会津正宗
会津正宗(あいづまさむね)
刀
無銘大磨上(名物 会津正宗)
2尺1寸6分
刃長65.2cm、反り1.3cm
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)
- 相州正宗作
- 享保名物帳所載
会津正宗 磨上長弐尺壱寸六分 不知代 御物
表裏樋、会津を領す蒲生飛騨守氏郷卿 代四百貫に被求 秀行卿へ伝う
家康公へ上る 尾張大納言義直殿へ被進 秀忠公へ上る
又為御遺物御拝領 又源慶老御隠居之刻上る
- 鎬造、庵棟、身幅広く反り浅く、やや大鋒。
- 表裏に樋先の降った棒樋を掻き流す。
- なかご大磨上、栗尻。目釘孔2個。
由来
- 号は会津を領した蒲生氏郷の所持したことから。
来歴
蒲生氏郷
家康
- 蒲生秀行が慶長17年(1612年)に早世すると、遺物として家康に献上される。
義直・秀忠・義直
- 秀忠の薨去により、遺物分けとして寛永9年(1632年)再度義直へ贈られる。
(寛永9年正月)この日御遺物とて、尾邸へ会津正宗の御刀并一休面壁の掛幅、水邸へ切刃貞宗の御さしぞへ、俊成定家両筆の掛幅を賜ふ
御遺物の次第
一、会津正宗御脇指・面壁御掛物圓悟讃 尾張大納言
一、寺沢貞宗御脇指・初祖菩提西王一山 紀伊大納言
一、切刃貞宗御脇指・俊成定家両筆の掛物 水戸中納言
将軍家
- さらに元禄6年(1693年)4月に尾張光友(義直の嫡男、2代尾張藩主)が隠居の挨拶で登城した際に再び将軍家へ献上しており、このことが鞘書きに残る。
元禄六酉年四月廿八日御隠居御禮之時 會津正宗御刀 代金三百枚 貳尺壱寸五分餘 反四分餘 尾張大納言上
廿八日大納言光友卿隱退を謝せられ拜謁あり。會津正宗の刀。圓悟墨跡掛幅。茶入(久我肩衝)。儀刀。馬資金。時服三十獻ぜられ。
(徳川実紀)
- 寛政2年(1790年)4月に上覧。
四月廿四日、左之御道具
上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
一、会津正宗
是ハ蒲生飛騨守氏郷所持、息秀行江
伝、 権現様江上ル、後尾張殿江被遣、
元禄六酉年四月廿八日隠居御礼之時
常憲院様江上ル、
有栖川宮熾仁親王
- 明治維新ののち明治12年(1879年)12月31日に大久保一翁の取次で有栖川宮熾仁親王の所有となる。
三十一日水曜 晴
一、議官大久保一翁入來、徳川家達藏刀之内、會津正宗同家ヨリ到來ニ付、家令より之傅言ヲ以、持参之事、
傅來記
元禄六酉年四月廿八日隠居禮之時
無銘長貳尺一寸五分余
一、會津正宗刀
長張大納言殿上ケ
右者會津城主蒲生飛騨守氏郷所持、秀行へ傅ヱ、東照宮ヘ上、尾張殿ヘ被遣、後、隠居禮之時、常憲院ヘ上ル
明治天皇
- さらに明治18年(1885年)12月26日、明治天皇が有栖川宮邸へ行幸の折に熾仁親王より献上された。
二十六日 午後一時御出門、裏霞が關熾仁親王の第に行幸あらせらる、(略)親王會津正宗の太刀一振及び陶盃・時果等を獻ず、
明治十八年 乙酉
十二月廿六日 有栖川宮邸 麹町霞ヶ関 金千両並銀杯等を給ふ
この「有栖川宮邸」は、現在の国会前庭南地区にかつてあった霞関離宮のこと。ジョサイア・コンドルの設計により明治17年(1884年)に竣工した。明治29年(1896年)に宮内省の懇望により買い上げられ、以後「霞関離宮」と称した。
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