士武者


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 士武者(さむらいむしゃ)

太刀
備中青江正恒
藤井市之丞広貞の佩刀
三尺一寸(約94cm)

 来歴

  • 備後神辺城は、天文ごろには山名理興(陰徳太平記では杉原忠興)が城主となっていた。
  • 天文12年(1543年)頃、大内氏に攻められ(神辺合戦)理興は約7年間持ちこたえるが、天文18年(1549年)に落城し理興は落ち延びる。
  • 天文23年(1554年)防芸引分により毛利氏が大内氏・陶氏から独立すると、備後の勢力基盤を継承した毛利元就は、臣従した山名理興に神辺城主復帰を認めた。のち弘治3年(1557年)に理興が死去すると、家老の杉原盛重が神辺城主となる。
  • 理興の旧臣藤井皓玄はこれに異を唱えて謀反をおこし神辺城を占拠するが、すぐに鎮圧され皓玄は京都に逃亡する。永禄7年(1564年)に盛重が西伯耆の尾高城に移ると、神辺城は盛重の二男杉原景盛が引き継ぐ。
  • 永禄12年(1569年)、杉原播磨守盛重が毛利氏に従い筑前立花に出陣している留守を狙い、藤井皓玄、能登守入道好玄らが神辺城を奪取する。しかし盛重が戻ると敗れ、皓玄は備中に逃れる。皓玄の次男広貞は単身逃れ、備後水呑村に辿り着くが、毛利勢50余人に囲まれ、本刀「士武者」の大太刀を振るって37人を斬り伏せ討ち死にしたという。
  • この「士武者」の大太刀は、藤井広貞が河井高列から孫婿引出として贈られたもの。

Amazon Music Unlimited 30日間無料体験