静御前の薙刀


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 静御前の薙刀(しずかごぜんのなぎなた)

  • 源義経の愛妾、静御前が使ったとされる薙刀が複数存在する。
Table of Contents

 徳川将軍家蔵

薙刀
三条小鍛治作

  • 三条小鍛治宗近または小鍛治宗親の作という。
  • 三代将軍家光が鷹狩にこれを遣い、そのときに中心から折れてしまう。
  • 家来たちが、大事な御道具を由ないことで損じてしまったものよと非難するのを、若年寄であった堀田正盛が「戦場で折れずに鷹狩で折れたのは幸いであった」と戒めたという。
  • 折れた中心は山城という鍛冶に継がせたという。
    この山城は、江戸石堂派の日置山城守一法、あるいは山城守藤原国清(堀川国広門下、越前松平家松平忠昌に仕える)であるという。

 前田家蔵

  • 加賀藩主前田家にも同名の薙刀が伝承した。

    静が長刀御家に有之様に何茂申候得共、左様に而は無之、江戸御城に有之様に被及聞召候由。右同時に御意也。

    ただし一説に宗近作ではなく志津三郎兼氏作であったといい、"しづ"が、いつしか"しずか"に誤伝したともいう。

  • 元々は徳川将軍家のもので、慶長6年(1601年)、秀忠の娘珠姫(母はお江)が3代藩主前田利常に嫁いだ際に持参し伝わったという。

 いずれが本物か

  • ある時、前田家中において「将軍家のものと同家のものと、いずれがほんものの静御前の薙刀であろうか」と詮議するものがあったが、前田利常は「義経の愛妾なのだから薙刀を一本しか持たなかったことはあるまい」と反駁したという。

    汝等は愚なる事を申ものかな。静は義経の妾也、定而其時は義経座側に有りし長刀を以て働きたる成べし。判官一振の長刀のみならんや、いく振も有るべき事也。是等に限るべからず、名物は世上に類の有べき也とて、彌秘蔵せられしど也。

 けがれ

  • 前田家では、この薙刀を置いてある部屋に月のもののある女中が入った所、鴨居に掛けてあった薙刀が偶然落ちてくるという不気味なことがあった。

    相公様御幼少之御時、御家に傳り候小鍛冶の御長刀、御奥御寝之間之御上段御鴨居之上に、微妙院様御指圖にて御懸置被遊候。今枝民部其自分之年寄女中今井・松村などへ申渡候は、身穢有之女中御間之内に入申間敷旨堅申付置候處、つなと申女中穢有之候處、与風右之御間へ入候得ば、其儘御長刀落候而御さやはづれ、御畳よりねだ迄切込申候。然共刄には少も相違無之候。因茲今井・松村など殊外おそれ申候。

 古鞘

  • 5代藩主の前田綱紀は、それを畏れ二重の箱に納め注連縄を張って薪丸の土蔵に封じ込めたという。
  • そのとき鞘を新調したため古鞘を本阿弥光甫が拝領した。その後、同家のものが流行り病で頭を並べて倒れた時、その古鞘を一人一人戴かせたところ、たちまち平癒したという。

    相公様御代御鞘御改被遊、重而御箱に被入、わく入に被仰付、其上にしめ縄を御はらせ、薪丸之御土蔵に御納被遊候。其時古き御さや、本阿彌光甫が拝領仕度旨相願、即被下置候。或時疫病之様成煩はやり、本阿彌家之者共之内にも數人煩候處、右の古き御さやをいたゞかせ候得ば、忽致本復候由に而、本阿彌家も言之祖と驚申由、享保三戊戌年十月十九日御意也

 緒方惟栄拝領

薙刀
号 小屏風

  • 文治元年(1185年)10月17日、源義経が京都堀川の館で土佐坊昌俊の夜襲を受けた時、静御前が揮ったという薙刀で、「小屏風」とも呼ばれた。
    土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)は大和国興福寺金剛堂の堂衆(僧)。のち土肥実平を通じて頼朝に臣従する。文治元年(1185年)10月に頼朝と義経が対立したとき、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を収集するが、名乗り出る者がいない中、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。
  • 義経が九州に逃げる際に、供奉していた豊後の住人緒方惟栄に与えた。
    緒方惟栄は大神惟基の子孫で、臼杵惟用または佐伯惟康の子とされる。豊後国大野郡緒方荘を領した。
  • 以後同家に伝来し、元和8年(1622年)甚太郎という研師に研ぎ直させた所、三日目に急逝したため世人は薙刀の祟りであると噂したという。

 新発田藩主溝口家蔵

  • 越後新発田藩主溝口家に伝来したもの。
  • もとは会津藩の保科肥後守の所蔵であったもので、これを出すと雨が降るという言い伝えがあった。

 江戸浅草寺蔵

  • 浅草観音堂の本尊の前の鴨居に、静御前の薙刀と称するものがあった。
  • しかし、肥前平戸9代藩主松浦静山(松浦清)が人を介して照会した所、当寺にそのような話はないとの返答であった。
  • さらに家臣に調べさせた所、当時、婚礼薙刀と呼ばれていた柄が長く刃が短い形式のもので作は新しかったという。

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