実休光忠
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実休光忠(じっきゅうみつただ)
- うぶ中心、「光忠」の二字銘。
由来
- 元は江州甲賀郡の三雲城主三雲対馬守定持の所持したものといい、のち愛刀家であった三好義賢入道実休が入手し、「三雲光忠」と呼んだという。
信長は三雲光忠と云刀をさし玉ふ、これは江州三雲と云ものゝさせる刀にて、其後三好實休が手に渡り、實休泉州の久米田にて打死の時までさせる刀也、たいまいゆゝしく并なき切物なれば、則信長自ら岐阜のきりの馬場にてためしてさし玉へり
- 久米田の戦いで実休は討死した際に敵将の畠山高政がこれを分捕り、永禄11年に信長に献上する。その後は「実休光忠」と呼ばれた。
来歴
三雲定持
- はじめ三雲定持が所持
三好実休
- のち三好実休(義賢)が入手。
- 実休が光忠を揮って奮戦したという話も残る。
実休猶意ひるまず下知する処を、根来法師往来左京、長剣を真向にかざし、実休に討てかゝる、実休推参なりとて、光忠の太刀を以て抜打に払へば、左京が臑当の十王頭の半切て膝口を斬付たり、左京事ともせず立蒐り散々に戦ひ、終に実休を切り伏せて首を取る、時に実休三十七歳也。是に於て、三好方右往左往に敗す。
畠山高政
- 永禄5年(1562年)3月5日久米田の戦いにおいて、実休が泉州南郡八木の久米田寺で流れ矢に当り陣没した際、敵将の畠山高政がこれを分捕った。
信長
- 畠山高政はその後永禄11年(1568年)に上洛した信長に拝謁し、この光忠を献上、旧領の一部が安堵された。
- 天正8年(1580年)2月22日に津田宗及らが安土城でこの光忠を拝見したことが「天王寺屋会記」に登場する。後述する木津屋が見事に実休光忠をあてるエピソードはこの時のものである。
同二月廿二日 上様御前ニて 於京都
御脇指 十四腰 御腰物 八腰
御腰物分
光忠 三好実休 (三好実休)
(天王寺屋会記)
- 本能寺の変で自害した織田信長が最後に振るった刀で、奮戦したため切込みが十八ケ所も出来ていたと言う。
秀吉
家康
- 大坂落城後は焼身として家康に献上された。
エピソード
- 天正8年(1580年)、信長は堺の豪商らを安土城に呼び付けた上で自慢の二十五腰の光忠を見せ、目利と言われる木津屋に実休光忠はどれか当てさせたところ、木津屋が見事当てた。
- 理由を尋ねると、実休が最期の時、根来法師の往来左京の脛当を払ったために切先の刃が少しこぼれたと聞いており、その話しを元に当てたという。
- 信長大いに喜び常の差料として愛用したという。
信長公天下を始め玉ふ頃、光忠の刀を好て、二十五腰を集め給ふ。或時安土の御城の堺衆被参けるに、皆々天守に被召、御茶を下さる、其の中に木津屋と云ふ町人、堺一番の目利と被聞召及、彼の光忠を残らず見せ給ふ、此の中に実休光忠有り、孰がそれぞ撰出せよとの御事なり、木津屋則二十五腰を不残熟覧して、一腰を取除け、其の御道具は是にて候と申す。果して相違なかりしかば、信長公御手を拍給ひ、如何して見知れるやと尋玉ふに、木津屋は、此の御太刀切先に少し匁のこぼれ拝見候、実休最期に敵の臑当を切払ふに、匁少しかけたりと伝承候、仍て如是申上候と云ふ、信長感じ給ふと云々。
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