源来国次

源来国次(みなもとらいくにつぐ)  

短刀
源来国次(来源国次、秀祐来国次
九寸七分五厘

  • 享保名物帳所載

    源来国次 九寸七分 代五千貫 水谷左京亮殿
    忠(なかご)表に来国次、裏に藤原秀裕(正慶元年十一月五日)如此有之、表裏刀樋、寛文十年極め

    • 正慶元年とは南北朝期の北朝(持明院統)で使用された年号で、1332年のこと。
  • 「蜘手切(くもてきり)」とも。
  • 表裏に刀樋、中心うぶ、表に「来源国次」裏「藤原秀祐 正慶元年十一月二十五日」と切る。

由来  

  • 享保名物帳で異名で載らないのはこの「来源国次」だけである。
    銘には「来源国次」となっているが、享保名物帳では源来国次とする。

来歴  

  • 元は北条氏綱の差料で、「蜘手切(くもてきり)」と呼ばれていた。
  • その後高野山三宝院に移る。天正18年の小田原落城により北条親子が高野山に追放されたときに寄進されたものとされる。
  • 加賀の前田利常が入手し、寛永18年(1641年)に本阿弥家に鑑定に出し金百七十枚の折紙がつく。
  • 拵えの金具は埋忠寿斎が作っている。
  • その後享保には備中松山の水谷勝隆に伝わった。勝隆の子、左京亮勝宗が本阿弥家に鑑定に出した所、五千貫に値上がった。
  • 元禄6年(1693年)、勝宗の嗣子出羽守勝美に実子がなく、従兄弟にあたる旗本水谷勝阜の長男勝晴を末期養子にしたが、家督相続前の同年11月27日に死去したため水谷氏は無嗣断絶で改易となった。
    このとき、赤穂藩主・浅野長矩が備中松山城受け取り役となり、浅野家家老の大石内蔵助良雄(忠臣蔵で高名)が徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城に単身入り、水谷家家老鶴見内蔵助を説得して無事に城を明渡させた。その後、安藤重博が新城主として入城してくるまでの1年半、大石内蔵助が松山城の管理を行っている。
  • 勝美の弟、主水勝時が三千石が与えられ旗本になっている。
  • 享保名物帳の頃の当主は左門勝英であり、享保名物帳に「水谷左京亮」とあるのは誤り。
    本阿弥の留帳に寛文10年に折紙を出した時の記載を鵜呑みにしてしまったためとされる
  • のち江州彦根藩井伊家に伝わった。
  • 遅くとも12代井伊直亮の代には伝わっており腰物帳にも記されている。
  • 大正12年の関東大震災で焼けるが、焼身だけが残るという。


水谷氏(みずのや)  

  • 水谷氏は、もと結城氏と同じ藤原秀郷流の名家。

水谷正村  

  • 戦国時代には結城氏に仕え、水谷正村は「負け知らずの猛将」と後世に伝わる。常陸下館城主。
  • 武勇に優れたことから結城政勝の娘婿となり、結城四天王と称される。
  • 宇都宮氏との間では最前線である野州国境に久下田城を築き、自らが城主となっていくつもの戦功を挙げる。
  • また真岡近郷で有名であった木綿織を奨励、勤行川の舟運による真岡木綿の物流網の開拓など、後の野州久下田及び常州下館の発展の基礎を築く。
  • 永禄9年3月には禁裏御料所回復の功により山科言継の推挙で従五位下伊勢守に叙任されている。
  • 永禄12年(1569年)に弟の勝俊に家督を譲って出家し、蟠龍斎(はんりゅうさい)と号す。

水谷勝俊  

  • 蟠龍斎正村の弟。常陸下館藩の初代藩主。
  • 永禄9年(1566年)、兄・正村と共に結城晴朝に従って上杉謙信と戦う。永禄12年(1569年)、兄正村の隠居により家督を継いだ。
  • 天正13年(1585年)には兄とともに下野国田野城を攻略して下野方面にも勢力を広げ、小田原征伐後、結城氏の与力大名となる。
  • 晴朝の養子に徳川家康の次男秀康(結城秀康)を迎える話が出た際には、正村と家康の間にかねてより親交があった事から、勝俊が徳川氏との交渉に加わっている。
    関ヶ原の戦いにおいては、皆川広照の従弟にあたるという経緯から東軍に与し、戦後、下野において佐竹義宣を牽制した功績を賞されて所領を安堵され、秀康が越前北ノ庄に転封されると正式な独立大名となった。

備中松山藩初代:水谷勝隆  

  • 長男の勝隆が継ぎ、はじめ常陸下館藩の第2代藩主。のち寛永16年(1639年)に備中成羽藩主。次いで寛永19年(1642年)に備中松山藩の初代藩主となる。
  • 母は堀田正吉の娘。正室は酒井家次の娘、継室は寺沢広高の娘。子に水谷勝宗(長男)、水谷勝能(次男)、娘(仙石政俊正室)、娘(一柳直照正室)、娘(水野忠久正室)。
  • 官位は従五位下、伊勢守。
  • 有能な人物で、松山藩の基礎を築く。藩政においては交通路や水路の整備、玉島新田などの新田開発や検地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、神社仏閣の造営などに努めて藩政の基礎を固めた。
  • また、池田輝興改易時の播磨赤穂城在番や寺沢堅高改易時の唐津城在番を務めるなど、幕府からは譜代格に準ずる信頼と地位を得ていたようである。
  • 寛文4年(1664年)閏5月3日、松山にて死去し、跡を長男の勝宗が継いだ。

備中松山藩第2代:水谷勝宗  

  • 第2代藩主は水谷勝宗。
  • 寛文4年(1664年)、父勝隆の死により家督を継ぐ。
  • 延宝9年(1681年)~天和3年(1683年)にかけて備中松山城の修築を行い、これが現在も残る。天守、二重櫓などが重要文化財に指定されている。
    • この備中松山城は標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。近年、「天空の城」として竹田城とともに有名になっている。
  • 天和4年(1684年)、譜代大名に列せられる。
  • 元禄2年(1689年)閏正月、家督を嫡男勝美に譲って隠居、同年2月に桜田屋敷で死去。享年67。

その後  

  • 第3代藩主は勝宗の次男水谷勝美が継ぐ。
  • 民政や治水工事、土木工事に尽力し、特に松山川沿岸の堤防は「水谷普請」と呼ばれた。しかしこのような無理と、もともと病弱だったことがたたって、元禄6年10月6日(1693年11月3日)に31歳で死去した。
  • 実子がなく、従兄弟にあたる旗本・水谷勝阜の長男・勝晴を末期養子にしたが、家督相続前の同年11月27日に死去したため、水谷氏は無嗣断絶で改易となった。後には安藤重博、石川総慶の後に板倉勝澄が5万石で入り、このまま明治維新まで続いた。この安藤氏の時、幕末に執政を勤め藩政改革に大きな成果を出したのが山田方谷である。
  • 大名としての水谷家の名跡はこれをもって絶えたが、勝美の弟水谷勝時が3000石の旗本として名跡存続を許された。さらにその養子の勝英の代に500石が加増されて3500石の上級旗本となり、この知行のままで明治維新を迎えた。