同田貫(刀工)
同田貫(どうだぬき)
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概要
- 古刀末期、肥後菊池の同田貫(現、菊池市)を本拠地と、玉名村亀甲(現、玉名市)で鍛冶を行ったとする。
- 清国と正国は兄弟で、もとは国勝と上野介信賀と名乗った。
- 延寿派の末流とされる。
同田貫清国
- もとは国勝という。
- 加藤清正から「清」の一字を授かったという。ただし銘を「同田貫清国」と切ったものはない。
清國の一族は木下を称し、伊倉の鍛冶屋町に住したという。
同田貫正国
- 清国の弟で、もとは小山上野介信賀という。加藤清正から「正」の一字を授かったという伝説がある。
- 「肥後州同田抜」「九州肥後同田貫藤原正国」「肥州菊池住信賀」「菊池住同田貫上野介」
- 慶長18年(1613年)11月19日没
- 加藤清正の没後、肥後には細川氏が入るが、その頃にはすでに同田貫鍛冶も勢いを失っており、小山氏も正勝の代まで刀鍛冶をやめていたという。これを復活させたのが正勝で、薩摩伯耆守正幸に師事し、文化3年(1806年)に大和守を受領した。天保11年(1840年)に70歳で没。
- さらにその子である宗廣は通称壽太郎、小山延壽太郎と号した。沼田有宗(水心子正秀の弟子)に師事して名を挙げた。明治4年(1871年)12月に71歳で没。
- またこの実弟が四郎八正頼といい内田家の養子となり砲術で名を成した。壽太郎宗廣の跡は実弟の三郎宗春が継ぎ、その子・小三郎宗秀、その子・束氏と継がれた。
「同田貫」の由来
- 諸説あり定まらない。
- 【村名】:同田貫の嫡流小山家所蔵の系図は、小山同田貫正国の子、秀朝が書いたものでそれには「肥州同田貫荘」とある。
- 【稗方】:同田貫の子孫小山東氏によると、同田貫鍛冶の発祥地は菊池市
稗方 であるといい、同田貫屋敷と伝えられるところがあるという。 - 【斬れ味】:田の畦で試し切りをした際に、死体を両断し田んぼまで貫いたためという。
- 【延寿鍛冶の別称】:菊池氏没落後に延寿鍛冶も離散し、亀ノ甲にいったものが小山同田貫と称したという。
- 【道田郷】:鹿島神宮を尊崇するあまり、同社の摂社である道田郷(みちた)の鉾明神にちなみ道田貫と称したという。※そもそも音が異なる
同田貫(どうだぬき)と胴太貫(どうたぬき)
- 「同田貫」は一般に「どうたぬき」と後半が濁らずに呼ばれる。
- これは小池一夫原作・小島剛夕画の「子連れ狼」に登場する主人公
拝一刀 が使用した架空の刀「胴太貫(どうたぬき)」の影響によるものとされる。往年の名優萬屋錦之介の主演により、1973年~1976年にかけてTV時代劇として放送され人気を博した。
1974年~1977年に放送されたTV時代劇「破れ傘刀舟悪人狩り」でも主人公叶刀舟 が同様に「胴太貫」を使用する。こちらも主人公を演じたのは萬屋錦之介である。他にも三船敏郎の「荒野の素浪人」(1972~)でも「胴太貫」が登場している。
ただし「どうたぬき」読みは明治時代からも確認でき、恐らく講談本の類で広まった呼称が、漫画や映画に採用されたことで認知されたものかと思われる。 - つまり、架空の刀「胴太貫(どうたぬき)」と実在する刀工名「同田貫(どうだぬき)」を混同したものである。
- しかし、刀工集団「同田貫」は地名・同田貫(どうだぬき)から取られており、「どうだぬき」と濁るのが正しいという。
玉名か菊池か
- 刀工集団「同田貫」の一派は、一般に菊池(熊本県菊池市)の同田貫を根拠地とするとされている。一方で、普通に「同田貫」と検索すると、熊本県菊池市ではなく、熊本県玉名市の方が出てくる。「同田貫刀鍛冶の墓」及び「同田貫鍛冶趾記念碑」の石碑も玉名に建立されている。
旧地名は玉名郡彌富村龜甲。また同県阿蘇地方には、洞田貫を姓とする方も居住されているという。また同田貫の刀工は石貫にも移住したといい「石貫同田貫」とも呼ばれる。
- これはどういうことかというと、初代とされる正國の出生地が菊池の稗方にあり、そこが俗に「
洞 田貫ドン」と呼ばれていたのだという。※ただし「どうだぬき」と発音するのではなく「ずだぬき、ずーだぬき」のような発音であるとされる。小山正國の裔孫たる束氏を叩いて此の事を質した所が、同氏の談に菊池郡城北村字稗方といふ所に正國の出生地があるが、其所を里俗は洞田貫ドンと云ふて居るが、(略)卽ち屋敷跡であるから字とか小字とか云ふ程の所でもない。又刀劍の銘に肥後洞田貫と打つたのは正國が此地へ移住した以後の事であるとのことであつた。また此地の洞田貫に就ては肥後国誌には龜甲村里俗洞田貫村と云ふとある。
- つまり、この末裔である小山束氏の話に従えば、出生地は稗方つまり菊池の方であるが、実際には玉名の方に来て鍛冶をしたのだということがわかる。「肥後国誌」を見てみると、以下のように記述されている。また同書の補遺に添付されている地図でも、玉名龜甲村に「同田貫」の地名を見ることができる。
大野荘
龜甲村 高九十三石四斗餘里俗同田貫村ト云
(略)
鍛冶 天正文禄ノ比菊池延壽カ末流此所ニ住シ専ラ刀脇差ヲ製ス兄弟アリ清正矦名ヲ賜リテ清國正國ト銘ヲ書ク又上野介又助抔ト號スル者精錬多シ今世間ニ同田貫ト稱スル刀ハ是等ノ類ヲ云
一派
- 同田貫兵部
- 同田貫又八
- 同田貫右衛門
- 同田貫上野介
幕末
著名刀
- 七星
- 三浦啓之助(本名 佐久間恪二郎)所持。二尺三寸。中心に「七星」と金象嵌。父佐久間象山とともに京都入り。父の死後新選組に入隊。のち脱退し江戸に戻り、刀は有馬某に譲ったという。
- 鍋割り
- 永田正吉所持の同田貫正国作の刀。家康が高天神城を攻めての退却中、一言坂で武田方数名が道を遮った。家康の道案内をしていた永田正吉がそれに向かって突進し、鍋のような兜をかぶっていた兵を兜もろとも切り伏せた。家康が以後鍋割と呼ぶがよろしかろうといったので号す。刃長二尺三寸九分。重ね三分。差表に「九州肥後同田貫藤原正国」、裏に「八月日」と在銘。
- 一言同田貫
- 安永8年(1779年)12月、旗本の窪田某が銘をあてたら進呈すると言ってだしてきた刀を、幕臣で兵学者の平山子竜(平山行蔵)がみごと当ててしまった。窪田は武士に二言なしといって与えるとともに、「一言」と名づけたという。平山子竜は、軍学・槍術・柔術・居合・砲術・水泳・馬術・弓術・棒術など武芸百般に通じ、さらに儒学・農政・土木などにも通じたという。
- 他の現存刀
- 刀
- 銘「九州肥後同田貫藤原正國/南無妙法蓮華經浄池院殿清正公大神儀」熊本県指定有形文化財。
- 脇差
- 銘「九州肥後同田貫上野介」刀身表には蓮華上にサ(観音)サク(勢至)の梵字を彫り、裏には胡摩箸にウーン(愛染明王)の梵字を刻む。熊本県指定有形文化財。
- 刀
- 銘「九州肥後同田貫上野介」個人蔵。初代正国作。玉名市指定の重要文化財。
- 玉名市立歴史博物館所蔵(生森基哉夫妻寄贈)
- 初代正国作:68.7cm
- 清国作:69.5cm
- 脇差11代宗春作:31.7cm
- 玉名市立歴史博物館所蔵(生森基哉夫妻寄贈)
- 刀
- 銘「九州肥後同田貫上野介」。刃長70.5cm、反り1.4cm、総長93.0cm。彫物なし。生ぶ中心、目釘孔1個。王貞治氏(プロ野球選手・監督)寄贈品。九州国立博物館所蔵。九州国立博物館 | 収蔵品ギャラリー | 刀
- 短刀
- 銘「九州肥後同田貫正国」刃長九寸八分強、反り一分五厘。
天覧兜割り
- 同田貫の名を世に知らしめたのは、明治19年(1886年)11月10日に伏見宮貞愛親王の伏見宮邸で行われた試し切りである。
- この天覧兜割りがいつ行われたのかについて混乱がある。例えば榊原鍵吉(さかきばらけんきち)とは? 意味や使い方 - コトバンクで見ると、明治19年と明治20年が混じっているのがわかる。ただしこれらのみが混乱しているのではなく、他の剣術関係の書籍ではたいてい明治20年(1887年)の出来事として記述されている。また日付も11日開催とするものが混じっていたりする。
- ただし官報を見ると、明治19年(1886年)の11月12日の宮廷録事記事により、下記のように1886年11月10日に行われていることが判る。このうち刀による第二鉢試シの榊原鍵吉が用いたのが同田貫とされる。当日昼過ぎ13時半に出門、晩餐もあり帰りは21時半まで楽しまれたという。
行幸次第 一昨十日ハ曩ニ仰出タサレシ通午後一時三十分御出門伏見宮邸ヘ行幸アリタリ御倍乗ハ徳大寺侍從長、供奉ハ吉井宮内次官、及宮内大臣秘書官齋藤桃太郎、侍從子爵東園基愛、侍從岡田善長、侍從補廣橋忠朝、侍從試補子爵田沼望、侍醫原田豊等ニテ御着ノ上、射術、及劍槍ノ鉢試シ、金的競射、席書、能樂ヲ天覧在ラセラレ、皇族、大臣、宮内勅任官ヘ晩餐ノ御陪食アリテ午後九時半頃還幸在ラセラレタリ、當日天覧順序ハ左ノ如シ
第一弓術五寸的、距離十三間半
(略)
第二鉢試シ 刀
榊原鍵吉
速見宗助
上田美忠
第三鉢試シ 槍
兒玉忠時
早川謙
小笠原武英
第四鉢試し 弓
關口源太
(後略)
- 当日、東京府麹町区紀尾井町(現千代田区)の伏見宮貞愛親王邸に明治天皇の行幸があり、そこで弓術、鉢試し、席画、能楽、狂言が催された。
- 「鉢試し」は刀、槍、弓で行われた。刀は榊原鍵吉(直心影流)、逸見宗助(立身流)、上田馬之助(鏡新明智流)が行っている。榊原は幕府の講武所剣術教授方で明治維新期に撃剣興行を催したことでも知られ、逸見と上田は最初の警視庁撃剣世話掛に採用された人物であり、いずれも当時一流の剣術家であった。
- このとき直心影流の榊原鍵吉は「同田貫正次」を用いて、明珍作の十二間筋の兜に切り口3寸5分深さ5分斬り込みを入れ、伏見宮から金10円が下賜された。
伏見宮邸のその後
- この伏見宮邸の地ははもと加藤清正の下屋敷であったが、加藤家の改易後、寛永9年(1632年)8月に井伊家に与えられ、同家では中屋敷として使っていた。
中屋敷 赤坂門内 麹町區紀尾井町(◯千代田區)
拝領寛永九年八月 坪數壹萬四千七拾五坪餘
中屋敷麹町區(◯千代田區)紀尾井町現今伏見宮邸、寛永九年八月或ハ七月十二日、此坪數壹萬四千七拾五坪餘、
- 明治維新後、明治11年(1878年)12月に同地は伏見宮家の賜邸地となり、明治14年(1881年)に日本館が完成、明治24年(1891年)には片山東熊設計による洋館が完成した。関東大震災で被災(全壊2棟、半壊1棟、破損4)するも、再建された。
- 第二次大戦後に伏見宮が皇籍を離脱すると、昭和26年(1951年)に大谷重工業(現、合同製鐵)社長の大谷米太郎氏が1万8032坪を1億7000万円で買い取っていた(後に5千坪を買い増したという)。1964年の東京オリンピックを期に予想される外国人客の受け入れ施設としてホテル建設が計画され、それを大谷氏が受諾したためにホテルニューオータニとなった。
私が現在、力を注いでいるのは元伏見宮邸跡の「ホテル・ニュー・オータニ」の建設である。私がこの土地を購入したのは、朝鮮動乱の終わった頃と記憶している。この土地を某国の大使館が手にいれようとしていたところから、安井さん(元都知事)が「大谷さん一つ買ってくれないか。日本の玄関先に、外国人の町をつくられては困るんだが……」と言うのである。
私は頼まれるままに、将来どうするといったアテもなく男気で買った。実際のところ、同地は「緑地帯」なのでホテルの建設などユメにも考えられなかった。その後、私は穴(防空ごう)だらけの同地を埋め、枯れはてた樹木を植えかえて”玄関口”を整えておいた。
ところが、さきごろ八幡製鉄社長の稲山嘉寛さんから、譲ってくれないかという話が持ち込まれた。八幡としてはここに総合事務所をつくりたいという希望だった。私は「ここは緑地帯だから大きな建物は建たない」と言ったが、「それでけっこうだ」という返事であった。
そこで、この二万坪(六万六千平方メートル)を七十億円で手放すハラをだいたいきめた。ところが、このことを聞いた東京都が「売るくらいなら、一つオリンピックのためにホテルをつくってくれないか」と申し入れてきた。「今の法律では緑地帯だが、八月になれば変わってくる」というのである。そこで稲山さんにその話をしたとこと「それは国家的な仕事だから、やりなさい。私の方はいいですよ」と了解してくれた。しかし、私はホテルにはしろうとである。これまでの仕事のように、経験から割り出せないものがある。そこで、古い知人である大倉喜八郎さんのところへ聞きに行った。大倉さんは「ホテル商売は堅いが、もうからない。だけど、紀尾井町なら場所はいい。ぜひ、おやりなさい」とすすめてくれた。「しかし、私には土地と鉄材はあるが、そんな大きな金はない」と言うと「それだけあれば八分通りできたも同じだ」とホテル・オークラの場合を例に引いて、私をはげましてくれた。私はここでオリンピックのために、ひとはだぬぐハラを決めた。工事は大倉氏の頼みで、大成建設に当たらせることにしたが、その際、同社には「完成までは金のことをいっさい言わない」ことを約束をさせた。
このホテルの重役には、鉄鋼(八幡、富士、日本鋼管)をはじめ証券、商社、弱電機、ビール関係など有名どころ二十数社から出ているが、こうした応援は私の男気を買ってくれたからである。私はホテルのために所有地二万坪のうち一万坪をわずか十三億円に評価して現物出資したが、これを実際に評価すると百億円である。私はお客さんをいいホテルに、安く泊めるために安く手放したわけだが、みんな「大谷がオリンピックにそれほどの気持ちを持っているなら応援しよう」ということになったのだ。
そこへこんどはオリンピック担当大臣だった川島正次郎さん、自民党の伊能繁次郎代議士(同党オリンピック東京大会準備促進特別委員長)から「ホテルをつくってくれるのは、たいへんありがたい。政府が資金面を心配しましょう」という話が持ち込まれてきた。これはありがたい話である。これでもう、とりたててむずかしいことはなくなってしまった。
(私の履歴書)
大谷米太郎は富山県出身の実業家。31歳の時に裸一貫で上京するも仕事が見つからず日雇い人夫となっていたという。その後、(大相撲)稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。「砺波山」(後に改名して「鷲尾嶽」)の四股名で褌担ぎから幕下筆頭にまでなるものの、手の指に障害を負っていたことが原因で幕内に上る事を断念して引退した。
その後、鷲尾獄酒店を立ち上げ酒屋に転身し、結婚を機にさらに儲かる仕事を求めて鉄鋼圧延用のロールを作る東京ロール製作所を大正8年(1919年)に起業。朝鮮戦争による特需で大きな利益を揚げ、特殊鋼製造にも着手し、1939年に大谷製鐵を設立した。昭和15年(1940年)には大谷製鐵・東京ロール製作所・大谷製鋼所が合併し、大谷重工業とした。加えて満州にまで進出し、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれた。昭和39年(1964年)のオリンピック開催が決まると宿泊地不足対策にホテル建設を求める声が高まり、ホテルニューオータニを建設して社長に就任した(元々東急の五島慶太が、当地にヒルトンホテルを建てるため土地を買収しようとしていた経緯もあった)。ホテル開業にあたり、永野重雄や稲山嘉寛、市川忍、山本為三郎、瀬川美能留、松下幸之助、水上達三、今里広記、遠山元一、松山茂助、越後正一ら20人の大物財界人が取締役に名を連ね、一人8万株4000万円を出資して開業にこぎ着けた。
しかし祖業である大谷重工業が経営不振に陥り社長の座を終われ、大谷重工業も八幡製鐵が経営支援に乗り出して実権を失った。ホテルに関しても大谷の前時代的な経営感覚がホテル事業に合致しないとの意見が出たため、翌年には社長を退きパークホテル常務であった岡田喜三郎に任されている。昭和43年(1968年)に脳腫瘍で死去、享年86。
蔵前国技館の建設にあたっては、大谷米太郎が勧進元となり完成にこぎつけた。また浅草寺寶蔵門も、1964年に大谷の寄進によって再建されたものである。また浮世絵のコレクターでも知られ、彼のコレクションはニューオータニ美術館で見ることができた。この美術館は2014年3月23日をもって閉館した。
大谷は不動産王としても知られ、苦楽園(神戸)10万坪、外島(大阪)45万坪、兵庫須磨10万坪、宝塚10万坪、紀州白浜温泉10万坪、大阪堺12万坪余、旧伏見宮邸(紀尾井町)2万坪、旧古河男爵邸(滝野川)1万坪、旧野口遵別邸(熱海)、旧大倉喜八郎別邸(京都祇園閣)10万坪、青森大湊12万坪余、羽田に2万5千坪、深川2千坪、本所300坪など、全国で200万坪を超える数々の土地を所有していたという。大谷は初期に高利貸に泣かされた経験から極端な銀行嫌いで有名であり、不動産資産への過剰投資により流動資産がほとんどなく、土地を担保にした綱渡りの経営でもあった。上記伏見宮邸の土地も、一時期永野重雄に担保として取られていた。
大成建設はもと大倉財閥系(大倉土木組)で、大倉喜八郎の戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」から昭和21年(1946年)に大成建設と改称している。
- ホテルニューオータニの庭園は1万坪(約4万平方メートル)もあり大谷氏が力を入れて整備したもので、とくに佐渡金山から運ばれた赤玉石などが有名である。
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