増田藤四郎
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増田藤四郎(ますだとうしろう)
- 享保名物帳所載
増田藤四郎 在銘長八寸六分 代金三百枚 松平越後守殿
表裏共に護摩箸あり、昔は山城の八幡にありし、此刀所持の者鶉(うずら)を数寄常に相語る友能き鶉を所持す、其者此刀と鶉とを換へものにす、其刀得たる者の親類に増田宗善と云者ありて金弐拾枚にて貰ひ所持す、越前忠直卿へ上る千貫拝領す、宗善と申は光室時代其孫を宗仙と申也、忠直卿豊後へ御持参、慶安四年御逝去に依て越後へ戻る
- 表裏ともに護摩箸。
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由来
- 増田宗善が所持していたため名付けられる。
- 一説に増田宗善は町人という。
来歴
増田宗善
- 昔は山城八幡にあったもので、この刀を所持していたものが鶉(うずら)好きが高じて、鶉とこの刀を交換したという。
- 藤四郎を入手した者の親族に増田宗善というものがあり、金二十枚にて購入した。
松平忠直
- 羽柴結城少将(結城秀康)の長男越前家・松平忠直が千貫でこれを買い求めるが、後に「越前騒動」や乱行の咎めを受け隠居を命じられる。出家して一伯と名乗り、慶安3年(1650年)豊後の配所でなくなるまで藤四郎を所持していた。
松平光長
- 「増田藤四郎」は忠直の死後、当時高田城主であった長男の越後守松平光長に伝えられた。
- 翌慶安4年(1651年)本阿弥家に鑑定に出し、三百枚の折紙が付いた。
- 大村加卜は松平光長のもとで外科医として知行を得ていたため、これの拝見を許されている。「剣刀秘宝」には、本阿弥光温が「日本に一つの道具」と褒めたという。また吉光の"光"が大きいのは若い時の銘であるためだと説明している。
- とされているが、天和元年(1681年)の「御拝領物類」ではまだ越前松平家にある。「童子切安綱」の項を参照
- 光長は、その後越後騒動でお預けの身となった。
松平宣富
- 貞享4年(1687年)赦免されると道具類も戻される。養子の松平釆女長矩(松平宣富)に家督を譲る。
松平長矩は陸奥白河藩主松平直矩の三男で、のち松平光長の養嗣子となり津山藩初代藩主となった。最初光長の偏諱を受け長矩、後に家宣の賜諱を受け宣富と改名している。
- 元禄11年(1698年)、松平長矩に美作10万石が与えられ、国持大名(準国主、津山藩松平家)となる。
- 享保名物帳の「松平越後守殿」とは松平宣富のこと。
- その後享保6年(1721年)2月に死去、長男の浅五郎が継ぐが5年後に早世し、従弟の又三郎(初代宣富の弟・知清の三男)が継いだ。
大久保家
- その後は大久保家に移ったものと思われる。
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