五虎退吉光
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五虎退吉光(ごこたいよしみつ)
- 粟田口藤四郎吉光作
- 「五虎退の御剣」
- 「上杉家御手選三十五腰」のひとつ
- 無反り。
- 表裏に護摩箸。古剣書には目釘孔が2つあるが、昭和の頃には尻側が埋められ1つになっている。
- 差表目釘孔下中央に二字銘。
「五鈷吉光」とあるのは五虎退吉光の誤り。
由来
- 足利義満の遣明使として明に渡った役人(同朋)が荒野で5匹の虎に襲われたが、この短刀で追い払った(退けた)ために付けられたという。帰国後に義満に報告すると「五虎退」という異名を付けた。
- この出典と思しきものがあるが、どうにも怪しい。しかし参考のために掲載しておく。
此ノ藤四郎ガ刀仔細アリ。タトヘバ、北山殿義満時代ニ、天龍寺御造立ノ爲、大唐ヘ御舟ヲ遣ハサレケル。御所様近邊ニメシツカハレケル同朋アリケル。渡唐アリテ或ル廣野ヲ通リケル處、虎五疋追ツカケルニ、吉光ガ作ノ刀ヌキフリケルヲ見テ、五匹ノ虎逃ゲ去リケル。歸朝シテコノ由公方様ヘ申上ケル。其ノ所、御所様彼ノ刀ヲ五虎
退 ケト御名付アリケリ。
しかし天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために大覚寺統の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが始まり。暦応2年(1339年)に夢窓疎石を開山に迎え、当初は年号を取って「霊亀山暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという逸話が残る。
この建立資金調達のために仕立てられたのが天龍寺船であり、康永元年(1342年)8月に元王朝へ渡航し、帰国は康永3年(1344年)であったとされている。この利益(※商売の成否に関わらず”現銭五仟貫文”を納める契約だった)を元に建設が進められ康永2年(1343年)11月に竣工、貞和元年8月29日(1345年9月25日)には、後醍醐天皇七回忌にあわせて落慶供養を迎えた。いっぽう義満は延文3年(1358年)生まれである。
つまり天龍寺船だとすれば年月に矛盾があり、可能性としては1.天龍寺船ではあったが報告したのは義満だった(つまり昔話をした)。2.天龍寺船ではなく義満の進めた勘合貿易船であった(つまり同時代の話)。などが考えられるが、いずれにしろ詳細を検討するような内容ではない。
- あるいは、「大唐五虎迯(にげ・にぐ)」の故事にちなんで名付けたとも言う。この場合、故事自体が不明である。
来歴
- 同朋から足利義満に伝わり、朝廷に献上された。
- 長尾景虎(後の上杉謙信)が足利義輝の要請を受け永禄2年(1559年)5月に上洛した際に、正親町帝より拝領した。
一日、景虎、参内ス、謁ヲ賜ヒテ、天盃竝ニ御劍ヲ下賜シ給フ
永禄二年五月朔日、景虎参内、龍顔ヲ拝シ、天盃ヲ賜フ、侑スルニ寶劒ヲ以テス、五虎退粟田口吉光作ト云
上杉謙信が、山内上杉家の家督と関東管領職を相続し名を上杉政虎と改めたのは永禄4年(1561年)閏3月、法号「不識庵謙信」としたのは元亀元年(1570年)。
- 現存、個人蔵。
※時折、米沢市上杉博物館で展示公開される。非常設展示。
「十虎退」
- 明治14年(1881年)10月2日、明治天皇が山形に行幸した際に上杉家の重宝が上覧され、この「五虎退吉光」も天覧に供した。
夕刻、行在に還御。斉憲名刀二口を獻ず。また上杉家の寶器、古書畫、其他郡内物産を陳ねて御覧に供へり。
行在所に 列の品目、左の如し。
(略)
上杉謙信着料品
一、五虎退吉光の御脇差 一口
是は同人、再参内の節、
正親町帝より拝領
(略)
以上、上杉茂憲所藏出陳
- この時明治天皇は、孝明天皇遺愛の吉光を携行されており、随行していた本阿弥某を側に召し、どちらの出来がいいかお尋ねになったという。本阿弥が「先帝御遺愛の吉光が五虎退よりも優れております」と奉答すると、「五虎退より優れているなら十虎退じゃのう」と御満悦であったという。
今般御巡幸に御携帯に相成りし先帝御拵付の粟田口吉光の御寳刀も武尊公が正親町帝より御拝領の五虎退の吉光と御手づから御比較に相成候處、刄葉銘字とも寸分差異なく誠に同様の物にて其優劣を本阿彌に鑑定被命候處御所持の御刀は少敷數勝れたる出來物に候よし誠に天機麗はしく五虎退と五虎退併せて十虎退と可稱よし被仰出候よし、
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