丙子椒林剣
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丙子椒林剣(へいししょうりんけん)
直刀
刃長65.8cm
四天王寺所蔵、東京国立博物館寄託
- 上古刀
- 切刃造りで、反りのない直刀。現代の刀剣用語では「大刀」に当たる。
※「剣」は両刃で左右対称形のもの。
- 中心四寸六分、刃長二尺一寸五分。
- わずかに内反り、切刃作り、魳切先。
- 佩き表の鎺元近くに、「丙子椒林」と金象嵌。
由来
- 腰元の平地に隷書体の「丙子椒林」の4字が金象嵌で表されていることによる。
- 「丙子椒林」の解釈には諸説あるが、古くは大江匡房が「丙毛槐林」とし、丙毛は蘇我馬子、槐林は大臣の意であると読んでいた。
聖徳太子御劔銘四字事、丙毛槐林、吉切槐林、是切守屋大臣之頸也
(江談抄)
- しかし新井白石がこれを「丙子」は作刀された年の干支、「椒林」は作者と解釈し、現在ではこの通りに解釈するのが一般的である。
聖徳太子劔銘ノ事ハ、江談抄ニモ見エタリ、過ギニシ比、天王寺ニテ其丙毛槐林劔ト、七星劔ナド云フ物ヲ見侍リ、其形ハ即チカタナノ制ニテ兩刄ナルニハアラズ、丙毛槐林ト云フモノ、刄ノ長サ二尺一寸五分、闊サ八分許、莖ノ長サ四寸五分、其志乃岐ノ所ニ金鑲ニテ銘四字アリ、(略)但シ刀毛槐林ト云フ事ハ、其銘セシ字ニヨリテ此名アルナリ、(大江)匡房卿ノ説ニハ、守屋大臣ノ頸ヲ斬ルノ義也ト見ユ、又法隆寺藏太子傳ノ抄ニハ聖譽抄ト云フ丙毛槐林トハ、馬子大臣ト云義也、又ハ蝦夷大臣ト云義トモ見エタリ、スベテ此等ノ説イカヾアルベキ、我見シ所ハ、ソノ銘ハ漢篆ナド云フモノヽ體ニシテ、正シク丙子椒林ノ四字也、丙子トハ此カタナ造レル年ヲ誌シ、椒林ハ刀ヲ造レル工ノ姓名ナルモ知ルベカラズ、椒姓ハ姓苑ニモ見エテ侍ルメリ、
(本朝軍器考)
※「本朝軍器考」は宝永3年(1706年)に将軍世子家宣より命じられ宝永6年(1709年)刊行したものと見られている。往年江府湯嶋ニテ、聖徳太子ノ像ヲ開帳セシ時、件ノ劔を持來レリ、其時篆書知リタル人ノ見シモ、疑モナク丙子椒林ノ文字ナリト云ヘリ
伝来
- 室町期にはすでに柄や鞘がなく、刀身だけとなっていた。
- 池田綱政が参勤交代の道中を記した「丁未旅行記」にも登場する。
阿倍野の松原を通るに。小町が墳とて幽かなる竹篁の中に在り。程なく万代の池を見て天王寺の裏の門より入りぬ。本堂とは太子の十六歳の木像なり。七堂伽藍残りなく見て。蓮池の傍らなる六坊の中明浄院と云ふ法師の寺に入り。暫時涼みぬ。此主僧は過にし年爰に詣で侍りける折。此處彼處案内せし法師なり。寶藏へ具して寶物見ぬものもあれば見せたき由を談れば。實に年久ければ慰めにも見よとて。案内して伴い行く。様々あれば書付て後のなぐさめにもと。傍らにて疂う紙矢立取出して書付侍りぬ。
一、丙毛塊林 (ママ)の太刀。(二尺二寸。鎺の上に此文字。古文字金ざうがんにてあり。守屋が首打たるよし)。
一、七曜の太刀。(二尺五寸。鎺より切先まで星雲。鎺本に裏表に上下龍金ざうがんにてあり。太子の太刀なり)。
丁未は寛文7年(1667年)。京都を出たあと七条から伏見に下り、川船に乗り大阪へ下るが、折悪しく西風が強いため風待ちとなる。そこで年来希望であった住吉や四天王寺へと詣でることにする。四天王寺を詣でた後は新清水寺(上町台地の端で当時は大阪湾を望む眺望で知られた)で涼んだ後、今宮を通って船で宿泊。翌日は風も良くいったんは出たもののすぐに風が悪くなりなんとか和田岬にたどり着く。近かったため須磨寺に赴き小枝や平敦盛像などを見ている。須磨を出た後は牛窓までまた船に乗っている。
上述した通り、この時代には「丙毛槐林」と読んでいた。なお冒頭の「小町が墳」は現在大阪市阿倍野区王子町4丁目3-29にある小町塚のことを指している。
- のち新井白石が拝見し、栗原信充は写生をしている。
- 所蔵する四天王寺でも研磨の議が三回も起こったが、いずれもおみくじを引いた所「不可」と出たためそのままになっている。
- 終戦後、初めて小野光敬の手で研磨された。
- 昭和27年(1952年)3月29日、新国宝指定。
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