江州甲賀郡の三雲城主三雲対馬守定持の所持したものといい、のち愛刀家であった三好義賢入道実休が入手し、「三雲光忠」と呼んだという。
信長は三雲光忠と云刀をさし玉ふ、これは江州三雲と云ものゝさせる刀にて、其後三好實休が手に渡り、實休泉州の久米田にて打死の時までさせる刀也、たいまいゆゝしく并なき切物なれば、則信長自ら岐阜のきりの馬場にてためしてさし玉へり
- 久米田の戦いで実休は討死した際に敵将の畠山高政がこれを分捕り、永禄11年に信長に献上する。その後は「実休光忠」と呼ばれた。
来歴
三雲定持
- はじめ三雲定持が所持
三雲ヨリ三好豊州ヘ
三雲氏
三雲氏は甲賀五十三家の一つで、六角氏重臣。永禄6年(1563年)10月の観音寺騒動では、定持は蒲生定秀らと共に奔走し収束させている。長子の賢持は永禄9年(1567年)の浅井軍との戦いで討死する。賢持の息子三雲賢春(定持孫)は、真田十勇士の猿飛佐助だとする説がある。
元亀元年(1570年)、野洲河原の戦いで三雲定持は討死し、家督は次男の成持が継いだ。成持も重用され、後藤秀勝、蒲生賢秀、平井定武、目賀田綱清、進藤貞治らと並んで六角六宿老と呼ばれた。
なお所持していたのが定持ではなく、その嫡男・賢持だとする場合もある。三雲賢持は永禄9年(1566年)に浅井氏との戦いの中討死した。いずれにしろ実休は永禄5年(1562年)に死んでおり、いつ頃、どうやって三好実休が手に入れたのか(三雲氏からいつどのように流出したのか)は謎。
三好実休
- のち三好実休(義賢)が入手。
三雲ヨリ三好豊州ヘ
- 実休が光忠を揮って奮戦したという話も残る。
実休猶意ひるまず下知する処を、根来法師往来左京、長剣を真向にかざし、実休に討てかゝる、実休推参なりとて、光忠の太刀を以て抜打に払へば、左京が臑当の十王頭の半切て膝口を斬付たり、左京事ともせず立蒐り散々に戦ひ、終に実休を切り伏せて首を取る、時に実休三十七歳也。是に於て、三好方右往左往に敗す。
實休元より思慮うすく勇猛の將なれば、旗を進めて掛られぬ、士卒諫めけるは、久米川を前にあてゝ備られ可然と云、實休、出過てあやまりは不苦、退かんは見苦しかるべし、軍利なくば二度茶筅の柄を取まじと云て不退、畠山高政此虛を考へ戰ければ、實休一足も不引、日比祕藏のあさじと云茶酌を押折、三雲光忠にて自害せり、
畠山高政
- 永禄5年(1562年)3月5日久米田の戦いにおいて、実休が泉州南郡八木の久米田寺で流れ矢に当り陣没した際、敵将の畠山高政がこれを分捕った。
- なお実休の死後に渡ったのではなく、その2年前永禄3年(1560年)に三好方が高屋城を攻めた際、10月に和議が成りその時に実休が高政に贈ったとする説もある。ただしそれでは実休がなぜわざわざ敗将である高政に物を贈るのかが説明しづらい。
(10月24日)河内飯盛山城将安見直政、三好長慶に降り、和泉堺に出奔す、尋で、河内高屋城将畠山高政も亦、長慶に降り、同地に出奔す、
(11月13日)三好長慶、河内を鎮定し、松永久秀をして、大和万歳、澤等の諸城を攻めしむ、是日、長慶、河内飯盛城に入り、弟義賢をして、同行高屋城を守らしむ、
現に高政は約半年後、翌年7月には早速紀州の軍勢を率いて岸和田に出陣し、細川晴之を擁立して京都に進軍した六角義賢と共に三好方を京都から追い出すことに成功している。その後も三好との戦いは続き、最終的に永禄11年(1568年)信長が近畿に進出し三好(当時は三人衆)を追放するまでその戦いは続いた。久米田の戦いでは実休の近習もみな死んだと言い、その際に分捕ったと考えるほうがよほど納得がいく。
信長
- 畠山高政はその後永禄11年(1568年)に上洛した信長に拝謁し、この光忠を献上、旧領の一部が安堵された。
三雲ヨリ三好豊州ヘ、從高政今ハ信長江被参
- 天正8年(1580年)2月22日に津田宗及らが安土城でこの光忠を拝見したことが「天王寺屋会記」に登場する。後述する木津屋が見事に実休光忠をあてるエピソードはこの時のものである。
同二月廿二日 上様御前ニて 於京都
御脇指 十四腰 御腰物 八腰
御腰物分
光忠 三好実休 (三好実休)
(天王寺屋会記)
- 信忠に家督を譲った際には「義元左文字」を譲ったが、信長は「実休光忠」を差し続けたという。
岐阜城を嫡男信忠へ參せらるゝ時、此刀を義元左文字と號して、祕藏の重寶として讓り玉ひ、信長は三雲光忠と云刀をさし玉ふ、これは江州三雲と云ものゝさせる刀にて、其後三好實体が手に渡り、實休泉州の久米田にて打死の時までさせる刀也、たいまいゆゝしく并びなき切物なれば、則信長自から岐阜のきりの馬場(桐野馬場)にてためしてさし玉へり、信長ほどの武將手づからこゝろみて指玉へば、況や匹夫の身は此三尺の劔を以て賴みとするの事なれば、聊ゆるがせに不可仕也、源氏のひげきり、平氏の小烏など云も、皆重代の太刀なれば、古來皆太刀刀ををろそかにせざること可考也、
- 本能寺の変で自害した織田信長が最後に振るった刀で、奮戦したため切込みが十八ケ所も出来ていたと言う。(刀要録、常山紀談)
秀吉
家康
- 大坂落城後は焼身として家康に献上された。
- 「光悦押形」(光悦刀剣名物帳)には元和元年(1615年)六月書写という押形が載っており、刃文が大丁子になっており、これは焼き直されたからだという。
エピソード
- 天正8年(1580年)、信長は堺の豪商らを安土城に呼び付けた上で自慢の二十五腰の光忠を見せ、目利と言われる木津屋に実休光忠はどれか当てさせたところ、木津屋が見事当てた。
- 理由を尋ねると、実休が最期の時、根来法師の往来左京の脛当を払ったために切先の刃が少しこぼれたと聞いており、その話しを元に当てたという。
- 信長大いに喜び、常の差料として愛用したという。
信長公天下を始め玉ふ頃、光忠の刀を好て、二十五腰を集め給ふ。或時安土の御城の堺衆被参けるに、皆々天守に被召、御茶を下さる、其の中に木津屋と云ふ町人、堺一番の目利と被聞召及、彼の光忠を残らず見せ給ふ、此の中に実休光忠有り、孰がそれぞ撰出せよとの御事なり、木津屋則二十五腰を不残熟覧して、一腰を取除け、其の御道具は是にて候と申す。果して相違なかりしかば、信長公御手を拍給ひ、如何して見知れるやと尋玉ふに、木津屋は、此の御太刀切先に少し匁のこぼれ拝見候、実休最期に敵の臑当を切払ふに、匁少しかけたりと伝承候、仍て如是申上候と云ふ、信長感じ給ふと云々。
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