江月宗玩

江月宗玩(こうげつそうがん)  

安土桃山時代の臨済宗の僧
大徳寺第百五十六世
大梁興宗禅師

生涯  

堺の商人、天王寺屋津田宗及の子として生まれる。

俗名は宗丸。幼名を道丸、次いで春松。兄の津田宗凡が天王寺屋を継いだ。

9歳のときに大徳寺に入り、春屋宗園(しゅんおくそうえん)(大徳寺百十一世)に師事し、頭角を現す。15歳の時に大徳寺大仙院で剃髪し、春屋により宗玩と改められた。

慶長16年(1611年)、師の春屋宗園入寂後に大徳寺竜光院をつぎ、有名な寸松庵を創建した。

龍光院(りょうこういん、竜光院)は、初代筑前福岡藩主の黒田長政が父、如水の菩提を弔うために塔頭玉林院南に墓を立てたことに始まる。三回忌に合せて建立、開基されたのが龍光院である。開山は春屋宗園。龍光院の名は、如水の戒名(龍光院殿如水円清大居士)にちなむ。

のち大徳寺、博多崇福寺、堺の南宗寺、平戸の正宗寺など名刹の住持を歴任し、江戸初期の大徳寺派禅僧の重鎮として活躍した。

寛永20年(1643年)、示寂。

文化人  

当代一流の文化人として知られ、特にその書は沢庵宗彭、清巌宗渭とともに床掛けとして流行した。

茶人  

一方、茶の湯を父の津田宗及や小堀遠州に学んで造詣深く、千宗旦と親交して千家の復興をたすけ、大徳寺禅と千家茶道の結合に大きな足跡をのこした。

また住持を務めた竜光院には、津田宗及譲りの名物茶器である「曜変天目茶碗(国宝)」、「鶴首茶入(龍光院鶴首)」、「丸壺茶入(龍光院丸壷)」などが伝来した。

系譜  

平戸藩主松浦鎮信の愛刀である「寒暈刀」の命名者、大徳寺百九十五世の翠巌宗珉(すいがん そうみん)は甥にあたる。

半井慶友(卜養軒慶友)の子、半井云也(卜養軒奇雲)が津田宗及の娘(南窓榮薰禪尼、宗玩の姉妹)を娶り、宗松と翠巖を設けた。
 翠巖の兄の宗松が、のち半井卜養と称し、寛文6年幕府の番医となり典薬頭を務めた。その傍ら松永貞徳に俳諧を学び、江戸俳壇の草分けとなる。

関連項目