三好下野入道
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三好政康(みよしまさやす)
戦国時代の武将
右衛門大輔政生
下野守政康、政勝、入道宗渭
号 釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)
- 三好政長(宗三)の子。
- 三好政勝(一任斎、為三入道)は弟とされる。
- 三好三人衆のひとり。
- 名は、初め右衛門大輔政勝、次いで下野守政生(まさなり)、永禄8年(1565年)には出家し釣竿斎宗渭(ちょうかんさい そうい)と号した。一般には「三好政康」として知られる。
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生涯
- はじめ細川晴元の家臣として仕え、一族の三好長慶と争うが、後に和解勧告に応じ臣従。
- 弘治元年(1555年)の丹波八上城攻めや永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に参陣して武功を挙げた。
- 長慶の死後は甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。
- 次第に畿内の主導権をめぐり久秀と三人衆との関係は悪化。
- その後永禄11年(1568年)9月に織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、義継・久秀らが織田氏に接近する一方で三人衆は信長との敵対の道を選んだが、9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、政康も城主であった山城木津城から退いた。以後は石山本願寺や信長と不仲となった義昭らを巻き込み信長との抗争は激化したが、畿内での兵乱(元亀兵乱)が信長の優位で決着すると政康の動向は不明となった。
数寄者
刀剣鑑定家
- 釣竿斎(政康)こと三好下野守は、刀剣の鑑定に優れ、名物「西方江」、「大般若長光」、「鷲の巣行光」、「法城寺の薙刀(太閤御物刀絵図所載)」を所有した。
- 釣竿斎(政康)は、刀剣鑑定を本阿弥光心とその子本阿弥光刹に学び刀剣鑑定を能くする(光刹は本阿弥光徳の父、本阿弥光悦の叔父)。
- 細川玄旨(幽斎)、宮木入道、松永右衛門佐(久通)、篠原岫雲斎(長房)、岩主慶友などが釣竿斎の刀剣鑑定の弟子であるとされる。
三好下野入道聞書
三好下野守口述、細川幽斎編とされる刀剣鑑定書
三好下野入道口伝
和鋼博物館蔵(島根県安来市)
- 永禄年間の成立と見られる。
- 三好下野入道が口述したものを、弟子(細川幽斎か)が筆記したものとされる。
- 「能阿弥本銘尽」
三好清海入道
- なお、豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳という高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せいかい)という人物が政康の後身という俗説がある。
- また講談に登場する真田幸村の部下の「真田十勇士」の1人である「三好清海入道」のモデルになったとされる。
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