大般若長光


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 大般若長光(だいはんにゃながみつ)

太刀
銘 長光
名物 大般若長光
刃長2尺4寸3分(73.6cm)
国宝
東京国立博物館所蔵

  • 表裏に丸留の棒樋。刃文は大丁字乱れ、光忠の大出来に酷似する傑作。
  • 中心は先を詰め、目釘孔2個。表に「長光」の二字銘。
Table of Contents

 由来

  • 号の「大般若」というのは、仏教の「大般若経(大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう))」のこと。
    大般若波羅蜜多経は、630年に唐の玄奘三蔵がインドから持ち帰り翻訳した大乗仏教の基礎的教義を記述した経典。全16部600巻に及ぶ。この膨大な教典を262文字に要約したものが「般若心経(般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう))」であるという説もある。
  • 室町末期の「天正本」と呼ばれる「諸国鍛冶代付之事」に記載された代付け一覧において、当時宗近、国綱吉光が百貫、正宗が五十貫という代付(格付け)であるところ、本刀は室町期には他に類をみない銭六百貫という破格の代付がされたという。
  • 「銭六百貫」から大般若経の経典の数字「六百巻」を掛けて「大般若」と名付けられたという。

つまり、1.室町時代末の相場表が「諸国鍛冶代付之事」であり、2.その相場一覧から並外れた600貫という代付けを行った、3.さらにその600貫から大般若経600巻をかけて命名されたということになりますが、2および3については根拠となる書物が不明です。例えば「日本刀大百科事典」などでも由来については参照元を示していません。【刀剣ワールド】大般若長光では、代付けが本阿弥家によるものであったとしています。

 来歴

 足利将軍家

  • 元は足利義輝所持で、「小虎之太刀」とも呼ばれた。

    此御太刀足利義輝之重宝也シヲ三好下野入道釣竿斎手ニ入ル。其後織田信長公是ヲ得テ秘蔵アリシガ江州姉川合戦之時神君ノ御軍功莫太之儀ニ依テ信長公従此御太刀ヲ神君エ進ラレント也
    (略)
    右ハ小虎之太刀トモイヒシトナン。

    一説に三好長慶に下賜されたとも伝わる。

 三好下野守

 信長→家康

  • その後信長に伝わり、元亀元年(1570年)6月、姉川合戦の功により信長が家康に贈っている。

    就中徳川殿は陣中第一の御武功比類なき御働きなりとて御感状には「武門の棟梁当道の綱紀」と書入られ誠にすぐれたる御文言、其上御褒美のしるしとして長光の御刀を遣わさる、抑も此刀は光源院殿(足利義輝)御秘蔵第一の物也しを乱後に三好故下野入道謙斉(三好政康、釣閑斎)が所持しける処に近年信長公の御道具と成り隠れなき名物なり云々。

 奥平信昌

  • 元亀4年(1576年)7月、長篠合戦の折、家康は長篠籠城の功により本刀を奥平信昌(定昌)へ与えている。さらに娘の亀姫を嫁がせている。

    (天正)四年三河國新城に城を築きて住す。七月先に右府(信長)より西尾小左衛門吉次を使として、亀姫君婚儀のことを促されしにより、則これを許され、新城に入輿あり。又長篠軍功の勸賞として作手、田嶺、長篠、吉良、田原等をよび遠江國刑部、吉比、新庄、山梨、高邊等の領地をたまひ、さきに姉川合戦のとき、右府よりまいらせられし吉例たればとて、大般若長光の御刀をたまふ。

  • その後は信昌の四男である松平忠明に渡り、武州忍藩松平家に代々伝わった。

    此御太刀ハ信昌ノ三男摂津守忠政ヘ譲ル。忠政嫡子飛騨守忠隆早世シ嗣子ナク家断絶之時伯父下総守忠明エ譲リ今ニ彼家ニ有リ。

    当初三男の忠政に与え、その子忠隆に伝わったが、早世したため信昌四男の松平忠明に伝わる。

  • 大正2年(1913年)、近藤鶴堂氏が拝見している。

    吾人がこの長光を始めて見せてもらったのは、大正二年の秋も深いころであった。もと海軍大主計の市岡準助氏にともなわれ、青山北町六丁目の久松家を訪い、旧武州忍藩主松平家の蔵刀長光(大般若)名物庖丁正宗、一文字信房青木郷、来国俊其他数十口を正午頃より夕方まで、同行四、五の人々と、ゆるゆる鑑賞した。

  • 大正4年(1915年)の東照宮三百年祭には侯爵・松平忠敬所持で出陳されている。
    松平忠敬は、武蔵国忍藩第5代(最後)の藩主。従三位。のち子爵。

 山下亀三郎

  • 大正年間に同家から松平頼平氏を通じて売りに出したものを、山下亀三郎氏が他の刀と一緒に八萬円で購入したという。

    いや、あれは入札しやしない。あれは忍の松平家から松平賴平さんに處分方を頼んだ。で松平賴平さんが確か八萬圓で山下龜三郎さんの手に納まったのです。しかしその時は大般若長光一本ぢやない、それに附き物があつたのですが、とにかく長光が主です。八萬圓といふのですから、これはレコード破りですな。

    松平家の蔵刀十四振りを預かっていた久松家のほうを調査してみました。(略)「松平家の刀はだいぶ以前から預かっていましたが、値のはる物が多いので、なかなか買い手が付きませんでした。しかしある人の周旋で、刀屋も何人かが加わりまして、山下汽船の社長・山下亀三郎氏に、大般若長光・包丁正宗・一文字の三本を、数万円で引き取ってもらいました。松平家ではそれだけで予定の金額を超えましたので、残りの十一本は刀屋たちに、処分を任されました。(略)」

    松平頼平は水戸藩御連枝の常陸宍戸藩主松平頼位の三男で、陸奥守山藩主家松平喜徳の養子となった。子爵。明治期の著名な鑑刀家の一人。この頼平の姉妹に高がおり永井岩之丞(永井尚志の養子)に嫁いだ。長女の夏子が三島由紀夫(本名平岡公威)の祖母である。

    山下亀三郎は伊予生まれの実業家。山下汽船(現商船三井)・山下財閥の創業者で、勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。
  • 大正12年(1923年)の関東大震災の時、崩れた土蔵の下敷きになり曲がってしまうが、研師吉川恒次郎の手により元に戻る。

    関東大震災では数多くの名刀が焼失しました。小田原の山下亀三郎氏の石蔵が潰れ、数多くの美術品が損害を請けました。刀では大般若長光、粟田口久国などの名品が数多くありました。久国は石の角でくの字形に曲り大きな刃切れが出来、大般若は弓のように曲がってしまいました。大般若などの研ぎを網屋さんから依頼されました。網屋さんは木挽町の家が丸焼けになり、大久保の斎藤栄寛さんの家に立ち退いていました。私も丸焼けになり、大井の兄の家に厄介になっていました。栄寛さんの家に急造の仕事場を作りましたが、光線が悪い上に道具の大半を焼いてしまいました。兄の家が材木屋であったのがさいわいで、ため木(曲がりを直す道具)を作り、さきに先ず長光にかかりました。弓のように曲がったのを直すのですから、名刀だけに刃切れでも出てはと命がけの仕事のつもりで取り掛かりました。ため木を持った両手に力を入れたがきかばこそ、腰の強さは無類です。更に思い切って力を入れたら”ぽきん”と音がして手応えがなくなってしまった。眼の前はまっ暗になり気が遠くなるようでした。ところが折れたのは刀ではなく、ため木だったのでほっとしました。この時のことは今もさいさい思い出します。それでも苦心の末、曲がりも直り研ぎ上がった時は、自分ながらよく疵も出ずに直ったと思います。不慣れな仕事場にくわえて材料もやりくりだったのが、この思いを一層強くしました。私も三十代の血の気の多い時でした。
    (吉川恒次郎の回顧)

    吉川恒次郎は研ぎ師。明治26年(1893年)生まれ。元は土屋姓で、祖父が毛利家のお抱え研ぎ師で吉川藤太郎といったため、後に吉川に改めた。20歳で石川周八(本名高橋欽次)に入門する。宮内省所蔵刀剣の研ぎをするようになった石川氏の跡をついでいる。息子は吉川賢太郎氏(皎園)。この賢太郎氏は日本刀剣保存会の常任理事をしていたが、平成11年(1999年)6月24日死去。

  • 大正14年(1925年)蔵品売立を行った際に本刀も出品されるが、本刀及び「庖丁正宗」は結局親引きとなっている。※この親引きは大震災の前であるが日付が不詳。

 伊東巳代治

  • のち愛刀家でもあった伊東巳代治伯爵が、「庖丁正宗」と共に買い受けている。

    山下さんがその後に入札に出されたが、山本(悌二郎)さんがどうしても欲しいといふのでかなり奮發したが八萬圓には届かなかつたので止して退かれたのを、伊東巳代治さんが非常な御懇望で……

    伊東巳代治は長崎県出身の政治家。伊藤博文の側近となり、第2次伊藤内閣で内閣書記官長、第3次伊藤内閣で農商務大臣を務めた。昭和9年(1934年)に満76歳で没。
  • 伊東の死後、膨大な所持刀が幾度かに分けて売立に出されるが、本刀は五萬円なら売るということでどの札元も手を出しかねたという。
  • 昭和10年(1935年)の高島屋名刀展覧会では伯爵伊東太郎(伊東巳代治の長男)の所持。
  • 昭和15年(1940年)遊就館の名宝日本刀展覧会では伯爵伊東治正(伊東巳代治の孫)所持。

 東京国立博物館

  • 昭和16年(1941年)、旧帝室博物館(現東京国立博物館)に五萬円で譲渡された。

    刀 太刀 銘長光名物大般若長光) 一口
    (東京帝室博物館 昭和十六年列品)

    当時東京都知事の月収が五千三百円であったというから、大般若の値の高さが知れる。
  • 昭和26年(1951年)6月9日国宝指定、国立博物館保管。


 奥平信昌(定昌)

  • 三河の作手の有力国人であった奥平定能の長男として、弘治元年(1555年)に生まれる。

 奥平氏の動向

  • 奥平氏は、信昌の祖父貞勝の代までは今川氏に属していたが、桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり、遠江掛川城攻めに加わった。しかし元亀年間(1570年 - 1573年)には武田信玄の三河への侵入を契機に武田氏に属している。

 徳川への再属

  • 家康は元亀4年(1573年)頃に奥三河における武田氏勢力を牽制するために奥平氏を味方に引き入れることを考え奥平氏に使者を送るが、このときの奥平定能の返答は「御厚意に感謝します」という程度のものであったという。
  • その後、信長の意見を取り入れ、家康長女の亀姫を奥平定能の嫡子・九八郎に嫁がせること、領地の加増などを条件に勧降したところ、遂に奥平定能はそれを受け入れる。
  • 天正元年(1573年)、奥平信昌(貞昌)は、武田氏に人質として送っていた妻おふうを離縁し、徳川方に寝返った。武田方ではこの奥平氏の徳川帰参を受けておふう、当時13歳の信昌(貞昌)の弟千丸ら人質3人を処刑している。

 勝頼の奥三河侵攻と長篠城包囲戦

  • この2年後、天正3年(1575年)4月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて奥三河へ侵攻し、長篠城を包囲する。城兵はわずかに500人であり、谷に囲まれた地形を活かして猛攻に耐えていたものの、兵糧蔵の焼失により数日以内に落城必死の状況に追い込まれる。

 鳥居強右衛門

  • 5月14日、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴え援軍を要請することになり、名乗り出たのが鳥居強右衛門(すねえもん)である。強右衛門は闇に紛れて武田軍の警戒網を突破、翌日午後には岡崎城の家康のもとにたどり着き援軍を要請する。
  • 岡崎城にはすでに信長の援軍3万が到着しており、家康の手勢8千と合わせて明日にも出陣することを知った強右衛門は、すぐに岡崎城を発して長篠城へ戻ろうとする。しかし5月16日早朝、城を目前として武田軍に発見されて捕らえられてしまう。
  • 武田方では、強右衛門に対して「援軍は来ないため城を明け渡す」旨を叫ぶように指示し、それを承諾した強右衛門は、磔にして城の前へと突き出される。そこで強右衛門は、「援軍が間もなく到着する」ことを叫んだため武田方に突き殺されてしまうが、この援軍まもなく来たるの報により城方の士気は奮い立ち、到着まで守り通した。

 両軍の軍議

  • やがて5月18日に信長・家康軍が長篠城の手前、設楽原に到着すると、武田方では軍議が開かれる。このとき山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らの重鎮が甲斐への撤退を進言するが、勝頼は決戦を主張したとされる。
  • いっぽう織田・徳川方でも軍議が開かれ、ここで酒井忠次が後方鳶ヶ巣山にある武田方の砦を急襲する案を進言するが信長に一喝され、軍議終了後に密かに呼び出された忠次は鳶ヶ巣砦への別働隊指揮を任されるという逸話が残る。

 鳶ヶ巣山での戦い

  • 5月20日この鳶ヶ巣砦急襲隊は、当初の目的の砦奪取のみならず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことによって設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。

 設楽原決戦

  • 翌5月21日早朝、遂に設楽原において両軍が激突し、昼過ぎまで続いた戦闘において武田方は1万人以上の犠牲を出し、戦いは織田・徳川軍の勝利で終結した。

 褒美

  • 長篠合戦で長篠城を守り切った城将奥平定昌には、家康からこの「大般若長光」を拝領した他に、信長からも「備前福岡一文字(長篠一文字)」、「信」の字、「武者助」の名乗りを拝領している。
  • 以降、定昌は奥平武者助信昌と名乗ることになる。
  • なお、信昌は徳川家康の長女亀姫を娶ったことから一族として遇され、家康の外孫にあたる四男忠明が、家康の養子となり松平姓を許された。
  • 信昌の四男松平忠明から始まる武州忍藩松平家には、この大般若のほか、安国寺恵瓊が所持し関ヶ原後に分捕られた「庖丁正宗」、長篠の戦功により信長から拝領した一文字信房などが伝わった。

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