甲斐国江
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甲斐国江(かいくにごう)
刀
磨上無銘
二尺一寸二分
- 磨上無銘、長さ63.5cm、鎬造り。
- 中心先切、目釘孔2個。
- 鎬筋の上に細い樋。中心差裏に素剣の彫り物。
由来
- 甲斐武田氏所持。
来歴
甲斐武田氏
- 元は甲斐武田氏重代の刀。
- 信玄はもと二尺九寸あった大太刀を二尺七寸に磨上させ、その旨をナカゴに彫りつけ佩用していた。子の武田勝頼に伝わり、その時に二尺一寸三分に磨上げたこの郷義弘と左文字を最期まで佩用したという。
信長
- 寄せ手の滝川一益が分捕り、稲田九蔵にもたせて信長に送っている。
- 恐らく本刀のことを指していると思われる。
三月十六日飯田(原文注:伊那郡)御逗留之時、典厩之首信長公へ被懸御目候、仁科五郎(原文注:盛信)乗候秘蔵之葦毛馬、武田四郎乗馬大鹿毛是又被進候處、大鹿毛ハ三位中将信忠卿へ参らせられ、武田四郎勝頼最後にさゝれたる刀、瀧川左近かたより信長公へ上被申候、使に祇候之稲田九藏に御小袖下忝次第也、武田四郎・同太郎・武田典厩・仁科五郎四人之首、長谷川宗仁に被仰付、京都へ上せ獄門に可被懸之由候て御上京候て也
蘭台筆記では天正10年に分捕ったものの一益が隠しておいた。それをあとで秀吉に献上したという。
家康→秀吉
秀頼→家康
- 大坂冬の陣ののち、秀頼は本阿弥光甫に研ぎ直しさせ、家康に贈っている。
十五歳の春は大阪御陵の御祝儀として、權現様へ秀頼功より進ぜらるべき御用意にて、信玄公御所持の甲斐の國郷と申御刀をとぎ申也、
- その後行方不明になっていたが、昭和48年(1973年)にボストン美術館の刀剣金工室長の小川盛弘氏がアメリカで発見した。
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