人間無骨


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  1. 鬼武蔵長可の十文字槍
  2. 織田信長所持の刀
Table of Contents

 十文字槍「人間無骨」(にんげんむこつ)

十文字槍
銘 和泉守兼定

  • 和泉守兼定
  • 直刃のけら首から鋒までが一尺二寸二分、横手刃端の見渡しが一尺一寸
  • 表の首に「人間」、裏の首に「無骨」と彫られている
  • 本朝鍛冶考 18巻. [6] - 国立国会図書館デジタルコレクション

    和泉守兼貞ト銘、忠長一尺七寸五分、横長一尺一寸五分、穂長一尺二寸五分、幅一寸二分余、重三分余、
    濃州金山七万石領森勝蔵後号武蔵守源長可天正二年甲戌七月信長公攻勢州長嶋城于時長可十七歳進先登取首二十七級仍号人間無骨
    表ノ彫人間トアリ、無骨トウラに彫、
    按森候世々行列所被爲持之槍也

    なお「古今鍛冶備考」では和泉守兼定、「本朝鍛冶考」では和泉守兼「貞」とする。また寸尺も微妙に異なっており、これは本科と写しとを元に描かれたからだとされる。「古今鍛冶備考」は文政13年(1830年)8月。「本朝鍛冶考」は寛政7年(1795年)7月の奥付があり、出版は嘉永4年(1851年)。

 由来

  • 表の塩首付近には「人間」、裏塩首付近には「無骨」の文字が彫られている。
  • この槍の前では人間の骨など無いも同然という恐るべき意味で、それほどの鋭い突き味を持っていた事から名付けられたとされる。

 逸話

  • 伊勢長嶋の戦いで、森長可はこの槍を振るい27もの首級をあげ、信長をも感嘆せしめた。

    森勝蔵後号武蔵守源長可天正二年甲戌七月信長公攻勢州長嶋城于時長可十七歳進先登取首二十七級仍号人間無骨

    森武蔵守長可が、生年十七歳此の槍を振って、敵の首を取ること二十七級、信長大いに之を賞し、爲に人間無骨の號を入れたものであるといふ。

    天正2年(1574年)7~9月に行われた第三次長島侵攻だと思われる。

  • またある時、首級をこの槍に突き刺し槍を立てて突いたところ、首が十文字を突き抜けて下まで行ってしまったという。

    武州戰争のとき首を獲てこの槍鋒に貫き槍を立て一と突つけば首槍柄を貫き降て鐏下に至る。剛者の所以と雖も、これこの刄の利きなりと聞しことあり。

 来歴

  • 織田信長配下で、「鬼武蔵」と呼ばれるほどの猛将であった森武蔵守長可が使っていた槍。
    父の三左衛門可成も槍の名手として知られ、関兼定の十文字槍を奮い「攻めの三左」という異名で呼ばれた。戦で指が一本欠けており、手足の指を合わせると19本であったため、「十九」という蔑称で呼ばれたともいう。三左衛門可成の長男が可隆、次男が長可、三男が蘭丸成利、四男が坊丸長隆、五男が力丸長氏。
     長男・可隆は初陣で討ち死にし、また同年に父・可成も戦死したため、次男・長可が13歳にして父の跡を次いで金山城主となる。甲州征伐後、海津城20万石を与えられる。蘭丸・坊丸・力丸は本能寺の変で信長とともに討ち死にし、長可も天正壬午の乱の混乱の中、なんとか旧領美濃金山へとたどり着く。秀吉が台頭する中で東美濃を支配し重きをなした。しかしその長可も小牧長久手で討ち死にしたため、六男の忠政が跡を継ぎ、川中島藩を経て美作国津山藩の初代藩主となる。
    林新右衛門通安─┬林長兵衛為忠
            └妙向尼
              ├──┬─森可隆
    森可行─┬森三左衛門可成 ├─森武蔵守長可
        │        ├─森蘭丸成利
        └森惣兵衛可政  ├─森坊丸長隆
                 ├─森力丸長氏
                 │
                 ├─碧松院
                 │ ├────関成次
      尾張一宮城主関成重──│─関成政   ├─┬森長継
                 ├─森忠政─┰於郷 ├関長政【美作宮川藩】
                 │     ┃   └関衆之【津山藩家老】
                 │     ┃
                 │     ┗森長継─┬森忠継【世継】──森長成【津山藩4代】
                 │          ├森長武【津山藩3代】
                 ├─娘(青木秀重室) ├森長俊【三ヶ月藩初代】
                 └─うめ(木下勝俊室)├関長治【備中新見藩】
                            ├森長直【備中西江原藩2代】
                            └森衆利【津山藩5代】
    
  • 津山藩主(のち備中西江原藩を経て赤穂藩)となった森家では参勤交代の先頭にこの名槍を掲げたという。

    按森候世々行列所被爲持之槍也

    森家は川中島藩を経て、慶長8年(1603年)に小早川秀秋が無嗣改易された美作一国を与えられ津山藩を立藩する。しかし嫡男・忠広が子をもうけることなく死に、外孫に当たる関家継(後の森長継)を養子とした。この後、長継、長成、衆利と続くが、乱心で改易されてしまう。御家断絶のところ、隠居中の長継が再興を許され、新たに備中西江原藩2万石(元は長継の隠居料)を与えられた。八男の長直が継ぎ、この長直の代に赤穂藩への復帰を認められ、幕末まで続いた。

  • 肥前平戸藩9代藩主であった松浦静が様々な逸話を「甲子夜話」に書き記している。

    因に云ふ、彼武州、戰に持ちたりし人間無骨と云ひし槍のことは、今坊間なる軍書よみと呼ぶ者も普く云ふなり。是も先年同席せし頃咄合ひたるに、濃州云ふには正しく今に傳たり。即出入に見給ふ玄關に掛てゐる所、其物なりしと答しゆゑ、心づけて見るに成ほど殊に大なる十文字槍なり。立寄て見たけれど流石勤番士の並び居る前を憚れば、濃州に乞ふて其圖を寫せり。(中略)
    四分の處に表に人間と刻り裏に無骨と刻り、莖には和泉守兼定と銘す。又濃州語か、もしや馬谷(軍書よみの名)の話か、今文明ならざるが武州戰争のとき首を獲てこの槍鋒に貫き槍を立て一と突つけば首槍柄を貫き降て(いしづき)下に至る。剛者の所以と雖も、これこの刄の利きなりと聞しことあり。又嘗て濃州語りしは某の家旅行には必此槍を身邊に随ふと。予嘗て西行して淀河を下るとき、濃州も歸路枚方の堤上を旅行せるを船中より看たるに、彼槍を駕の前に持せ行きたりき。

    「武州」は森武蔵守長可、「濃州」は恐らく森忠賛(赤穂藩7代藩主)と思われる。森忠賛は寛政13年(1801年)の隠居後に美濃守に遷任。「馬谷」は軍書よみ(講談師)。「甲子夜話」は松浦静が藩主隠居後の文政4年(1821年)~天保12年(1841年)まで記述。
     松浦静が「濃州」から聞いた(得た)のは、1.人間無骨が今も赤穂藩主家に伝わっていること。2.玄関に立てていること(遠目に確認した)。3.絵図を写した。4.(濃州か馬谷か不明ながら)かつて鬼武蔵が槍を突き立てたとき首が石突きまで突き抜けたこと。5.赤穂藩の参勤交代時にはこの槍を随行させていること(それを淀川河畔枚方辺りで見かけた)。の5点になる。

  • 明治36年(1903年)の第五回内国勧業博覧会において、日本體育會が設けた運動場に併設した體育参考場に「古來ノ武具遊戯具」を並べた。この中に、十文字槍「人間無骨」が含まれている。森長祥子爵所持。

    「人間無骨」  壹本     子爵 森長祥氏所藏
    幅一寸二分、厚サ三分ニシテ、表ニ「人間」裏ニ「無骨」ノ字ヲ刻ス。其ノ鋭利眞ニ其ノ名ニ背カズト云フベシ。

    日本體育會(日本体育会)は、現在の学校法人日本体育大学の前身組織。2012年に「学校法人日本体育会」から「学校法人日本体育大学」に名称を変更した。

    森長祥は、播磨国三日月藩1万5千石の第9代(最後の)藩主である森俊滋の長男。明治維新後に子爵に叙爵された。なぜ「人間無骨」が赤穂藩主家から旧三日月藩主家に移っていたのかは不明。7代森忠賛までは赤穂藩にあったことから、可能性としては、森忠賛の11男で三日月藩6代藩主森長義の養嗣子となって跡を継いだ森長篤の代に移ったのかもしれない。

  • 昭和15年(1940年)遊就館名刀展覧会出品時は森俊成子爵所持。

    四五 槍 銘 和泉守兼定(人間無骨と彫あり) 東京 子爵 森俊成
                   穂長さ一尺二寸七分 身幅一寸二分 横長一尺二寸六分
     十文字槍、鍛板目、小沸つき、刄文は直刄ほつれ、沸附き、砂流しかゝり、穂帽子、横帽子ともに小丸になり少しく掃掛けごころあり、鏨首平に表に「人間」裏に「無骨」と刻あり、莖は生ぶ、長さ一尺七寸五分、鑢は筋違、表に細鏨に「和泉守兼定」と銘がある。
     人間無骨の槍は天正二年織田信長が勢州長島を攻めた時に、濃州金山七萬石を領した森武蔵守長可が、生年十七歳此の槍を振って、敵の首を取ること二十七級、信長大いに之を賞し、爲に人間無骨の號を入れたものであるといふ。

    森俊成は、子爵関博直の四男として生まれ、森家傍系である三日月藩主家の子爵森長祥の養子となり、のち跡を継いで叙爵された。
  • いまも現存し、個人蔵となっている。

 関連

 写し

  • 古くから写しが作られており、写しのほうは現在森家先祖を祀る赤穂大石神社に所蔵されている。

    十文字槍
    銘 赤穂住則之五十一歳鍛焉/天保四巳二月吉日
    号 人間無骨(写)
    赤穂大石神社所蔵

    播州赤穂住則之は、幕末新々刀期の刀工。播磨国赤穂の地で鍛刀した。本名は佐々木三郎兵衛。備前の生まれで、鳥取藩池田家のお抱え刀工であった一貫斎頼之に師事した。

 「森家累代神鎗」

  • 近年、赤穂藩儒であった村上氏の資料(村上家資料)の中に、この人間無骨を描いた「森家累代神鎗人間無骨」が含まれていることが判明した。
    • https://twitter.com/gifukenpaku/status/988249838604058625
      村上中所、その子・村上真輔(号 天谷)、その子・河原駱之輔(号 翠城)は、赤穂藩お抱えの儒学者として森家に仕えた。しかし反対派であった西川升吉らとの軋轢が強まり、村上真輔は文久2年(1862年)に西川一派に襲われ殺害され、子の河原駱之輔も自害に追い込まれた(文久事件)。さらに、村上真輔の一族は明治4年(1871年)に高野山麓において西川一派7名を殺害し仇討ちを果たしている(高野の仇討)。この事件は当時の社会に衝撃を与え、明治6年(1873年)制定の敵討禁止令(明治6年2月7日太政官布告第37号。「仇討禁止令」、「復讐禁止令」とも)発布の契機ともなった。村上氏の子孫が保管していた資料一式は、平成28年(2016年)に赤穂市に寄贈された。

      なお肝心の「人間無骨」の位置は、「本朝鍛冶考」に近い。


 信長所持「人間無骨」


備前長船清光作
織田信長所持

  • 鬼武蔵の「人間無骨」は十文字槍だが、これは備前清光作の刀

 由来

  • 信長が、家臣の差していた長船清光で罪人を試した所、「人間骨無きが如く」斬れたため、それを召し上げ「人間無骨」と名付け差料とした。

 来歴

  • のち出羽天童藩の織田家に伝来しており、信長から信雄、四男・信良の上野小幡藩に伝わり、そこから出羽天童藩織田家に伝わった。
  • 幕末に奥州盛岡藩士の小松原甚左衛門が実見している。

 出羽天童藩

  • 天童織田藩
  • 織田信雄(信長次男、茶筅丸)の四男・織田信良が上野小幡藩主となり、その9代目の織田信美が天保2年(1831年)に天童藩2万3千石の初代藩主となったのに始まる。
  • この縁により、山形県天童市には建勲神社があり祭神は織田信長命となっている。
    • 安土城郭資料館(近江八幡)に保管されている織田信長肖像画は、天童市三宝寺の所有である。寺では肖像画はイエズス会の宣教師であり画家のジョヴァンニ・ニッコロ(Giovanni Nicolao)が描いたものと伝え、それを明治時代に天童織田藩出身の宮中写真師大武丈夫が複写し宮内庁、織田宗家、三宝寺に保管したものである。


 人間無骨

  • 元亀から天正のころに活躍した美濃関の刀工、左近衛権少将氏貞作の平造り脇差
  • 差表に「人間無骨」と彫ったもの。

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