会津新藤五

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会津新藤五(あいづしんとうご)  

短刀
銘 国光
名物 会津新藤五
8寸4分5厘(25.6cm)
国宝
小松安弘興産所蔵(ふくやま美術館寄託)

  • 享保名物帳所載

    会津新藤五 在銘八寸四分半 代二百枚 御物
    蒲生飛騨守氏郷殿所持、下野守殿迄伝る、出頭人森川半彌と云者に下さる、同苗勘解由取次にて利常卿金百枚に御求め、元禄十五年四月綱吉公御成の刻義弘三百枚の刀と共に上る。

  • 平造り、真の棟、鋩子小丸、反り深い。中心うぶ、目釘孔1個。国光の二字銘
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由来  

  • 会津92万石を領していた蒲生氏郷が所持していたことによる。

来歴  

蒲生家  

  • 蒲生氏郷が所持していたが、氏郷から秀行、忠郷と伝えられる。

森川半弥  

  • 忠郷は10歳で藩主となったため、補佐の家臣森川半弥にこれを与えた。
    本阿弥家の「名物控」によると、本阿弥光栄が所持していたものを蒲生忠郷に売ったという。寛永4年(1627年)正月4日に忠郷が早世する際に、これで共せよとこの会津新藤五を渡したが、森川半弥は追い腹を斬れなかったともいう。

    福永酔剣「日本刀大百科事典」では陸奥新藤五の項にも同様の森川半弥経由の記載があるが、これは誤り。「陸奥新藤五」は太刀で伊達家伝来。こちらも現存。
  • 忠郷に嗣子がなく蒲生家は断絶となり、森川半弥も浪人となる。

前田利常  

  • それを同族の森川勘解由の取次で、前田利常が金百枚で購入する。
    「森川勘解由」は、森川氏俊の次男、森川正次(金太夫・勘解由)か。森川正次は、慶長2年(1597年)家康、小姓組。慶長7年に致仕し、蒲生秀行に仕える。のち前田利常家臣。寛永18年(1641年)60歳で没。妻は蒲生飛騨守(秀行か)の家臣北川土佐守の娘。森川正次の子に友次勘解由、次弘四郎右衛門あり、ともに前田利常に仕えている。
     なお加賀藩資料によれば、同名森川勘解由について、慶長・元和・寛永の侍帳には名前が見えず、寛永以後に藩士となったとする。万治2年(1659年)に没すると、弟の森川伊織は禄を辞して浪人となったという。

    なお「森川半弥」が追い腹を切らなかったという話には似た話がある。森川氏俊の三男森川重俊は、秀忠の近習となりのち下総生実藩の初代藩主となった。しかし寛永9年(1632年)1月に秀忠が没すると殉死している。これは秀忠から男色の寵愛を蒙ったことに加えて、世継に関して親秀忠、親徳川忠長派であったことから、後継者となった家光により改易されるのを恐れたためでもあるという。この森川重俊の甥に「森川若狭」というものがおり、これもまた秀忠の同母弟(家康の四男)の松平忠吉の寵愛を受けたという。松平忠吉が関が原の戦いの鉄砲傷が元で28歳で死んでしまった時に、この森川若狭が追い腹を切らなかったばかりか蓄電したために叔父の森川重俊が激怒したという。
    ┌森川氏兼──┬氏俊──┬氏信──┬氏之
    ├重次    ├長次  │    ├氏時
    └正次    ├重成  │    └之俊
           └重定  ├勘解由正次──┬勘解由友次(前田家家臣)
                │       └伊織次弘(前田家→甲府家)
                └出羽守重俊───重政(下総生実藩)
    
  • 前田家から本阿弥へ、二度(明暦3年、延宝8年)鑑定に出され、後の機会に百三十枚の折紙を出したという。

徳川綱吉  

  • 元禄15年(1702年)4月に将軍綱吉が前田邸に御成の際、綱紀から代200枚で献上され、徳川将軍家に伝来。
    この時、備前長光太刀郷義弘の刀とともに代300枚で将軍家へ、代わりに綱吉から前田利常へは吉光が代350枚、正宗が渡っている。

将軍家代々  

  • 宝永4年(1707年)7月18日、綱吉が世子家宣の子、家千代(徳川家継の異母兄、早世)の誕生七夜を祝って贈っている。
    • 同年9月28日に早世したため将軍家に戻る。
  • 昭和8年(1933年)に旧国宝指定。徳川家達氏所蔵。

中島喜代一  

青山孝吉  

  • その後、青山孝吉氏の手に渡っている。
  • 昭和26年(1951年)6月9日に国宝指定。
  • 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」、昭和44年(1969年)の「武将とその名刀展」でも青山孝吉氏所持。

小松コレクション