仙台国包(刀工)
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仙台国包(せんだいくにかね)
- 国包の読みは通常「くにかね」とされるが、仙台藩においては「
くにかん 」と呼ぶ。
瑞巌寺の雲居和尚が初代国包に与えた文書「仁沢の偈」が総ふりがなつきで、そこには「くにかん」と書かれているのが根拠となっている。仙台本郷家所蔵
概要
- 文禄元年(1592年)国分若林の野鍛冶の家に生まれる。
- 俗名は本郷源蔵、のちに吉之允。
- のち仙台城下に出る。
- 慶長19年(1614年)藩主伊達政宗の命により上京し、越中守正俊(二代伊賀守藤原金道の弟)の門人となる。
- 大坂の陣では、陣中の臨時鍛冶御用を務める。
- 元和5年(1619年)仙台に帰国し、120石と2人扶持を拝領し、仙台市鍛冶屋敷あたりに鍛冶場を開いたという。
- 寛永3年(1626年)山城大掾受領。
- 寛永13年(1636年)には瑞巌寺の雲居希膺に帰依し、入道して
用恵仁沢 と名乗った。この頃から「用恵」銘も切る。 - 正保2年(1645年)に隠居して家業を子の吉右衛門(2代国包)に譲るがその後も鍛刀を続けている。
- 寛文4年(1664年)12月3日73歳で没した。
逸話
- 伊達政宗が伝正宗の刀を山城大掾国包に命じて脇差に擦り上げさせ、「振分髪」という銘をつけさせたという。
- 3代藩主伊達綱宗は万治3年(1660年)に逼塞を命じられた後に鍛刀を行い、刀工としても作刀している。この時相槌を務めた刀工に国包がいる。しかし年代からすると2代国包の可能性が高いと思われる。
作風
銘
- 「山城大掾藤原国包」、「奥州仙台藤原国包」、「奥州若林住藤原国包」
- 「用恵国包」、「仁沢国包」
著名作
- 刀
- 銘「奥州仙台住山城大掾藤原国包/寛永五年八月吉日」寛永5年は1628年。昭和33年(1958年)2月8日重要文化財指定。大阪府の個人蔵
- 刀
- 銘「山城大掾藤原国包」刃長73.2cm、反り1.2cm。なかご少し磨上。目釘孔3個。太刀銘。一関市博物館所蔵
- 刀
- 銘「奥州仙台住山城大掾藤原国包/寛永五年八月吉日」長67.4cm、反り0.99cm。目釘孔5個、うち3個を埋める。昭和34年(1959年)8月31日宮城県指定の文化財。個人蔵
- 刀
- 銘「用恵国包/正保三年八月吉日」長69.2cm、反り1.5cm。正保3年は1646年。昭和34年(1959年)8月31日宮城県指定の文化財。個人蔵
- 短刀
- 銘「山城大掾藤原国包仁澤用恵(花押)/此時分寛永十五年八月吉日」長28cm、反りなし。昭和34年(1959年)8月31日宮城県指定の文化財。個人蔵
- 薙刀
- 銘「奥州仙台住山城大豫藤原国包作/奥州仙台中納言正宗内大越十左衛門尉」長51.4cm、反り3.3cm。県指定有形文化財
- 刀
- 銘「山城守藤原国包/寛文十年八月日」長74.3cm。二代国包の作。宮城県指定有形文化財
- 薙刀
- 銘「国包」二代国包の作。長45.4cm、反り2.3cm。山城守受領前の作とされる。目釘孔1個。昭和34年(1959年)8月31日宮城県指定の文化財。個人蔵
系譜
- 「国包」はその後も継承され、13代まで続いた。2代以降は通常通り「くにかね」と呼ばれる。
雲居希膺(うんごきよう)
- 江戸時代前期の臨済宗の僧侶
- 天正10年土佐に生まれる。
- 俗名、小浜。父は土佐一条氏の臣。
- 大徳寺賢谷宗良について出家得度し、妙心寺一宙東黙の法を嗣ぐ。
- 塙直之との縁で大坂冬の陣のとき、「鉄蔵主」と名を変えて大坂城に籠城し、捕らえられている。
塙直之は塙団右衛門で知られる。様々な部将のもとで召し抱えられるが、加藤嘉明のもとで鉄砲大将となり関ヶ原の役に出るが、命令を無視して足軽を出撃させたことで嘉明の勘気を蒙り、奉公構いを出されてしまい、妙心寺の大龍和尚のもとに寄宿し仏門に入り「鉄牛」を称した。この時に雲居との縁ができたという。
- その後は松山に滞在し伊予時代の加藤嘉明の帰依を受けるが、寛永7年(1630年)に松山を離れ、諸国行脚に出ている。
- のち仙台藩2代藩主伊達忠宗の再三の招きにより寛永13年(1636年)仙台入りし、松島瑞巌寺を再興した。万治2年(1659年)入寂。
- 諡号「慈光不昧禅師」「大悲円満国師」
関連項目
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