古今伝授


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 古今伝授(こきんでんじゅ)

古今伝授とは古今和歌集に関する故実や解釈の秘伝を伝えること
二条流歌人であった東常緑が宗祇に伝授したのが始まりとされる


Table of Contents

 古今伝授の太刀

  • 戦国時代末、三条西実隆は当代随一の歌人と評され、その子・公条、孫・実枝も優れたため家職として歌道を伝えた。
  • しかし三条西実枝は、世継となるべき公国が幼かったため弟子である細川藤孝に「返し伝授」を誓わせた上で伝えた。
    たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すことを条件としたという。
  • 慶長5年(1600年)、細川幽斎は丹後田辺城を石田方の軍勢に囲まれるが、歌道の弟子である八条宮智仁親王により後陽成天皇への上奏が行われ、三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され講和が行われた。
  • そして彼らに対して古今伝授が行われ、その時烏丸光広に贈られたのが現国宝古今伝授の太刀」である。

    慶長5年正月25日、八條宮智仁親王、丹後田邊の長岡玄旨(幽齋)を召し、古今和歌集を講ぜしめらる、

    慶長5年7月27日、八條宮智仁親王、西軍の、長岡玄旨(幽齋)を丹後田邊城に圍むを聞き、侍臣大石甚介をして、之を諭し、城を致さしめらる、是日、玄旨、之を辭して、古今集證明状及び和歌を親王に、源氏抄・二十一代集を禁裏に獻ず、

  • 幽斎は公国成人後に歌道を継承しようとするも公国が夭折したため、幽斎は改めて公国の子である実条(実隆孫)に歌学伝授を行ったとされる。

    天正7年6月17日、三條公国、長岡藤孝より古今和歌集の伝授を受く、是日、之に誓紙を納る、
    天正8年7月是年、長岡藤孝、三條公国に古今集の秘訣を伝授す、


 伝来

 二条家

  • 古今和歌集の読み方や解釈を秘伝とする風習は、平安時代末期頃から現れつつあった。鎌倉時代以降公家の家筋が固まり家の家職が分別化されると、勅撰和歌集の理想とされてきた「古今和歌集」の解釈は歌学を家職とする二条家(五摂家の二条家とは別。御子左家俊成流)の秘事として代々相承されるようになった。
    ┬兼家─道長┬頼通─師実─師通(北家嫡流、五摂家)
    │     │
    │     │(御子左家)             (二条家・歌学二条派)
    │     └長家─忠家─俊忠─俊成定家為家─┬二条為氏─為世─為道─為定─為遠─為衡
    │                        │
    │                        │(京極家)
    │                        ├京極為教─為兼
    │                        │
    │                        │(冷泉家・歌学冷泉派)
    │                        └冷泉為相
    │
    │
    │(閑院流)
    └公季─実成─公成─実季─公実─┬実兼       ┌公房(転法輪三条家、閑院流嫡流三条家)
                    │         ├公宣(姉小路家)
                    │(三条家)    │
                    ├実行─公教─実房─┤(正親町三条家)
                    │         └公氏…実継─┬公豊─実豊
                    │(西園寺家)          │
                    ├通季─公通─実宗─公経     │(三条西家)
                    │                └公時…実隆─公条─実枝─公国─実条
                    └実能(徳大寺家)
    
    
  • 藤原北家御堂流である御子左家は、藤原俊成・定家・為家を出し和歌の家としての地位を確立した。
    「御子左(みこひだり)」とは、醍醐天皇の第十一皇子(母は、参議藤原菅根の娘・藤原淑姫)で左大臣に上った兼明親王の通称「御子左大臣」(みこさだいじん、御子=皇子)に由来する。親王の邸宅であった御子左第は、のち藤原道長の六男・藤原長家が伝領したことから長家は「御子左民部卿」と呼ばれた。この流れをくむ藤原氏の系流を御子左家(御子左流)と呼ぶ。
  • 為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていた。為氏の庶弟為教・為相と相続をめぐって不和となり、為教は京極家、為相は冷泉家に分家した。
    冷泉為相の母が阿仏尼で、平維茂の長男である平繁貞の子孫である奥山度繁の娘。
  • 二条為氏の子為世、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(のちの南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(のちの北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立して勅撰和歌集の撰者の地位を争った。
  • 二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまう。
  • 二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者達(二条派)によってこれらの解釈が受け継がれるようになった。

 閑院流

  • 藤原北家、閑院流の始祖である藤原公季は、右大臣藤原師輔の四番目の正妻である康子内親王を母として生まれた。康子内親王の父は醍醐天皇、母は皇后藤原穏子であり、同母弟に朱雀天皇、村上天皇が居る。
  • 生後まもなく母康子内親王が亡くなったことから、幼少時の公季は姉の中宮安子に引き取られ宮中で育てられている。甥に摂政・太政大臣を務めて絶大な権力を振るった道長がおり、公季は内大臣としてその道長政権を支えている。
  • 「閑院」とは藤原冬嗣の邸宅であり、公季がこれを伝領して閑院大臣と号したことから閑院流が始まった。閑院流は孫の公成の娘茂子が白河天皇を産んだほか、4代実季の娘苡子が鳥羽天皇を、5代公実の娘璋子は崇徳天皇・後白河天皇を産むなど歴代天皇の外戚として権力を振るう。
          藤原盛子
            ├──藤原兼家──道長──頼通──師実──師通(北家嫡流、五摂家)
          藤原師輔
    藤原穏子    ├──藤原公季──実成──公成─┬実季─┬公実─┬実兼
      ├──┬康子内親王  (閑院流)      ├頼仁 ├実隆 ├実行(三条家)
    醍醐天皇 ├保明親王              ├慶信 ├保実 ├通季(西園寺家)
         ├朱雀     ┌花山        │   ├仲実 ├実能(徳大寺家)
         └村上─┬冷泉─┴三条        │   │   ├季成
             └円融──一条─┬後一条   │   │   └────璋子 ┌崇徳
                     │      └茂子 └────苡子   ├─┴後白河
                     │        ├──白河   ├──鳥羽──近衛
                     │     ┌後三条   ├──堀河
                     └後朱雀──┴後冷泉  源賢子
    
  • 5代公実の代に、三条・西園寺・徳大寺の三家が分かれ、さらに西園寺家庶流の今出川家までが清華家、三条家庶流の正親町三条家および三条西家が大臣家となって公家中に重きをなした。
  • この三条西家の3代目三条西公保が東常縁と同じ頃に古今伝授を受けており、さらに子の三条西実隆が宗祇から受け継いだ古今伝授は、「御所伝授」として伝わった。

 頓阿・東常縁

  • 頓阿は二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。
    頓阿は二階堂氏(藤原氏、南家藤原武智麻呂流)の二階堂光貞の子とされる。若い頃に比叡山で天台教学を学び、のち高野山でも修行して20歳代後半に金蓮寺の真観に師事し時衆となった。西行の史蹟を慕って諸国を行脚し、隠遁生活を送る。のち二条為世に師事して歌道二条派の再興の祖となった。子の経賢、孫の尭尋、曾孫の尭孝も僧侶で歌人。
  • 二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後は子孫の経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝の弟子に東常縁・尭恵・三条西公保がいる。
    【歌道系図】 ※血縁関係を示すものではない
    
     二条為氏──二条為世──頓阿──経賢──尭尋──尭孝─┬─東常縁
                                │
                                ├─尭恵
                                │
                                └─三条西公保──実隆
    
  • 尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった。東常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行っている。
    東常縁は美濃篠脇城主で、室町幕府奉公衆。京都にあって宝徳2年(1450年)二条派の尭孝の門弟となる。のち8代将軍義政の命を受け関東で転戦している。
  • 古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、時を経るに従い、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国郡上妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。※古今伝授は、二度に渡って行われ、一度目は三島、二度目は三島あるいは美濃郡上であるという。

    是歳 東常縁、古今集秘説を連歌師宗祇に伝授す、

 分派

  • 宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。

    文亀元年9月15日 權大納言三條西實隆、古今和歌集の傳授を連歌師宗祇に受く、

  • 三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。
    【歌道系図】 ※三条西家以外は血縁関係を示すものではない
    
             ┌─三条西実隆──公条──実枝─┬─(公国)─┬─三条西実条
             │               │      │
             │               │      │【御所伝授】
     東常緑──宗祇─┤               └─細川幽斎─┼─八条宮智仁親王──後水尾上皇
             │      【堺伝授】           │
             └─肖柏──┬…               ├─中院通勝
                   │                │
                   │【奈良伝授】          ├─島津義久
                   └─林宗二(饅頭屋宗二)     │
                                    └─松永貞徳
    

 御所伝授

  • 三条西実隆は当代随一の歌人と評された。実隆・公条・実枝の三代はいずれも歌道に優れており、三条西家では家職として歌道を継承した(古今伝授)。
  • 三条西実枝はその子(公国)がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で弟子であった細川幽斎(幽斎玄旨)に伝授を行った。この時、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせたという。

    (天正7年)六月十八日 壬辰、長兵(細川幽斎)來云、今度三条亜相(公国)へ傳授古今、依■義在京、今夜滞留、相談了

  • ところが慶長5年(1600年)、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲された(田辺城の戦い)。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡し古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は、三条西実条、中院通勝、烏丸光広の3名を勅使として派遣し、幽斎の身柄を保護して開城させた。この時烏丸光広に贈られたのが、現国宝古今伝授の太刀」である。
  • 幽斎は八条宮智仁親王、実枝の孫の三条西実条などに伝授を行う。後水尾上皇は1625年(寛永2年)に八条宮から伝受をうけ、以降この系統は「御所伝授」と呼ばれる。

 堺伝授

  • 堺伝授は堺の町人の家に代々受け継がれていったが、歌人でない当主も多く、ただ切紙の入った箱を厳重に封印して受け継ぐ「箱伝授」であった。一方で世間には伝来のない古今伝授の内容が流布され、民間歌人の間で珍重されるようになった。しかし和歌にかわって俳諧が広まり、国学の発展によって古今和歌集解釈が新たに行われるようになると、伝授は次第に影響力を失っていった。




 概要

  • 古今伝授の実態は、次のようなものであるとされる。

    三木(さんもく)は、おがたまの木、めどに削り花、かはなぐさ
    三鳥(さんちょう)は、よぶこどり、ももちどり、いなおほせどり
    三木は三鳥より重し

    おがたまの木はオガタマノキ、めどに削り花のめどはメドハギ、かはなぐさはカワモズク。よぶこどりは筒鳥・郭公、ももちどりは沢山の千鳥、いなおほせどりはセキレイなどと解釈される。※諸説あり

  • しかしこれだけでは何のことか意味がわからない。ものの名前だけであれば余白にでも書けばよく人命を左右するほどの秘密にはならないということで、古来様々な推測が行われている。

 折句

  • 有名なものでは、頓阿と兼好法師のやりとりが知られている。

    よもすずし ねざめのかりほ たまくらも まそでの秋に へだて無きかぜ(兼好)

    よるもうし ねたくわがせこ はては来ず なほざりにだに しばしとひませ(頓阿)

  • これだけでは何の事はないやり取りにすぎないが、これは次のように読み解く。

    もすす
    さめのかり
    まくら
    そての秋
    たて無きか

    • つまり「米給え、銭も欲し」と読み取れる。
  • 頓阿の返歌もこれに答えている。

    るもう
    たくわかせ
    ては来
    ほさりにた
    はしとひま

    • つまり「米はなし、銭少し」というわけである。当時の知識人の言葉遊びではあるが、これらは折句(おりく)と呼び古くより行われてきた。
  • 有名ないろは歌も、ある並べ方をして沓を採ると意味の通る言葉になる。

    いろはにほへ
    ちりぬるをわ
    よたれそつね
    らむうゐのお
    やまけふこえ
    あさきゆめみ
    ゑひもせ

  • つまり「(とが)(罪)なくて死す」というわけである。さらに

    いろはにへと
    ちりぬるわか
    よたれそねな
    らむうゐおく
    やまけふえて
    あさきゆみし
    ゑひもせす

  • ()を津の(こめ)(小女)へ」

 仮名手本忠臣蔵

  • これだけなら単なる偶然の一致ともいえる。しかし江戸時代に起こった赤穂浪士事件を題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の外題が、その意味が当時すでに広く知られていた、または容易に理解することができたことを示している。
  • もちろん「仮名手本」とはいろは歌のことである。つまり、赤穂浪士の数が47人であり、彼らは咎なくて死んだということを暗に示して当時の幕府の対応を批判していると指摘されている。
  • この「仮名手本忠臣蔵」は歌舞伎での人気演目の一つで、これとともに挙げられるほどの人気演目に「菅原伝授手習鑑」という、菅公菅原道真の悲哀を描いたものがある。この「手習鑑」もいろは歌のことなので、無実の罪である意味で使っていることは明白とされる。
    道真が実際に無実であり、そのタタリが当時の宮廷社会において脅威と感じられたことは数々の記録に残る。
    大宰府に流された2年後に道真は延喜3年(903年)2月25日に薨去する。同年4月4日には政敵であった藤原時平が39歳で病死、さらに後、延喜9年(909年)に醍醐天皇の皇子で時平の甥であった保明親王が病死(享年21)。この事態に、延喜23年(923年)朝廷では道真を従二位大宰権帥から右大臣に復し正二位を贈った。
    しかしそれでも怒りは収まらず(と当時の人々は考えた)、保明親王の息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫、享年6)が延長3年(925年)に病死、延長8年(930年)6月には、朝議中の清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出る(清涼殿落雷事件)。さらにそれを目撃した醍醐天皇が体調を崩し、3ヶ月後の9月29日に崩御するに至る(宝算46)。永延元年(987年)には一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られ、正暦4年(993年)5月には贈正一位左大臣、同年10月には贈太政大臣を追贈する。まさになりふり構わぬ恐れぶりである。

 定家のメッセージ

  • こうしたことから、宮廷生活では不遇をかこった藤原定家が、古今伝授に何か深い意味を込めたのではないかということが長らくささやかれている。
  • 同様に定家が選出した「小倉百人一首」も、ある特定の並べ方をするとメッセージが隠されていると指摘する人がいる。

いろは歌の謎

百人一首の謎


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