五虎退吉光


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 五虎退吉光(ごこたいよしみつ)

短刀
吉光(号 五虎退)
刃長八寸二分(24.8cm)
重要美術品
上杉家蔵

  • 無反り。
  • 表裏に護摩箸。古剣書には目釘孔が2つあるが、昭和の頃には尻側が埋められ1つになっている。
  • 差表目釘孔下中央に二字銘。
    「五鈷吉光」とあるのは五虎退吉光の誤り。
Table of Contents

 由来

  • 足利義満の遣明使として明に渡った役人(同朋)が荒野で5匹の虎に襲われたが、この短刀で追い払った(退けた)ために付けられたという。帰国後に義満に報告すると「五虎退」という異名を付けた。
  • この出典と思しきものがあるが、どうにも怪しい。しかし参考のために掲載しておく。

    此ノ藤四郎ガ刀仔細アリ。タトヘバ、北山殿義満時代ニ、天龍寺御造立ノ爲、大唐ヘ御舟ヲ遣ハサレケル。御所様近邊ニメシツカハレケル同朋アリケル。渡唐アリテ或ル廣野ヲ通リケル處、虎五疋追ツカケルニ、吉光ガ作ノ刀ヌキフリケルヲ見テ、五匹ノ虎逃ゲ去リケル。歸朝シテコノ由公方様ヘ申上ケル。其ノ所、御所様彼ノ刀ヲ五虎退()ケト御名付アリケリ。

    しかし天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために大覚寺統の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが始まり。暦応2年(1339年)に夢窓疎石を開山に迎え、当初は年号を取って「霊亀山暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという逸話が残る。
     この建立資金調達のために仕立てられたのが天龍寺船であり、康永元年(1342年)8月に元王朝へ渡航し、帰国は康永3年(1344年)であったとされている。この利益(※商売の成否に関わらず”現銭五仟貫文”を納める契約だった)を元に建設が進められ康永2年(1343年)11月に竣工、貞和元年8月29日(1345年9月25日)には、後醍醐天皇七回忌にあわせて落慶供養を迎えた。いっぽう義満は延文3年(1358年)生まれである。
     つまり天龍寺船だとすれば年月に矛盾があり、可能性としては1.天龍寺船ではあったが報告したのは義満だった(つまり昔話をした)。2.天龍寺船ではなく義満の進めた勘合貿易船であった(つまり同時代の話)。などが考えられるが、いずれにしろ詳細を検討するような内容ではない。

  • あるいは、「大唐五虎迯(にげ・にぐ)」の故事にちなんで名付けたとも言う。この場合、故事自体が不明である。

 来歴

  • 同朋から足利義満に伝わり、朝廷に献上された。
  • 長尾景虎(後の上杉謙信)が足利義輝の要請を受け永禄2年(1559年)5月に上洛した際に、正親町帝より拝領した。

    一日、景虎、参内ス、謁ヲ賜ヒテ、天盃竝ニ御劍ヲ下賜シ給フ

    永禄二年五月朔日、景虎参内、龍顔ヲ拝シ、天盃ヲ賜フ、侑スルニ寶劒ヲ以テス、五虎退粟田口吉光ト云

    上杉謙信が、山内上杉家の家督と関東管領職を相続し名を上杉政虎と改めたのは永禄4年(1561年)閏3月、法号「不識庵謙信」としたのは元亀元年(1570年)。

  • 明治14年(1881年)に明治天皇が山形に行幸した際にこの「五虎退」を上覧している。また上杉家の刀剣に夢中になるあまり、予定を繰り延べ一日延泊したという逸話が伝わる。
  • 昭和12年(1937年)12月24日重要美術品指定、上杉憲章伯爵所持

    4169 短刀 銘吉光 腰刀拵(柄ナシ) 伯爵上杉憲章
    (昭和12年文部省告示第434號)

  • 現存、個人蔵。
    ※時折、米沢市上杉博物館で展示公開される。非常設展示。


 「十虎退」

  • 明治14年(1881年)10月2日、明治天皇が山形に行幸した際に上杉家の重宝が上覧され、この「五虎退吉光」も天覧に供した。

    夕刻、行在に還御。斉憲名刀二口を獻ず。また上杉家の寶器、古書畫、其他郡内物産を陳ねて御覧に供へり。
     
     行在所に 列の品目、左の如し。
    (略)
    上杉謙信着料品
    一、五虎退吉光の御脇差 一口
     是は同人、再参内の節、
     正親町帝より拝領
    (略)
     以上、上杉茂憲所藏出陳

    献上したのは、名物徳用守家」と備前三郎国宗

  • この時明治天皇は、孝明天皇遺愛の吉光を携行されており、随行していた本阿弥某を側に召し、どちらの出来がいいかお尋ねになったという。本阿弥が「先帝御遺愛の吉光が五虎退よりも優れております」と奉答すると、「五虎退より優れているなら十虎退じゃのう」と御満悦であったという。

    今般御巡幸に御携帯に相成りし先帝御拵付の粟田口吉光の御寳刀も武尊公が正親町帝より御拝領の五虎退の吉光と御手づから御比較に相成候處、刄葉銘字とも寸分差異なく誠に同様の物にて其優劣を本阿彌に鑑定被命候處御所持の御刀は少敷數勝れたる出來物に候よし誠に天機麗はしく五虎退と五虎退併せて十虎退と可稱よし被仰出候よし、


  • こちらがその「十虎退」の話の元になった文章のようだ。ここにははっきりと一日延泊した旨書かれている。

    明治十四年東北御巡幸の砌、米澤へ御駐輦の際、舊藩主上杉家より重代の刀劍、武器類を天覧に供し奉りたる處、殊の外叡感に叶ひ天機麗はしく、遂に一日の御泊りを二日に御延ばしに相成り、御食事の間にも、又夜の更くるも知らで飽かず御上覧あらせられたる御模様は、左記宮島誠一郎氏より原三右衛門氏宛の書狀により拝察出來る。
    (略)
     
    亦荻侍從より承り候處 聖覧に被供候、御刀劍甲冑共一々御感慮に相成。帝室にも桂宮には古代名劍も所藏有之候處、衣冠束帯に御用ひのものにて柔軟の處、武家は格別如何にも大豪剛莊のものなりと仰候由、且又今般御巡幸に御携帯相成りし先帝御拵付の粟田口吉光の御寶劍と、武尊公(上杉謙信)正親町帝より御拝領の五虎退吉光と御手親ら御比較に相成候處、尺寸と云ひ刀葉刀とも寸分無相違誠に同様の物にて、其の優劣を本阿彌に鑑定被命候處、御所持の御短刀は少々優れたる出來物に候由、誠に 天機麗はしく十虎退と可稱由仰出され候由
    (略)
     
    右の書狀にて明らかなるが、近代の美談にて米澤人士が如何に感激せしかは、私共にも容易に想像されるのである。
    之に關聯して宮中御劍係松平頼平子爵は、左(※後述)の如く記述されてゐる。
     
    明治十四年東北御巡幸に際し米澤行在所に於て上杉家より天覧に供し奉りたる刀劍類其數頗多く又殊の外叡慮に叶ひ當日は深更迄燈下に御叡觀遊ばされたるのみならず翌十月三日は更に一日間の御駐輦を仰出され終日御叡覧飽かせ給はず御食事中にさへ尚玉座の左右に短劍を陳列せしめて御覧相成りたる由宮島誠一郎氏の直話也
    ※下線、()内注釈は引用者が加えた。

  • 結局1日延泊したというのは同行した宮島誠一郎の話(ただし「荻侍從より承り候處」)によるようだが、宮島は松平頼平子爵にも詳しく話しておりどうやら勘違いではなさそうである。しかし公式記録類では翌3日は出発しており矛盾する。宮島誠一郎の略伝を見ればわかるように、単純に記憶間違いを犯すような人物ではないため、公式記録は元の予定を記しただけ(実際には米沢で1日延泊した)なのかもしれない。
    荻侍從は荻昌吉のことだと思われる。荻家は肥後細川家の家臣。荻昌吉は元田永孚の門人となり、のち慶應義塾に学ぶ。明治7年(1874年)宮内省に入り、侍従兼主猟官として明治天皇に仕え、明治26年(1893年)に退官した。
     孫が映画評論家の荻昌弘。

    宮島誠一郎は元米沢藩士で、明治期の政治家。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。父は米沢藩右筆で五十騎組・宮島吉利(号 一瓢)。
     宮島誠一郎は奥羽列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。
     明治期には官僚、政治家としても活躍した。明治3年(1870年)侍詔下院出仕、明治4年(1871年)左院大議生、明治5年(1872年)左院少議官、明治8年(1875年)権少内史、明治9年(1876年)修史局御用掛などを経て明治12年(1879年)に兼宮内省御用掛、明治19年(1886年)に宮内省華族局主事補、明治21年(1888年)に爵位局主事補。明治29年(1896年)貴族院議員。
     のち熱心に米沢藩復権運動を行う。吉井友実や山岡鉄舟ら天皇側近を通じて岩倉具視へも工作を行い、ついに明治13年(1880年)5月18日、上杉斉憲が従四位に復位し、幕末以来の米沢藩の雪辱が果たされた。その後も宮島は斉憲の昇叙運動を続け、明治22年(1889年)にはついに斉憲は従三位に昇進、宮島は上杉家から謝儀として金35円を贈られている。しかし昇叙1ヶ月後の同年5月20日に、斉憲は享年70で死去。
     宮島は幕末から明治維新期にかけて長く一線で活躍するとともに、自らの活動や著名人との交流に関して厖大な日記・記録を残しており、宮島自身のみならずこの時代の事件や著名人を研究する上で欠かせない史料となっている。これらの史料群は早稲田大学に2500点、国立国会図書館に2100点が収蔵されており、それぞれ『宮島誠一郎文書目録』(早稲田大学図書館編)『宮島誠一郎関係文書目録』(国立国会図書館)が作成されている。
     また息子の宮島詠士も明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)として高名。

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