高尾太夫


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高尾太夫(たかおだゆう)  

  • 「高尾太夫」は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名。三浦屋に伝わる大名跡であった。
  • 吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。
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概要  

  • 「燕石十種」の高尾考では、七代までを挙げている。

      高尾考
     高尾七代之事
     
       初代高尾
    仙臺萩にくはしければ略申候法名傳譽妙順といふ土手の道哲に墓あり
     
    (中略、後述)
     
      七代目高尾
    何もの請出すといふ事をきかず年明け候て出候や不知近來木挽町采女が原に水茶屋の女となりしを見るものまゝ御座候其後はいかゞ成りしや不知
     
    右之通高尾は七代にて絶たり此上高尾の出來ん事をねがふのみ
     右は御留守居番與力原武太夫ものがたりを書留置候を寫すもの也
       ○按 原武太夫盛和が記する處詳かなりと云へし予吉原古板の書を再考するに三浦家往古より高尾あり且六代の高尾九代の高尾など云事古書に見ゆ依て左に請書を抄出して好事の者の考訂を待つのみ
    (略)

初代高尾  

  • 「妙心高尾」
  • 寛永ごろの人で、引退後に尼となり、妙心と号したという。
    • 子連れで廓内を道中した「子持ち高尾」と同一視とする説もある。

二代高尾  

  • もっとも高名な高尾太夫。
  • 「万治高尾」。「仙台高尾」、「道哲高尾」とも呼ばれる。

       二代目高尾
    紀伊中納言殿御家來髙五百石取申候最上吉右衛門といふもの請出し紀伊國へつれ行く是をさい上高尾といふ

  • 「石井高尾」、「西條高尾」と同一視する説もある。

土手の道哲  

  • 土手の道哲とは、浅草新鳥越一丁目日本堤上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦頃、道哲という道心者が浅草聖天町吉原土手附近で遊女が無縁仏として投げ捨てられるのを悲しみ、道蓮社正誉上人を招いてここに庵を結んだところからこの名があるという。高尾は生前に道哲と恋に落ちたとも、あるいはこの寺に葬られたとも伝わる。道哲は万治3年(1660年)12月25日没。
  • 大店は二朱、小店は一朱という格安の埋葬料であったため、土手の道哲こと西方寺は吉原の遊女の投込寺として著名であった。関東大震災の後、昭和2年(1927年)に西方寺は豊島区巣鴨四丁目の現在地に移った。高尾の墓所も同所に移っている。

伊達綱宗  

  • 一説に、陸奥仙台藩3代藩主伊達綱宗が身請けを申し出るが、その意に背いたことから万治元年(1659年)12月隅田川三叉の船中でつるし斬りにされたという。
  • この話は巷間俗説が多数生まれ、伽羅先代萩」「伊達競阿国戯場」などの浄瑠璃や歌舞伎になった。また非業の死を遂げた高尾の亡霊が懺悔するという趣向は、舞踊劇「高尾物」という系列を生んだ。

三代高尾  

  • 「水谷高尾」。「三九高尾」、「はね字高尾」とも呼ばれる。

       三代目高尾
    水戸宰相殿爲替御用達水谷六兵衛うけ出す其後右六兵衛下人平右衛門と云六十八歳になる男と不義にて出奔す其のち半太夫りやううんへ行妻となる其後牧野駿河守へ妾奉公に出で中小性河野平馬と出奔す其後深川の髪結の女房になりそれより役者袖岡政之助女房となる又三河町元結賣の女房となり申候ある時大をん寺前の鎌倉屋といふ茶屋の前にきたりたふれ死す是を水谷高尾といふ

  • 水戸徳川家の為替御用達・水谷六兵衛(あるいは水谷庄左衛門)に落籍されるが、六兵衛の下人の平右衛門(68歳)と不義をして出奔。後に浄瑠璃語りの半太夫の妻となったが、再び家を出て牧野駿河守の側女となっているうち、中小姓の河野平馬と通じてまたまた出奔。その後、深川の髪結いの女房となり、さらに役者の袖岡政之助に嫁し、最後に神田三崎町の元結売の妻となったが、この家も不縁に終わったとみえ、ある年、大音寺前の茶屋の鎌倉屋の前で倒死していたとつたえられる。
  • 書を能くし、「ん」の字に特徴があったことから「はね字高尾」とも呼ばれた。

四代高尾  

  • 「浅野高尾」
  • ”3万石の浅野壱岐守”により落籍されたとされる。

      四代目高尾
    三萬石浅野壹岐守請出す是を浅野高尾といふ

    この浅野壱岐守は不明。赤穂藩浅野家の分家にあたり、赤穂藩領から新田3000石を分知されて旗本寄合となった浅野長恒(美濃守・壱岐守・市正)がいるが、3万石ではない。

    壱岐守ではないが、5万石であれば、広島藩主浅野綱長の三男で広島新田藩主となった浅野長賢の家系がある(下記系図参照)。しかし長賢の通称は民部、大膳。官位は従五位下・兵部少輔、宮内少輔。以下、長喬(兵部少輔)─長員(近江守)─長容(近江守)─長訓(安芸守、侍従)─浅野長勲(紀伊守、侍従、左近衛少将、安芸守)と続き明治維新を迎えるが、「壱岐守」に任じられた人物は居ない。

  • あるいは「浅野因幡守」ともいい、5万石であったともいう。

    浅野高尾。洞房語園に豫れば。五萬石浅野因幡守請け出す。此の家今斷絶とありて。元正間記に。此の君元禄十二己卯年春廓をいうでしよし記したれど。言行の傳はれるものなければ止みぬ。只々一句残れるなり。
     上草履ちんバにはくやほとゝぎす

  • この説に従えば、広島藩初代藩主浅野長晟の庶長子で寛永9年(1632年)11月に備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられ、備後三次藩を立藩した浅野長治(従五位下・因幡守。三次浅野家の祖。下記系図参照)が該当するが、もちろん確証はない。この浅野長治の娘が赤穂浪士で高名な赤穂藩主浅野長矩の正室・阿久里である。
    浅野長政
      ├───┬浅野幸長
    長松院やや │
          │〔安芸広島藩〕                   ┌中川久慶〔豊後岡藩〕
          ├浅野長晟   〔広島藩〕  〔広島藩〕 〔広島藩〕 ├浅野長賢〔広島新田藩〕
          │ │ ├───浅野光晟──┬浅野綱晟──浅野綱長──┴浅野吉長〔広島藩〕
          │ │ 振姫        ├浅野長尚(→長治養子早世)
          │ │ (家康娘)     └浅野長照(→長治養子)
          │ │
          │ │     〔三次藩〕  〔三次藩〕
          │ └─────浅野長治━━━浅野長照
          │        ├────────────瑤泉院阿久里
          │      ┌─娘              │
          │〔笠間藩〕 │〔赤穂藩〕           │
          └浅野長重──┴浅野長直───浅野長友──┬浅野長矩
                               └浅野長広
    
    なお三次浅野家(三次藩)は、5代浅野長寔が享保5年(1720年)に数え年11歳で死んだために無嗣断絶で除封され絶家している。

五代高尾  

  • 「紺屋高尾」。「駄染(だぞめ)高尾」とも。※「太染」とも。

      五代目高尾
    紺屋九郎兵衛請出す四代目になきうつくしき女にて筆跡もことの外よろしく心ばへすなをにて誠に貴人の奥方となるともはづかしからぬ生れのよし志かる處九郎兵衛は至てあしき男にて脊ひきくはなひしげ猿眼にてことの外醜男なりしよし志かし請出して随分中むつましく覺しとなり九郎兵衛染もの下手にて常にだ染ゝと人みないひたりしゆゑ是をだそめ高尾といふ

  • 神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。九郎兵衛は「駄染め」と呼ばれる量産染色で手拭を製造しており、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。のち3人の子を産み、80歳余まで生きたとされる。
  • 古典落語「紺屋高尾」のモデル。

六代高尾  

  • 「榊原高尾」。「越後高尾」とも。

      六代目高尾
    拾五萬石榊原式部大輔請取す式部大輔隠居被仰付越後高田の領分被参候節つき添参り式部大輔死去の後尼と成り後世を願ひ三十餘歳にて病死

  • 播磨姫路藩15万石の当主・榊原式部大夫(榊原政岑)は、白昼行列を整えて遊里吉原に通い、三浦屋の高尾に入れ込んだ末に寛保元年(1741年)には落籍せている。榊原政岑は高尾を姫路城内西御屋敷に住まわせたという。
    榊原政岑(さかきばら まさみね)
    正徳3年(1713年)に旗本1000石の榊原勝治の次男として生まれる。最初榊原氏ゆかりの大須賀姓を称して大須賀高胤と名乗る。しかし兄勝久の死を受けて享保16年(1731年)12月27日に兄の養子として家督を継ぎ榊原勝岑と称した。半年後の享保17年(1732年)8月23日、今度は本家の姫路藩主・榊原政祐の末期養子となり、8月29日の政祐の死去により、10月13日に榊原宗家8代当主を継承し、播磨姫路藩の3代藩主となった。

當榊原式部大輔どのには、初め大須賀頼母とて、五百石取り、家中客人分にて居られしが、今の榊原家を相續いたされ、身持あしく衣類等にいたる迄、けしからざるくわびをいたされ、北國の遊里へひたもの通われ、あまつさへ三浦の太夫高尾を身請けし千金をついやし、其上三千兩の金にて五町總くるわの遊女を總上げいたされ、其上高尾を請かゝへられしと也、遊女は高尾に限らず度々請出されし也、出入頭の町人甲斐府屋、高尾駕籠にさしそわせ、池のはたの屋敷内、三日三夜にしつらひし長屋へ高尾をうつし入、當年歸城の節、高尾を姫路に遣し、城の西の方へさしおかれ、西の方様と唱へしと也、歸城のせつ大坂より有馬へ廻られ、煩もなくして三日入湯、そのうへ湯女三人身請いたされ姫路へ召つれられしとなり、前もつて姫路城下の有徳なる町人の妻、城中の奥方へ引入置、宿へかへされざりしを、其つれ合逢て御もどし下され候様に願出候へどもとりあげなく、ぜひにおよばず右のつれ合京都へ罷越、京の町奉行所へ訴へ出しにより、町奉行所より式部大輔殿へ内々にて、右の女をつれ合方へ御戻しなさるべくよし申越され候ゆへ、その女は宿へさしもどされ、つれ合をめしとられ仕置に取行し故、そのものゝ親類、江戸表の御箱へ此段申上候となり、其外去々年八月の月見の節、同氣の御大名彼是私宅へ招請いたされ、酒宴亂舞のうへ、十六人持の臺の物、大山を取こしらへ、すゝきに月の出るていを拵へ、座中へさし出され、酒宴なかば、式部大輔どの手をうたれ候へば、彼の山二つにわれて、中より金銀のかんざし天女のよそおひなるおどり子十二人とび出、あられぬ亂舞のたわむれありし事、公邊へもれ聞へ、一座衆中の取沙汰めいわくいたされしとなり、又有事御先手山村十郎右衛門殿其外御役人、式部大輔宅へ見まはれ候へば、其許方へ珍しき一興御目にかくべしと、八畳敷の一間へ招き入れ、此間の上段に簾をかけ、其内に式部大輔殿金入の上下にて、豊後ぶしの引がたりいたされ、夫より平服に着かへ、山村殿へ向ひ申されしは、いつも御氣うつの節は我等方へ御出可有候、かやうに引がたり御馳走可申と申されしかば、山村殿にもあきれはてたる様子にて有之と也、其外北國の遊里にて、おしはれ人立をもかへり見ず、矢の根五郎の狂言のたわむれ度々有之しとなり、依之當十月俄に公儀よりの召寄、御書付を以て被仰渡し也、これ皆姫路の刑部どのゝようくわひの所爲ならんかと人々申あへり、

高尾ばかりの話ではなく、無茶苦茶である。

  • しかし、折しも徳川吉宗による倹約令で質素倹約が進められている中で、政岑の贅沢な振る舞いは吉宗の怒りを買うこととなる。寛保元年(1741年)10月13日、政岑は吉宗より強制隠居の上で蟄居を命じられ、家督は嫡男の小平太政純が継ぐことを許されたものの、要地の姫路から僻地であり懲罰転封先として知られる越後高田への転封を命じられてしまう。

    甲辰、幕府、姫路城主榊原政岑の身行不正を論し、命して家に幽し、子政永に封を襲かしむ、

  • 高尾太夫は高田への転封にも同行し越後高田城に住んだが、高田転封後まもない寛保3年(1743年)2月19日に政岑は31歳で死亡。
  • その後、高尾は政岑側室のお岑の方に呼ばれて江戸に戻り、上野池の端の榊原家下屋敷(現、旧岩崎邸庭園。台東区池之端一丁目)に住んだという。剃髪して蓮昌院と号し、菩提を弔いつつ過ごし、天明9年(1789年)1月19日、30余歳(79歳説有)で病死した、とされている。南池袋の本立寺に墓所がある。
    なお数え年7歳で家督を継いだ小平太政純であったが、延享元年(1744年)12月に数え年10歳で病死してしまう。幼少であったため将軍お目見えも果たしておらず、世継ぎも定めていなかった。末期養子が認められる年齢でもなく、榊原家は断絶の危機に陥いることとなる。そこで榊原家は、幕閣から内密の了承を得て、小平太の異母弟で1歳下の富次郎政従(後の政永)を小平太政純とすり替えて家の存続を図っている。

その他  

西條高尾
幕府御用蒔絵師(蝋燭問屋ともいう)の西条吉兵衛が身請けした。西條高尾ではなく「最上高尾」であるなどの話がある。
・ある時高尾は、中秋の名月を賞しながら盃で酒を飲み、戯れにその盃を飛脚で京都島原の吉野太夫に贈ったという。すると吉野太夫もこの盃で酒を飲んだ後、大坂の名妓高円に贈った。さらに高円はこの盃を高尾に贈り返したといい、これを「都送りの盃」と呼んだという。なおこの話は二代目のものだともいい、その場合には高尾と吉野で送り合う話となる。
石井高尾
彦根藩士石井吉兵衛(あるいは石井半之丞元政、石井常右衛門)と馴染んだという
六指高尾
「六本高尾」とも。足の指が6本あり、傾城としてただひとり一年中足袋を履いたという。七代目高尾とも。

六本高尾。享保元文のころの名妓なりしに。其の足の指六本ありしかば。此の名なりといふ。

子持ち高尾
初代高尾、あるいは六代目高尾ともいう

子持高尾。遊女の勤めの中に子を産み。己が部屋に養ひけるをもて。しかいへりと。

小袖高尾
馴染み客に自分の小袖を贈ったと伝わる
采女が原高尾
七代目高尾とも
島田高尾
島田重三郎を恋人としたという。水谷高尾とも。
  • 全体の代数についても6代説、7代説、9代説、11代説、などがあるが、他にも13代説や16代説もある。これらで語られる高尾太夫の中には、史実では実在せず創作で語られたものを実在として数えている可能性がある。
  • なお現存する錦絵や文芸、映像などのフィクションの世界では、「伊達兵庫」や「島田髷」、多数のかんざしを差した文化文政期(江戸後期)の遊女装束の高尾が登場する。しかし実際は、宝暦年間(江戸中期)には三浦屋は廃業しており、同時期に吉原では太夫も消滅している。よってフィクションでの高尾太夫の髪型の表現は時代的にそぐわないものである。

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