静御前


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 静御前(しずかごぜん)

平安時代末期の女性
白拍子

 生涯

  • 母は白拍子(しらびょうし)磯禅師(いそのぜんじ)
    白拍子とは今様や朗詠を歌いながら舞った芸人のこと。主に女性が舞った。鳥羽天皇の世に藤原信西が優れた曲を選んで磯禅師に白い水干に鞘巻を指し烏帽子姿で舞わせたのが始まりとする(徒然草)。磯禅師の前半生は不詳。一説に後白河法皇に見初められ静を産んだともいう。

 神泉苑

  • ある時日照りが続いたため、神泉苑で100人の高僧に読経させるが効験なく、100人の白拍子に舞わせることにした。
  • 99人まで舞うが効験がなかったが、最後に静が舞ったところ、にわかに愛宕山の方から暗雲が立ち込め三日三晩雨が降り続いたという。

    「容顔美麗なる白拍子を百人召して、院御幸なりて、神泉苑の池にて舞はせられば、龍神納受し給はん」と言へば、さらばとて御幸ありて、百人の白拍子を召して舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其験もなかりけり。
    「静一人舞ひたりとても、龍神知見あるべきか。而も内侍所に召されて、祿重き者にて候に」と申したりけれども、「とても人数なれば、唯舞はせよ」と仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲と云ふ白拍子を、半ばかり舞ひたりしに、みこしの嶽、愛宕山の方より、黒雲俄に出で来て、洛中にかかると見えければ、八大龍王鳴り渡りて、稲妻ひかめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を出し、國土安穏なりしかば、さてこそ静が舞に知見ありけるとて、「日本一」と宣旨を賜はりけると承り候ひし」と申しければ、鎌倉殿是を聞召して、「さては一番見たし」とぞ仰せられける。

  • これにより静は後白河法皇より「日本一」と宣旨を賜わったという。

 義経の愛妾

  • その後、住吉での雨乞いの時に静を見初めた源義経が召して妾にしたという。

 堀川夜襲

  • その後の静の名前は、文治元年(1185年)義経が兄である頼朝との不仲が決定的なものとなり京都から落ち延びる際に登場する。
  • 頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が京都堀川館(六条室町亭)を急襲したとき、静は気丈に活躍したと描かれる。この時は源行家の軍勢が加わったこともあり、攻め手の土佐坊昌俊を退けている。土佐坊昌俊は鞍馬山に逃げ込むが、捕えられ六条河原で梟首された。

 逃避行

  • その後九州へ下るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、暴風雨によって難破し一行は離散する。
  • その後吉野に隠れる一行だが、義経は途中で静を京都へ返そうとし、静は藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いたところで一行を追っていた吉野山の僧兵により捕まり、京都の北条時政の元へと送られる。
  • やがて母の磯禅師とともに鎌倉に送還された静は取り調べを受けるが、その際に身籠っていることがわかり、男子ならば殺すことが告げられる。閏7月29日、静は男子を産み、磯禅師が赤子を取り上げて使者の安達清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。
  • その後磯禅師と静は京都へ返されたというが、その後の消息は伝わっていない。


 薙刀

  • 堀川の館で土佐坊昌俊の夜襲を受けた時、静は薙刀を手に奮戦したと伝わる。この時に使ったのが「小屏風」といい、その後義経が九州に逃げる際に、供奉していた豊後の住人緒方惟栄に与えた。

 関連項目


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