坂本龍馬


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 坂本龍馬(さかもとりょうま)

土佐藩出身の幕末の志士
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)
通称龍馬(りょうま)
才谷梅太郎(さいたにうめたろう)などの変名を用いた。
藩内での身分は郷士

Table of Contents

 生涯

  • 坂本龍馬は、土佐郷士の株を持つ裕福な商家である坂本家で、父・八平、母・幸の間に生まれる。
    坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家であり、才谷屋第6代の直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だったという。
     【郷士坂本家】
     初代八平直海─2代八蔵直澄━3代八平直足┬4代権平直方─5代直寛━6代直道━7代弥太郎─8代直行
                        └龍馬直柔━直(高松太郎)─直衛━直道
     
     
          鎌田実清  ┌儀蔵
            ├───┴清次郎(坂本清次郎、三好清明)
          ┌[三女]             │ ┌兎美
     井上好春─┴[長女]久      川原塚千野 ├─┴鶴井
            ├─────坂本幸    ├──春猪 │   坂本弥太郎(浜武家。坂本家養子)
     ┌八平直海八蔵直澄    ├──┬坂本権平直方  │      ├───┬彌直
     │【郷士坂本家】      │  │        ├─────┬直意  └直行
     │             │  │高松順蔵    │     ├直恵
     │ 山本新四郎信年─┬八平直足  │ ├──┬─坂本南海男直寛 ├坂本直道───┬直臣(夭折)
     │         └代七信道  ├千鶴  │         └勝清(土居家)└寿美子
     │          ├沢部琢磨 │    │
     │         ┌左尾子   ├栄   └[長男]高松太郎(坂本直、小野淳輔)
     │ 島村助四郎正壽─┼寿之助   ├乙女         ├──┬坂本直樹(夭折)
     │         ├常─島村衛吉└坂本龍馬直柔   瀬田留  └坂本直衛
     │         └源次郎─富子
     │               │
     │              武市半平太
     │【才谷屋】
     └八郎右衛門直清─八郎兵衛廣業─八太郎直興
    

坂本家は女系家族で、父の八平直足も婿養子である。また龍馬の兄・権平直方にも娘しかなく、長姉・千鶴の次男が坂本直寛として継ぎ、1911年に直寛が亡くなると次男の直道が坂本家を相続、2年後の1913年に直道が隠居し浜武家出身の彌太郎が継いだ。なお直道は1941年に彌太郎の薦めで坂本龍馬家の家督を継いでいる。

またよく知られている通り、武市半平太についても父・八平直足の山本家、島村家を通じて龍馬と遠縁の関係となる。

  • 龍馬が生まれる前の晩、母である幸が天を翔ける龍の瑞夢を見、それにちなみ「龍馬」と名付けたという。また幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったという伝説もある。
    正しくは「坂本龍馬」だが、当時の人は音さえ合ってればそれほど拘りがなかったため、「坂下良馬」「坂本馬」などの当て字が手紙などに残る。また明治時代になっても「本龍馬」と書いている書籍などが多数ある。なお江戸時代末までは、諱の「直陰」または「直柔」は通常手紙などでは使われない。仮名の項参照

 剣術修行

  • 嘉永6年(1853年)および安政3年(1856年)に、龍馬は江戸剣術修行を藩に申請し、それぞれ1年間の修業が許されている。
    • 二度目の修行では桶町千葉道場で塾頭を務めており、また「北辰一刀流免許皆伝」を授けられたという。詳細は後述
  • 安政5年(1858年)9月に土佐に帰国。

 脱藩と勝海舟との出会い

  • この後、大老・井伊直弼による「安政の大獄」、水戸藩士による「桜田門外の変」と中央政変があり、土佐藩内でもその影響は大きかった。
  • 一時は武市半平太の結成した「土佐勤王党」に参加した龍馬であったが、山内容堂に影響を与えるという手法の行き詰まりを感じたのか、文久2年(1862年)3月24日には土佐藩を脱藩している。
    この時、脱藩により親類に迷惑がかかることを怖れた長兄権平は、龍馬の佩刀をすべて取り上げるが、姉の乙女が倉庫に忍び入り「肥前忠広」を龍馬に授けたという。後述
  • 文久2年(1862年)8月には江戸に到着し、千葉道場に寄宿する。12月には幕府軍艦奉行並であった勝海舟を逆賊として斬るために尋ねるが、逆に論破され門人となり、後に海舟が進めていた海軍操練所設立に奔走している。文久3年4月には設立許可がおりている。
    有名な「エヘンエヘン」と記した乙女姉への手紙はこの頃のものである。

    この頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、大先生にことの外かはいがられ候て、(中略)すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。猶エヘンエヘン、

    この頃は、天下無二の軍学者勝麟太郎(勝海舟)という大先生に門人となり、大先生に殊の外可愛がられ候て(中略)少しエヘン顔してひそかに居り申候。達人の見る眼は恐ろしきものとや、徒然にもこれあり。なおエヘンエヘン。

 京都政変

  • この後8月には、当時京都を牛耳っていた長州藩を一網打尽にするべく薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きる。土佐藩士も「天誅組の変」で命を落とすものがあり、また国許でも武市が投獄され土佐勤王党は壊滅状態となる。
  • 10月龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられる。元治元年(1864年)に入ると6月に池田屋事件が起き、宮部鼎蔵・吉田稔麿など尊攘派志士が多く落命する。これによって京都の長州藩を中心とした尊攘派勢力は一掃され、そればかりか長州藩は幕府・薩摩系公家の盛り返しを受けた朝廷により朝敵の宣告を受けてしまう。幕府は長州藩の息の根を止めるべく第一次長州征討を進め、降伏した長州藩は三家老が切腹し恭順する。

 亀山社中

  • 禁門の変で塾生が長州軍に参加していたことなどが問題視され勝は失脚、神戸海軍操練所も慶応元年(1865年)3月に廃止されてしまう。
  • 薩摩藩の庇護を受けた龍馬たちであったが、塾生の航海知識を重視した薩摩藩が応元年(1865年)5月頃には龍馬たちに出資を行うことで「亀山社中」が設立されている。
  • 一方長州藩では、姿を隠していた主戦派の高杉晋作がクーデターを決行、奇兵隊などの活躍もあり恭順派を倒してしまう。これに桂小五郎などが合流することで長州政界は再び主戦派が勢力を握る。

 薩長盟約・海援隊

  • 中岡慎太郎と龍馬は、亀山社中の立場を利用して薩長に近づき、同盟締結を企図する。慶応元年(1865年)5月、下関での会見では西郷が急遽京都へ向かってしまい流れるが、その後慶応2年(1866年)1月には京都の薩摩屋敷において会談開催にこぎつける。(薩長盟約)
    司馬遼太郎氏の影響力への反発からか、「龍馬は実際にはそれほどの人物ではなかった」という指摘がなされることが多い。幕末慶応元年頃において倒幕を託しうる力を持っていたのは薩摩長州の両藩であり、"薩長同盟"は多くの志士が夢見たことでもあり、中岡や龍馬のオリジナルな案ではなかった。しかし事実として、薩長盟約締結に向けた最後の場面で坂本・中岡の果たした役割は決して小さいものではない。
     少なくとも長州の桂には龍馬は必要であった(「山口よりハ木圭小五郎よりも長々しき手紙参り、半日も早く上京をうながされ候」)。正月20日(これは朝廷でのいわゆる一会桑政権において長州処分の中身が固まった日でもある)までの会合において成果が出ることなく落胆のまま一度は帰り支度を始め伏見に移動していた桂が、龍馬到着後の22日までの2日間に帰藩出来るだけの周旋の成果が出た。一方の薩摩側にも、厳しい処分内容により長州を潰してしまうと次は薩摩が狙われる可能性が高かったことから、20日にはほぼ内容が固まった長州処分の内容を考慮したうえで、長州と手を組む必要があった。22日は長州処分についての勅許がくだされた日でもある。この一連の流れにおいて龍馬が果たした役割が決して小さなものではなかったことは明らかである。だからこそ長州側の桂小五郎は、23日付けで龍馬に宛てた薩長盟約の事項を記した手紙に対し、龍馬の裏書を求めたのである。※尺牘(龍馬裏書)は現在宮内庁所蔵。
  • 直後の1月23日、龍馬は潜伏していた寺田屋において、長州が護衛につけていた三吉慎蔵と祝杯を上げているところを幕府伏見奉行の襲撃を受け、ギリギリのところで脱出する。この時、お風呂に入っていて異変に気づいたお龍が裸で知らせたという逸話が残る。
    寺田屋はその後、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦で焼けており、現在京都市に残る旅籠寺田屋は、明治に入ってからその隣の敷地に建てられた建物である。つまり、現在館内に残る「刀傷」や「銃撃痕」などは後世に造られたものである。上で桂小五郎の手紙に裏書をしている日付が2月5日なのはこの事件のためである。
  • 襲撃を受けた際の傷を癒やすためもあり、西郷の勧めを受けて慶応2年(1866年)に霧島温泉などをお龍とともに旅行しており、これが日本人初の新婚旅行であるとされる。
    ただし、実際にはその10年前の安政3年(1856年)に小松帯刀(清廉)が新妻の千賀(近)と霧島の栄之尾温泉に滞在しており、記録上はこちらが初めての新婚旅行となる。
  • 幕府は二度目の長州征伐(第二次長州征伐)を企図するが、薩摩藩の路線変更もあり敗れ、徳川家茂が病に倒れたこともあり幕府軍は撤退し長州征伐は失敗に終わってしまう。
  • またこの頃、土佐藩においても時勢の変化を受け軍備増強・軍制改革に取り組み始めている。参政後藤象二郎を長崎に派遣し、龍馬の亀山社中とも接触したうえで、龍馬の脱藩を赦免するとともに、土佐藩の外郭団体へ組み入れることで話がまとまり、慶応3年(1867年)4月頃には亀山社中は「海援隊」と改組する。

 最期

  • 慶応3年(1867年)11月15日、龍馬は、京都河原町蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助方の母屋二階で中岡慎太郎と話し込んでいたところを、「十津川郷士」を名乗る賊に踏み込まれている。

    十津川ノ人ト僞り、三人來り、龍馬家來(※山田藤吉)迄、手札差出候ニ付、家來夫ヲ持チ二階に上り候處、右三人者從ヒ來り、龍馬家來ヲ矢庭ニ切仆シ、

    やがて案内を請ふものあり、表の八疉に在りたる藤吉は、楷段を降りて、これを出迎へり、客は一人とぞ覺えし懐中を探りて名刺を出し「拙者は十津川郷の某と申すものなるが坂本先生在宿ならば御意得たし」といふに、十津川郷中のものには、中井庄五郎前岡力雄を始め龍馬も愼太郎も共に相知れるもの尠からざれば、藤吉も別に怪しまず、かの名刺を持ちて、楷段を上るを、三人の刺客は窃に尾し來りて、藤吉が名刺を龍馬に渡して出て來れるを一人進みてこれを斬れり、藤吉は創を被むる六刀にして殪れぬ。龍馬は愼太郎と共に、頭を燈前に出して名刺を眺めむとする刹那「バタリ」と大なる物音のしければ店前にて若者共が戯れ居るならむと思ひ「ホタエナ」と一聲叱咤せり、

    坂本氏が拙宅(近江屋)へ下宿サレタルハ前年(慶応二年)ノ暮カ當年ノ春頃ヨリト思フ

    近江屋では、龍馬のために土蔵の中に一室を作り、万一の時には裏手の誓願寺の敷地に逃げられるように梯子もかけるなど用意をしていた。しかし龍馬はここ数日来風邪気味で、用足しに母屋まで移動するのも不便だったため、前日より母屋二階の八畳の奥座敷にこもっていた。
  • このとき龍馬と中岡は火鉢を挟んで話し込んでおり、賊は案内を受けて堂々と二人が話していた部屋に入ったとされる。※以後諸説あり
    ┌─────────────┐
    │     行灯      │
    │            床│
    │ 中岡→ 火鉢 ←龍馬 の│
    │            間│
    │      ↑      │
    ├─┐    賊    ┌─┤
    │屏│         │押│
    │風└         │入│
    ├───━━━━━━──┴─┤
    │             │
  • 賊は、席に座ったところから突然居合で抜刀して龍馬の額を薙ぎ払い、これが致命傷となる。

    一人ハ愼君ヲ目掛ケ、切附候ニ付、不取敢、短刀ニて受ケ留候へとも、其刀あまりて頭ニ切り付られ、夫ゟ敵の足本に飛入候得とも、深手ニ付手足共ニ不立、不得已伏し居候處、上ゟ又一ト太刀切り、何國ともなく、にけ去候由、今壹人ハ龍馬の肩ゟくびに掛て切付候ゆえ、龍馬直ニ床の刀ヲトリ、漸く二ノ太刀ヲ鞘なりニ受ケ候得とも、始メノ深手ニ付、十分ニ働事ヲ不得、又々頭ヲ鉢巻なりニ半分程も切れ夫ゟ敵ハ是でもうよしと云て遁去候由。

    この咄嗟に、二人の刺客は奥の八疉に跳り入りて、一人は「コナクソ」と叫びて愼太郎の後腦部を斬り、一人は龍馬の前額部を横に拂へり。龍馬は佩刀を後の床の間に置きありしかばこれを取らむと、背向になりたる所を、また右の肩先より左の脊骨にかけて大袈裟に斬られたり、されど龍馬は刀(吉行長二尺二寸)を取て立ち上れり、三の太刀は、刀を拔くに暇あらず、鞘のまゝにて受けたるが、この家の天井は東の軒下に至りて漸く低く、穹窿形(※アーチ状)をなせるを以て、鞘の(こじり)にて天井を突き破れり、敵の刀は太刀折の所より六寸程鞘越に刀身を三寸ほど削り、流れてまた龍馬の前額を鉢巻なりに横に薙きぬ。ことに初太刀は、腦漿白く汾出する迄の重創なりければ、最早(こら)えず「石川刀はないか、石川刀はないか」と叫びつゝ其場に斃れ伏しぬ。

    背後の床の間に飾られた掛け軸に血痕が残る。京都国立博物館所蔵(国指定の重要文化財)。
  • 背後の床の間に置いていた吉行に手を伸ばしたところを、右肩から背中にかけて二の太刀を受ける。振り返って吉行を抜く暇もなく三の太刀を鞘で受けるが、賊の太刀行きは凄まじく吉行の刀身を三寸ばかり削り、さらに流れて龍馬の額を薙ぎ、龍馬は倒れた。この時「石川、刀はないか!刀はないか!」と二度叫んだという。※石川とは中岡の変名。なお中岡は屏風の裏に刀を置いており短刀で受けている。
  • やがて中岡も動かなくなったことを確認した賊が引き返すと、まもなく二人は息を吹き返す。龍馬は、陸奥守吉行を抜いて行灯にかざして「残念だった」といい、しばらく後、かすかな声で「慎太、脳をやられたからもうだめだ」とつぶやくとそのまま突っ伏して死んだという。

    自分之刀ヲ改めて愼君ニいゝけるには、僕ハ腦ヲ切れたゆえ、もふ死る云や否やたおれ、又愼君ハドコヲ切れたぞト問、愼君云僕ハ諸方ヲ切れたりト答、然ハ手ハたゝぬかト云、愼君云ふ立ト答フ。龍馬ハ夫ゟ直ニ死し、家來(※山田藤吉)ハ十六日ノ七ツ時死、愼君ハ十七日九ツ時死、

    小頃くして、龍馬もまた蘇しければ、刀を拔きて燈火の前に、にじり寄り、刀を拔きて火光に照らし「残念々々」といへり。なほ愼太郎を顧みて「愼太郎どうした手が利くか」といひしに、愼太郎「手は利く」と答えしかば、龍馬はなほも行燈を掲げて次の六疉に至り(略)最早虚脱したりけむ、幽かなる聲して「愼太僕は腦をやられたから、もう駄目だ」との聲を最後に席に俯伏(うつふし)ぬ。其血は流れて欄干より下の座敷に落ちたり。

    次の六疉欄干のほとりには、孤燈明滅、影ほの暗きあたりに龍馬は血汐を浴びて、俯向に伏しぬ。鬼氣凄愴、陰森の氣は壁にも侵み入るかと思はれ、峯吉は覺えずトツカと其處に坐しぬ。

  • 慶応3年(1867年)11月15日没。享年33。
    中岡慎太郎は重傷を負いながら2日間生き延び、その間土佐藩の谷干城らにこのときの様子を語っている。そのため最期の様子が伝わった。中岡は11月17日死去。享年30。



 愛刀

  • 幕末の志士坂本龍馬は、陸奥守吉行作の二尺二寸を愛用したことで知られる。
  • 龍馬が最後に使った陸奥守吉行は、京都国立博物館に現存する。「陸奥守吉行」の項参照。
  • 明治43年8月30日付で、坂本家7代当主弥太郎氏が龍馬の甥の妻に書いた預かり証には、次の刀剣の名前が出ている。
    1. 備前宗光:朱鞘、束ナシ
    2. 吉行:刀キズノ鞘付キ束ナシ
    3. 兼定:白鞘、束ナシ



 他の愛刀

  • 大男だった龍馬は長刀を好んだ。
相州圀秀
二尺六寸六分、反り四分。目釘孔2個うち控穴1個。銘「嘉永七歳八月日/相州鎌倉住國秀作」江戸修行中に作刀してもらうが、重かったらしく弘瀬健太の差料と交換してしまっている。以後は弘瀬が愛用したという。子孫の弘瀬宏忠氏より寄贈されたという。現存、高知県立歴史民俗博物館蔵?。※立花圓龍子国秀、立花国秀、橘円龍子国秀。
肥前忠広
銘「肥前國住武蔵大掾藤原忠廣」二尺六寸(68cm)、反り1.3cm。目釘孔1個。脱藩するときに持ち出し(「姉の乙女は早くも其の機を察し 龍馬が日頃望める、實兄秘藏の忠廣の一刀を取り出し、御身に贐けせんとて與へければ、龍馬は之を推し戴き、首途よしと勇み立ち…」)、のちに河原塚茂太郎(かわらづかもたろう)(茂太郎の姉千野は権平の妻で、義理の兄にあたる)に贈った刀。武市半平太を経て岡田以蔵に渡る。文久2年閏8月20日(1862年)、以蔵ら数名が(三条木屋町下ルで)本間精一郎を斬った時に、物打ちから折れてしまう。平井収二郎はその断片を短刀にしていたが、平井が藩命により処刑されるときに、同じ獄にいた井原応輔に秘かに渡したという。なお龍馬は、脱藩後の旅費とするため縁頭を大坂で売ったという(「大石は坂本の刀の柄に布片を捲けるを見て怪み問へば、坂本は打ち笑ひて、縁頭を売りて旅費にしたりと答へぬ」)。
鈴木正雄作
二尺八寸二分。銘「武州住源正雄作安政二年八月日」江戸で打たせたもの。西郷隆盛と会った際、西郷は龍馬兄から託された陸奥守吉行を渡す。龍馬はその時差していたこの正雄を西郷の下僕の永田熊吉?に譲っている。ただし鍔が龍馬の師匠の形見だったので、後で取り返している。鈴木正雄(源正雄)は源清麿の弟子。「源清麿」の項参照。
肥後延寿物
「神崎則休指料」と銀象嵌のある刀も持っていたが、薩摩の吉井幸輔に譲っている。「神崎則休」とは赤穂浪士四十七士の一人。本阿弥成善の鞘書きがあった。土佐勤王志士遺墨展覧会目録では延寿国時作、石川盛馬所持と記載される。
備前兼光無銘刀
龍馬が鹿児島に訪れている頃の日記に「刀研代」として登場する刀。

(慶応二年5月)廿九日四両三歩金 右寺内氏ヨリ借用セリ。又弍両寺内ヨリ、右短刀合口コシラヘ、并研(ならびにとぎ)。備前兼()無銘刀研代。合テ三両二朱余払フ。
(坂本龍馬手帳摘要)

埋忠明寿
刀 銘「山城国西埋忠明寿作」2尺3寸2分。目釘孔1個。龍馬佩用であったことが、2015年に坂本家から高知県立坂本龍馬記念館に寄贈された書類の中から伝来を記した目録控えが見つかったことで明らかになった。
それによれば、龍馬が佩用した後、海援隊の菅野覚兵衛に贈っている。その後、明治40年(1907年)に坂本家に返還されたという。「明治四十年、故あって管野家より坂本家へ返戻あり」。昭和4年(1929年)の「土佐勤王志士遺墨展覧会」出展時の目録では(何かの手違いか)土佐勤王党員の島村衛吉の刀と記載されている。その後、龍馬遺品として坂本家から当時の恩賜京都博物館に寄贈されていた。本刀は従来昭和4年出展時の目録により、島村衛吉が所持していたものと認識されていた。現在は京都国立博物館所蔵

一、長刀「山城国西陣住 埋忠明寿」 在銘
此刀ハ元ト龍馬ノ佩用セシモノヲ當時ノ志士ニシテ海援隊ノ最高幹部タル管野覚兵衛ニ贈リタルモノ也之ヲ明治四十年故アツテ管野家ヨリ坂本家ヘ返戻アリ爾来坂本家ニ蔵ス

菅野覚兵衛は慶応4年(1868年)3月にお龍の妹の起美と結婚しており、お龍を娶った龍馬とは義兄弟にあたる。明治後は白峰駿馬とともアメリカに渡り留学、帰国後は海軍省に入り海軍少佐となっている。西南戦争勃発前の海軍造船所次長として鹿児島に赴任しており、「弾薬掠奪事件」に関わったために海軍では不遇に終わる。明治17年(1884年)に海軍を辞職、のち福島県安積原野に入植し開拓事業に参加するが道半ばの明治20年(1893年)に死去。享年52。明治40年の坂本家への返還は遺族からと思われる。

なお報道では京博に伝わった坂本家遺品の二刀のうち、埋忠明寿作の本刀だけが重文指定から漏れているかのような記述になっているが、同じ京博所蔵の「坂本龍馬所用陸奥守吉行」についても(焼けた影響により刀姿や刃紋などが異なり、3寸ばかり削られたという傷も見当たらないためか)現在重文指定はされていない。
 本刀も、島村所用のために外れていたということではなく、今回、郷士坂本家7代目当主の坂本弥太郎氏の覚書により「龍馬から菅野覚兵衛、のち坂本家という(釧路火災前の状態を含めた)伝来」が明らかになったために、重文指定の再検討が行われるということである。※ただし京博所蔵の本刀は従来贋作とされてきた。

備州長船盛光
乙女姉が嫁いだ岡上家には、龍馬の形見として大小二振りがあった。太刀は刃長二尺四分「備州長船修理亮盛光」在銘。小刀は刃長八寸二分鵜首造りで備前吉丸銘で、この短刀が「三吉慎蔵日記抄録」で龍馬が鹿児島での旅行の帰りに毛利侯から拝領したという粟田口吉光と見られる(「藩主之ヲ嘉ミシテ短刀<備前吉光>ヲ恵贈シ、且ツ臨時ノ費用ヲ扶クルコトアリ」)。なお一部「土佐義光(土佐吉光)」とするものもあるが、わざわざ長州侯が土佐鍛冶物を贈るとは思われない。
堀川国広極め
無銘二尺六寸三分という太刀もあった。
勝光宗光合作刀
刃長52cmの脇差。銘「備前国住長船次郎左衛門勝光左京進宗光/永正二年八月吉日」。刀身表に「五大力菩薩(ごだいりきぼさつ)」、裏に「八幡大菩薩」の彫刻。昭和4年(1929年)に東京で展示された後に行方不明となっていたが、2015年に北海道在住の坂本家関係者が保存していたことが判明、高知県立坂本龍馬記念館で86年ぶりに公開されることになった。過去、大正5年(1916年)に京都で開催された「坂本中岡両先生遭難五十年記念祭典」、および昭和4年(1929年)に東京で開催された「土佐勤王志士遺墨展覧会」で展示されており、弥太郎の記録では「幼時佩用」「此刀ハ龍馬ガ特ニ愛セシモノ也」と書かれている。勝光は備前長船末期の刀工、同名数代あり。宗光は右京亮勝光の2歳下の弟左京進宗光と思われる。永正二年(1505年)の作。

 お龍

伝相州正宗
未亡人お龍は、龍馬死後に三吉慎蔵を頼っている。3ヶ月後土佐に引き上げる際に、龍馬が自慢していたという伝相州正宗の刀を三吉に贈っており三吉の日記に「龍馬ノ遺物トシテ正宗ノ刀ヲ受ク。中島氏ヨリ之ヲ贈ルナリ」と記載される。※中島氏は土佐の中島作太郎。
備前元重
お龍は、土佐では乙女姉とそりが合わず明治18年(1885年)ごろに横浜に出る。生活が苦しかったので備前元重極めの刀を売りに出している。これは某氏が購入した後宮内省に献上、陸軍中将松永正敏が射撃コンクールで優勝した際に明治天皇から下賜され軍刀に仕込んだ。松永はのち陸軍中将から男爵を叙爵し華族となったがこれを愛用したという。
相州秋広
刃長二尺、大磨上無銘。晩年のお龍が落魄したのを見かね、元広島藩士の西原只之進が面倒を見ている。これに対してお龍は、相州秋広と鞘書きのある無銘刀を送っている。大正元年に売りに出され、旧藩主16代山内豊範の四男山内豊中が買い取っている。
左行秀
龍馬遺愛と称する左行秀の短刀があり田中宇吉が所持していたが、これもお龍から出たものと言われる。口伝にて二尺七寸の刀も持っていたと伝わるが資料には見えない。

 その他

了戒
兄・権平にねだった2口目の刀。慶応3年(1867年)8月8日付けの手紙で、兄に対して了戒二尺三寸をねだっており、代わりとして西洋のなにかご希望のものを贈るとし、とりあえず時計を送っている。しかし権平がこの了戒を渡したのかどうかはわかっていない。

彼御所持の無銘の了戒二尺三寸斗の御刀何卒拝領相願度、其かわり何ぞ御求被成度西洋もの有之候得は御申聞奉 願候。先ハ今持合候時計一面さし出し申候。御笑納奉願候。

陸奥守吉行
二尺二寸(66.7cm)。坂本龍馬記念館所蔵。京都国立博物館所蔵の二尺二寸とは別の吉行で、龍馬所持ではないもの。元は刀剣研究家の小美濃氏が所持していたもので、後に高知の坂本龍馬記念館に寄贈された。同館で常設展示されている。




 龍馬の遺品(兵法目録)

  • 龍馬は、二度目の修行では桶町千葉道場で塾頭を務めており、また「北辰一刀流免許皆伝」を授けられたという。
  • しかし現存する文書では「北辰一刀流長刀兵法目録」(要するに薙刀)しか確認できない。このことから龍馬が「北辰一刀流免許皆伝ではない」「剣の達人ではなかった」などという指摘が多数なされていた。
  • ところが2015年10月、「北辰一刀流」の免許皆伝書を坂本龍馬が取得していたことを示す文書が確認された。北海道の坂本家が同年6月に高知県立坂本龍馬記念館に寄贈した数百点の資料の中から見つかったという。
    この文書を残した坂本弥太郎氏は大変に几帳面な性格だったようで、重要な手紙や覚書などについてはカーボンで複写して手元に残していた。その結果、様々な龍馬遺品の異動状況が明らかになることとなった。京博に寄贈した龍馬遺品目録なども京博には現存せず、弥太郎氏の控えにより新たな事実も明らかになっている。
  • 文書は明治43年(1910年)8月30日付で坂本家7代当主弥太郎氏が龍馬の甥坂本直の妻留に宛てて書いた預かり証の控で、大正2年(1913年)北海道浦臼町で行われた坂本龍馬遺品展に出品するために借りたものを書き記している。
  • そこには秘伝書巻物として、「北辰一刀流兵法箇条目録」、「北辰一刀流兵法皆傳」、「北辰一刀流長刀兵法皆傳」と書かれている。
    ただしこの年月には少し疑問が残る。聖園尋常小学校で開かれた「坂本龍馬遺品展」は、明治37年(1904年)ともされる。この遺品展に合わせ、留依頼による龍馬の肖像画(林竹治郎作)も同年ごろに製作されている。とすると遺品展は少なくとも1904年と1913年の2回行われたことになる。預り証の日付は1910年付けでちょうどこの中間になる。一族間でもあることを考えると、3年後の展示に向けて借りるというのは少し期間が開きすぎているように思われる。
     またこれとは別に明治40年(1907年)には京都翠光館で没後40年の遺品展が開催されている。判明しているだけでも、1904年、1907年、1913年と数年おきに展示が行われている中、3年後のしかも地元北海道浦臼での展示に向けて1910年の預り証が今回見つかったということである。
  • その後、昭和4年(1929年)5月に東京で開かれた「土佐勤王志士遺墨展覧会」の出品目録控えもあり、そちらでは、「附記、千葉周作ヨリ受ケタル皆傳目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」と記されているという。
  • 龍馬の愛刀「陸奥守吉行」は、大正2年(1913年)12月に釧路で大火事が起きた際に焼け、その後再刃し恩賜京都博物館に寄贈されたことがわかっているが、剣術秘伝書についてもこの火災の際に消失し、長刀(薙刀)の秘伝書のみが消失を免れたという。
    この「北辰一刀流長刀兵法目録(薙刀)」は坂本直衛氏(高松太郎の子)により売却されその後シカゴ在住の邦人が所有していたもの。つまり預かり証の日付の1910年から火事が起こった1913年の間に売却されていたことがわかる。なお焼失を免れた「北辰一刀流長刀兵法皆伝」は、のち昭和37年(1962年)に高知県に寄贈される。
  • なお昭和6年(1931年)に恩賜京都博物館に寄贈された際の寄贈品目録の控えにも「千葉周作ヨリ受領ノ皆傳目録ハ於釧路市焼失セリ」と弥太郎の記載がある。目録を記入したのは前年となる昭和5年10月。
  • 以上の時系列を整理すると次のようになる。
    1. 明治31年(1898年)直寛が浦臼に移住
    2. 明治32年(1899年)留および直衛一家が浦臼に移住※この時に遺品も移動
    3. 明治37年(1904年)聖園尋常小学校で「坂本龍馬遺品展」
    4. 明治38年(1905年)弥太郎、釧路で坂本商会を創業
    5. 明治40年(1907年)京都翠光館で没後40年の遺品展
    6. 明治43年(1910年)預り証
    7. 大正2年(1913年)北海道浦臼町で「坂本龍馬遺品展」
    8. 大正2年(1913年)12月釧路大火事で遺品が焼ける
    9. 大正5年(1916年)坂本・中岡両氏五十年記念遺墨品展覧会
    10. 昭和4年(1929年)5月東京青山会館で「土佐勤王志士遺墨展覧会」
    11. 昭和6年(1931年)龍馬遺品を恩賜京都博物館に寄贈
  • なお直寛は、北海道入植のために明治29年(1896年)に設立された合資会社北光社の社長となっている。翌明治30年3月に空知郡ノカナンにあった武市安哉の拓いた聖園第三農場に入植するが、3ヶ月後に社長を辞任し高知に戻る。
  • 直寛は高知の写真館にて「坂本一族記念写真」を撮影した後、一家を連れて明治31年(1898年)に浦臼に移住する。ところが同年11月7日に坂本直が亡くなったため、義姉にあたる留(坂本直夫人)も次男直衛一家とともに翌年浦臼に移住している。
  • この時に龍馬の遺品が北海道に渡ったと思われる。
  • 坂本直寛は明治44年(1911年)没、留は大正4年(1915年)没、直衛は大正6年(1917年)没。
  • この後、龍馬の遺品は坂本直寛と鶴井夫妻の長女直意の婿養子となった坂本弥太郎(浜武弥平の次男)へと伝わった。

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