三十六歌仙
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三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)
藤原公任の「三十六人撰」に載っている平安時代の和歌の名人
Table of Contents |
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概要
- 藤原公任の「三十六人撰」は三十六人歌合とも呼ばれている。
藤原公任は藤原北家小野宮流、正二位・権大納言。優れた学才により一条天皇の治世を支え、藤原斉信(大納言)、源俊賢(権大納言)、藤原行成(権大納言)とともに「一条朝の四納言」と称された。詩(漢詩)・歌(和歌)・管弦のすべてにすぐれた才能を見せ、道長に対して自らの才能を誇示した「三舟の才」の逸話が有名。大納言公任として小倉百人一首にも採られる(55番)。
- これは、人麿から中務まで36人の歌人を選んだ上で、上巻1番目の人麿と下巻1番目の貫之、上巻2番目の躬恒と下巻2番目の伊勢と、2人ずつ組にして150首を並べているためである。
上巻 下巻 1番 人麿 1番 貫之 2番 躬恒 2番 伊勢 … …
- なお各巻頭2人ずつの人麿、躬恒、貫之、伊勢の4人、および巻末の兼盛、中務の2人の計6人についてはそれぞれ十首を、また、残り30人の歌人についてはそれぞれ三首を選出している。
一覧
他の歌集などへの選出者についても記載
【六歌仙】:「古今和歌集」序文の六人の歌人 (3名) ※人麿・赤人の両名は歌聖と呼ぶ。
【女房】:女房三十六歌仙 (5名)
【百人一首】:百人一首選出 (25名)
【六歌仙】:「古今和歌集」序文の六人の歌人 (3名) ※人麿・赤人の両名は歌聖と呼ぶ。
【女房】:女房三十六歌仙 (5名)
【百人一首】:百人一首選出 (25名)
番 | 名前 | 歌数 | 六歌仙 | 女房 | 百人 一首 | |
【上巻】 | ||||||
1 | 人麿 | 柿本人麻呂 | 十首 | 歌聖 | 3番 | |
2 | 躬恒 | 凡河内躬恒 | 十首 | 29番 | ||
3 | 家持 | 大伴家持(中納言家持) | 三首 | 6番 | ||
4 | 業平 | 在原業平 | 三首 | ○ | 17番 | |
5 | 素性 | 素性法師 | 三首 | 21番 | ||
6 | 猿丸 | 猿丸大夫 | 三首 | 5番 | ||
7 | 兼輔 | 藤原兼輔 | 三首 | 27番 | ||
8 | 敦忠 | 藤原敦忠 | 三首 | 43番 | ||
9 | 公忠 | 源公忠 | 三首 | |||
10 | 斎宮 | 斎宮女御(徽子女王) | 三首 | ○ | ||
11 | 宗于 | 源宗于 | 三首 | 28番 | ||
12 | 敏行 | 藤原敏行 | 三首 | 18番 | ||
13 | 清正 | 藤原清正 | 三首 | |||
14 | 興風 | 藤原興風 | 三首 | 34番 | ||
15 | 是則 | 坂上是則 | 三首 | 31番 | ||
16 | 小大君 | 小大君(三条院女蔵人左近) | 三首 | ○ | ||
17 | 能宣 | 大中臣能宣 | 三首 | |||
18 | 兼盛 | 平兼盛 | 十首 | 40番 | ||
【下巻】 | ||||||
1 | 貫之 | 紀貫之 | 十首 | 35番 | ||
2 | 伊勢 | 伊勢 | 十首 | ○ | 19番 | |
3 | 赤人 | 山部赤人 | 三首 | 歌聖 | 4番 | |
4 | 遍照 | 僧正遍昭 | 三首 | ○ | 12番 | |
5 | 友則 | 紀友則 | 三首 | 33番 | ||
6 | 小町 | 小野小町 | 三首 | ○ | ○ | 9番 |
7 | 朝忠 | 藤原朝忠(中納言朝忠) | 三首 | 44番 | ||
8 | 高光 | 藤原高光 | 三首 | |||
9 | 忠岑 | 壬生忠岑(忠峯) | 三首 | 30番 | ||
10 | 頼基 | 大中臣頼基 | 三首 | 49番 | ||
11 | 重之 | 源重之 | 三首 | 48番 | ||
12 | 信明 | 源信明 | 三首 | |||
13 | 順 | 源順 | 三首 | |||
14 | 元輔 | 清原元輔 | 三首 | 42番 | ||
15 | 元真 | 藤原元真 | 三首 | |||
16 | 仲文 | 藤原仲文 | 三首 | |||
17 | 忠見 | 壬生忠見(忠視) | 三首 | 41番 | ||
18 | 中務 | 中務 | 十首 | ○ |
歌人
- 主な三十六歌仙
斎宮女御(さいぐうのにょうご)
- 徽子女王(きしじょおう)。
- 式部卿宮・重明親王の第1王女で、醍醐天皇の皇孫にあたる。母の藤原寛子は藤原忠平の娘。
- 承平6年(936年)、急逝した斎宮・斉子内親王の後を受け朱雀天皇朝の伊勢斎宮となる。天慶8年(945年)母の死により17歳で退下(たいげ)。次いで同母妹の悦子女王が伊勢斎宮となっている。
- 天暦2年(948年)、叔父・村上天皇に請われて20歳で女御となる。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、「斎宮女御」と称され、また局を承香殿としたことから「承香殿女御」、あるいは父・重明親王の肩書から「式部卿の女御」とも称された。
承香殿(じょうきょうでん)は平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。七殿の中では弘徽殿についで格式の高い殿舎とされ、女御などが居住し、また醍醐天皇の時代に古今集が編纂された。
- 父譲りの和歌と琴の天分は名高く、ことに七弦琴の名手であったといわれる。康保4年(967年)に村上天皇が崩御すると一人娘の規子内親王と共に里第(内裏外の邸宅)で暮らした。
- 一人娘の規子内親王も27歳で円融天皇の斎宮に選ばれると、翌貞元元年(976年)の初斎院入りに徽子女王も同行している。さらに貞元2年(977年)、円融天皇の制止を振り切って斎宮と共に伊勢へ下向し、前例のないこととして人々を驚かせた。
- 前斎宮としては平城天皇妃となった朝原内親王以来の皇妃であり、また母娘2代の斎宮となったのも酒人内親王、朝原内親王以来であった。
光仁天皇の皇后である井上内親王(のち廃位、死後皇后を追号)、桓武天皇妃の酒人内親王、平城天皇妃の朝原内親王は母娘三代に渡り斎宮退下後に入内を果たした。なお斎宮退下後の入内は徽子女王で最後となる。
- 永観2年(984年)、円融天皇の譲位で規子内親王が斎宮を退下すると、翌寛和元年(985年)共に帰京するが、この頃既に徽子女王は病身であったらしく、同年薨じた。従四位上、享年57。
- 斎宮退下後に入内し、さらに斎宮となった娘に付き添って伊勢に下ってしまうなどの逸話から、「源氏物語」に登場する六条御息所のモデルとされている。
- 歌仙絵においても際立った存在感を示し、佐竹本では一人くつろいだ袿姿で慎ましく顔を伏せ、深窓の姫君らしい気品漂う姿が華やかな色彩で美しく描かれている。大正8年(1919年)に佐竹本が切断後に売却された際には、六歌仙の小野小町を上回る最高額で落札された。
- 「佐竹本三十六歌仙絵」を参照
小大君(こおおきみ)
- 「こだいのきみ」とも。系譜が伝わらず父母については不明。
陽明文庫本『後拾遺和歌集』勘物によると、父を重明親王、母を藤原忠平の娘とするが確証はないとされる。
- 三十六歌仙、女房三十六歌仙。
- はじめ円融天皇の中宮藤原媓子に女房として仕え、のち三条天皇(居貞親王)の東宮時代に下級の女房である女蔵人(にょくろうど)として仕え、三条院女蔵人左近、東宮左近とも称された。
- 藤原朝光と恋愛関係があったほか、平兼盛・藤原実方・藤原公任などとの贈答歌がある。
藤原高光(ふじわら の たかみつ)
- 藤原北家九条流、右大臣・藤原師輔の八男。母は醍醐天皇の第十皇女である雅子内親王。
同母弟に為光(従一位・太政大臣)。異母きょうだいに 伊尹(摂政・太政大臣。孫に行成。子孫は世尊寺家)、兼通(従一位、関白太政大臣)、安子(村上天皇中宮、冷泉天皇・円融天皇生母)、兼家(従一位・摂政・関白太政大臣。道長の父)、登子(重明親王室)、愛宮 (源高明室)、公季(従一位・太政大臣。閑院流祖)ら。
- 従五位上・右近衛少将。多武峰少将入道とも。
- 名門の生まれで、天暦9年(955年)従五位下をはじめに天徳4年(960年)には右近衛少将にのぼるが、父・師輔が死ぬと比叡山延暦寺の横川の良源の下で出家、のち横川を去り多武峰に移り住んている。法名は如覚。
- 藤原氏の中心的人物であった師輔の子息の出家は当時も衝撃を持って受け止められ、「多武峯少将物語」など多くの物語に高光の出家に関する逸話が残る。
柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ)
- 飛鳥時代の歌人。
- 「人麿」とも。平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
- 山部赤人とともに「歌聖」と呼ばれ讃えられている。
かのおほむ時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。
(古今和歌集 仮名序)
- 柿本氏は、第5代孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たるが、人麻呂の出自および官位については同時代の文献に記載されておらず不明な点が多い。
- 天武朝、持統朝に歌人として活躍したと見られている。
山部赤人(やまべ の あかひと)
- 大山上・山部足島の子とし、子に磐麻呂がいたとする系図がある。
- 官位は外従六位下・上総少目。
- 聖武天皇時代の宮廷歌人だったとされる。
- 紀貫之は「古今和歌集」の仮名序において、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」とし、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれる。
又、山のべのあかひとといふ人ありけり。うたにあやしく、たへなりけり。人まろはあかひとがかみにたたむことかたく、あか人は人まろがしもにたたむことかたくなむありける。
(古今和歌集 仮名序)
- 定家の小倉百人一首(4番)にも採られている。
田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
- 大納言・良岑安世の八男(桓武天皇の孫)。
- 官位は従五位上・左近衛少将。
- 寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家する。円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、貞観11年(869年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。仁和元年(885年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。
- 紀貫之は、「古今和歌集」仮名序において下記のように評価する。
ちかき世に、その名きこえたる人は、すなはち僧正遍昭は、哥(歌)のさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑ(絵)にかけるをうな(女)を見て、いたづらに心をうごかすがごとし。
- 定家の小倉百人一首(12番)にも採られている。
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
素性法師(そせいほうし)
- 桓武天皇の曾孫。遍照(良岑宗貞)の子。
- 遍照が在俗の際の子供で、兄の由性と共に出家させられたようである。
- 素性は父の遍照と共に宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。はじめ宮廷に出仕し、殿上人に進んだが、早くに出家した。
- 定家の小倉百人一首(21番)にも採られている。
今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
紀貫之(き の つらゆき)
- 平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。
- 下野守・紀本道の孫で、紀望行の子。母は内教坊出身の女子であったとされ、貫之は幼名をを「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。
- 官位は従五位上・木工権頭、贈従二位。
- 延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上している。また、仮名による序文である仮名序を執筆している。
やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける
- 延長8年(930年)に土佐守に任じられ、承平5年(935年)に帰洛する。この紀行を参考に「土佐日記」を記す。
- 定家の小倉百人一首(35番)にも採られている。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
三十六人集
- 三十六歌仙の歌集。
- 「西本願寺本三十六人集」
歌仙絵
- 平安時代の歌合の流行後、歌仙の絵姿に詠歌や略伝を書き添えた「歌仙絵」が描かれていった。
佐竹本三十六歌仙絵(さたけぼん)
- 最古の歌仙絵。
- 詳細は「佐竹本三十六歌仙絵」の項参照
上畳本三十六歌仙切(あげだたみぼん)
- 最古の佐竹本につぐ古い遺品として著名であり、各歌仙が上畳の上に坐すところからこの名称がある。
- こちらも同様に、歌仙切(かせんぎれ)となっている。江戸時代にはすでに歌仙切となっていた。
- 現在は16点が現存しており、うち4点は海外に流出している。また国内現存12点のうち、8点が重要文化財に指定されている。
- 【重要文化財】:
- 家持
- 昭和32年(1957年)2月19日指定。藤田美術館所蔵
- 兼輔
- 平成12年(2000年)6月27日指定。泉屋博古館所蔵
- 敦忠
- 昭和32年(1957年)2月19日指定。個人蔵
- 宗于
- 昭和32年(1957年)2月19日指定。個人蔵
- 小大君
- 昭和32年(1957年)2月19日指定。個人蔵
- 能宣
- 昭和32年(1957年)2月19日指定。サンリツ服部美術館所蔵
- 貫之
- 昭和32年(1957年)2月19日指定。五島美術館所蔵
- 重之
- 昭和34年(1959年)6月27日指定。世界救世教所蔵、MOA美術館保管
関連項目
- 「佐竹本三十六歌仙絵」
- 「西本願寺本三十六人集」
- 「歌仙兼定」…細川忠興所用の名物刀。三十六歌仙にちなむという。
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