長尾顕長


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 長尾顕長(ながお あきなが)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将
下野の足利長尾氏当主
平顕長、長尾新五郎

Table of Contents

 生涯

  • 上野国の由良成繁の3男で、由良国繁と渡瀬繁詮の弟に当たる。正室は長尾当長の娘。子に宣景、宣長。
    横瀬景繁─┬横瀬泰繁─由良成繁
         │      ├───┬─由良国繁─┬由良貞繁
         │     妙印尼  │  │   └由良忠繁【高家旗本】
         │          │  │
         │     結城晴朝─│─┬娘
         │          │ ┝結城秀康
         │          │ └鶴子(養女、秀康正室)
         │          │
         │          ├─渡瀬繁詮(横須賀城主)
         │          │   │
         │     有馬則頼─│┬有馬則頼娘
         │          │├石野氏満室─石野氏置【交代寄合】
         │          │└有馬豊氏【筑後久留米藩】
         │          │
         │          ├─長尾顕長(長尾当長の養嗣子)
         └長尾憲長室     │   ├───┬長尾宣景
            ├──長尾当長─│─長尾当長娘 └長尾宣長(土井利勝家老)
          長尾憲長      │
       【足利長尾家】      ├─由良成繁娘
                    │  ├──甲斐姫(秀吉側室)
               成田長泰─│┬成田氏長(下野国烏山2万石)
                    │└成田泰親【下総烏山藩】
                    │
                    └─由良成繁娘(マリア)
                       ├──直基、正直、七郎
               黒田職隆──┬黒田直之(黒田二十四騎、黒田八虎)
                     └黒田如水─長政【筑前福岡藩】
    

 由良氏

  • 由良氏は、元は新田四天王の一人、由良具滋の末裔にあたる家系という。

    由良家之先祖一代武蔵國七党之内丹治姓由良某家ヨリ為養子嗣横瀬、依之此時露其源称由良云々、又或説其世諺沢尻・小金井・嶋・横瀬唱新田四天王云、其中横瀬別而禄厚久住由良郷、故里人自始唱由良殿、当此時横瀬陪臣称号而慮家中信用之可薄事、習地名而謂改由良不知孰是事

    新田四天王:栗生顕友、篠塚重広、畑時能、由良具滋。
     由良具滋は、武蔵七党の一つ猪俣党の出という。

  • 戦国時代には上野国で「横瀬氏」を名乗り、戦国大名岩松氏の家老として仕える。
  • 横瀬氏は、文明9年(1477年)に、岩松家純が神水三ヶ条事を定めて横瀬国繁の地位を認めている。
  • その後、父・成繁の代に下克上を起こし、岩松氏を倒して新田金山城を奪い、姓を先祖の新田氏が相伝していた由良郷から取り「由良氏」に改めた。
  • 領国である上野国は、武田氏・上杉氏・古河公方足利氏・後北条氏と、周囲を強大な勢力に囲まれていたため、由良氏は関東管領上杉氏、後北条氏、上杉謙信、再度後北条氏と次々と所属勢力を変え生き残りを図った。
  • 妻の妙印尼は、館林城主・赤井重秀の娘。

 父・由良成繁

  • 父の由良成繁は、横瀬泰繁の長男として誕生。
  • はじめ岩松氏に家老として仕えていたが、下克上を起こして主君の岩松守純から新田金山城を奪っている
  • この際、鎌倉時代に新田氏宗家が代々相伝していた上野新田郡由良郷(現・群馬県太田市由良町)の地名より名字をとり姓を由良に改めた。

 長尾顕長

  • 長尾顕長は、由良成繁と妙印尼の三男として弘治2年(1556年)に生まれる。
  • 幼名新五郎。
  • 永禄12年(1569年)には北条氏康のもとで、長尾当長と共に越相同盟の成立に大いに貢献した。この関連もあり、顕長は足利長尾氏である長尾当長の娘を娶り、その家督を継いでいる。
    長尾当長の母が、顕長の祖父・横瀬泰繁の姉妹にあたり縁戚関係にある。

 織田家進出

  • 天正10年(1582年)に甲斐武田氏が織田氏に滅ぼされると、長尾顕長は他の上野国衆と同様に長兄国繁と共に滝川一益に仕える。
  • 本能寺の変が起こると最初は滝川方についていたが、その後滝川方敗戦と同時に再度後北条氏に従属する。
  • 天正11年(1583年)、上野の厩橋城を攻め落とした北条氏直は、佐竹氏を攻めるべく由良氏居城である金山城と館林城の借用を申し出る。兄弟はこれを承知したが、家臣らが反発して国繁らの母である妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまう。篭城勢は、佐竹義重、佐野宗綱と結んで北条方であった小泉城の富岡秀長を攻め立てるが、天正12年(1584年)8月から12月にかけて北条方の攻勢を受け、城は落城した。
  • 天正13年(1585年)正月、金山城、館林城は当初の予定通り北条氏照に明け渡され、代わりに兄弟の知行は安堵されて由良国繁(顕長兄)は柄杓山城(桐生城)、顕長は足利城へ本拠を移した。

 秀吉による小田原征伐

  • 天正14年(1586年)正月、国繁・顕長兄弟は隣国の佐野氏当主佐野宗綱と抗争し、これを討ち取る。北条氏に対して佐野氏の所領支配を願い出るが、これは認められなかった。
    ※天正14年7月に北条氏政から「山姥切」を拝領している。
  • 天正15年(1586年)正月、国繁兄弟はついに佐竹義重に通じて北条氏直に叛旗を翻すが、天正16年(1588年)には降伏。これにより桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。
  • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐を開始する。
    ※天正18年には国広が足利を訪れており、2月には足利顕長の依頼を受け「山姥切国広」(写し)を作刀している。また5月には「山姥切」にも銘を入れている。
  • 3月29日には伊豆国山中城、鷹之巣城、4月1日には足柄城が落城し、先発隊は4月3日には小田原城下に到達している。
  • さらに4月20日には松井田城、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)、玉縄城(4月21日)、江戸城(4月27日)、岩槻城(5月22日)、鉢形城(6月14日)、八王子城(6月23日)と関東方面の諸城が次々と落城し、ついに7月11日には北条氏政と弟北条氏照が切腹し、戦国大名としての後北条氏は滅亡する。

 その後

  • この時、由良兄弟は小田原城に籠もって戦ったため、北条氏滅亡後に所領を召し上げられて浪人となる。
  • 一方国繁・顕長兄弟の母である妙印尼は、国繁嫡男の貞繁を大将として総勢200人の兵を集めて松井田城を攻撃していた前田利家の陣に参陣し、従軍している。この功により後北条氏滅亡後も罪を問われず、妙印尼に対して常陸牛久5400石が与えられ、のち国繁が相続している。この時、長尾顕長も牛久に身を寄せている。

    新田身上の事、うへさま(秀吉)御まへ無別条やうに精をいれ、馳走申まいらせ候、我々たしかに請取申候、ゆくヽまても疎意あるましく候間可御心安候、かしく、
        ちくせんの守
     六月七日          とし家(利家黒印)
     
      新田御老母へ
           まいる

      常陸國内牛久在々目録
    (略)
      都合伍千四百参拾五石
     右宛行畢、全可領知候也、
     
       慶長参年正月廿七日(秀吉朱印)
         由良国繁とのへ

  • その後、顕長は常陸の佐竹義宣に仕えたが、その後再び流浪の身となった。
  • 元和7年(1621年)没。

 系譜

 母・妙印尼輝子

  • 上野館林城主・赤井重秀の娘で、輝子。
    上野赤井氏は、上野国邑楽郡佐貫荘(現・群馬県館林市周辺)を支配した士族。出自は諸説ある。元は秀郷流の佐貫氏が立ったが、15世紀中頃には下剋上により上野赤井氏は独立したという。大永8年(1528年)に赤井重秀がおり、その娘が妙印尼輝子だという。※長男・由良国繁は天文19年(1550年)生まれ。
  • のち横瀬氏8代当主である横瀬(由良)成繁と婚姻する。
  • 子供に、由良国繁、渡瀬繁詮、長尾顕長らがいる。
  • 夫の由良成繁亡き後も影響力を発揮し、天正11年(1583年)に息子である国繁・顕長兄弟が後北条氏に捕らわれると、妙印尼は家臣らをまとめて籠城している。この時妙印尼は71歳。
  • さらに天正18年(1590年)でも、国繁・顕長兄弟は小田原城に籠城したが、妙印尼は嫡孫である由良貞繁を後見して兵200人を集めて前田利家の陣へ参陣している。
  • この功により、妙印尼は牛久に堪忍料5400石を与えられたという。
  • 文禄3年(1594年)に81歳で没。

 長尾顕長の子孫

  • 長尾顕長の子・長尾宣景は、後に古河藩主土井利勝に仕えて家老職となったという。

 兄・由良国繁の子孫

  • 長尾顕長の兄・由良国繁はのち、母の妙印尼に与えられた牛久5400石を相続して秀吉に仕え、秀吉の死後は家康に仕えている。
  • 関ヶ原の戦いに際しては江戸城の守備を命じられており、戦後は下総国相馬郡内1,600石余を加えられて、合計7,000石余を知行した。慶長16年(1611年)正月3日、死去。享年61。嫡子の貞繁がその跡を継いだ。
  • 由良氏2代由良貞繁(新六郎、出羽守)は、天正18年(1590年)に家康に仕え下総海原郡で3000石。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は永井直勝の部隊に属して出陣、近江蒲生郡で2000石加増。慶長7年(1602年)5月松平康重らと水戸城を守備。12月には加恩を受けている。父・国繁病死に伴い、遺領7000石を相続し、都合1万2千石となるところ、部屋住料5000石を返還し、遺領7000石のみを相続する。大坂の陣では土井利勝に従って従軍したが、夏の陣で鴫野口の戦いで負傷したという。元和7年(1621年)3月23日に病死。
  • 国繁の次男・貞長(後の由良忠繁)は幼名・五郎八。通称・市兵衛。のち兄の由良貞繁の跡を継いだ。
  • この由良氏は一時断絶しかけるが土井家お預かりとなり、のち元和9年(1623年)に新六郎貞長が召し出され、一字拝領して忠繁と改め父・貞繁の遺領を拝領した。その後も高家由良家として明治維新まで存続している。
  • さらに由良氏4代の由良貞房の四男・貞顕は、横瀬氏を名乗り表高家に加えられ、この高家横瀬氏も江戸時代末まで存続した。

 弟・渡瀬繁詮

  • 長尾顕長の弟の渡瀬繁詮は、左衛門佐。はじめ親兄弟と同様に後北条氏に仕えていたが、後に中央に上って羽柴秀吉の家臣となった。天正13年(1585年)の紀州討伐などで活躍して秀次付きの家老となる。天正18年(1590年)に秀次が尾張と伊勢五郡を加えられると家老衆も東海諸国へと移り、渡瀬繁詮は3万石を与えられ遠江横須賀城主となっている。
  • しかし文禄4年(1595年)に秀次事件が起こると繁詮は連座して改易され、佐竹義宣に預けられた後、切腹を命じられた。繁詮の領地と家臣団は、義弟(渡瀬繁詮の正室が豊氏の姉)であり、家臣であった有馬豊氏が継承し、のち豊氏は福知山、のち筑後久留米藩初代藩主となった。

    同(文禄)四未年八月 横須賀は渡瀬繁詮の所領なりしに同人屠腹の後國除る其後春林公(豊氏)御拝領渡瀬家の浪人三十三人御家臣と成

 甲斐姫

  • 長尾顕長の姉妹に当たる由良成繁の娘は、忍城城主成田氏長に嫁いでおり、元亀3年(1572年)に甲斐姫を産んでいる。
  • 天正元年(1573年)、成田氏と由良氏の関係悪化に伴い、母とは2歳の時に離別している。その後は氏長継室となった太田資正の娘の下で育てられている。
          由良成繁
            ├──┬由良国繁
          妙印尼  ├長尾顕長 ┌成田氏範
               └成繁娘  ┝泰親
                  ├──┴甲斐姫
    成田親泰─┬成田長泰─┬成田氏長
         │     │  ├──┬巻姫
         │     │太田資正娘└敦姫
         │     │
         │     │
         │     └成田泰親─┬重長
         │           ├泰之
         │           └泰直
         └成田泰季──成田長親
    
    
  • 天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐の際に、石田三成は兵2万余りを率いて忍城を囲む。この時、成田氏長と弟の成田泰親は小田原城に詰めており、忍城には城代として成田泰季とその子成田長親が残った。
  • 成田泰季は軍功で世に名を知られていたがこの時期すでに老境にあり、この籠城中に病死する。
  • 三成が忍城攻略に手こずっている中、6月25日には浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられる。この時城代となった成田長親が自ら出陣しようとするが、当時19歳の甲斐姫はこれを押しとどめて自ら鎧兜を身に着けると、成田家に伝わる名刀「浪切」を携え、200余騎を率いて出陣して浅野勢の侵入を阻止することに成功し、甲斐姫自身も多くの敵将を討ち取ったとされる。
  • さらに7月5日には豊臣方が三方から同時に攻略を開始し、持田口では両軍による激しい戦闘が行われた。浅野勢の猛攻により持田口の捨曲輪が攻め破られ多数の死傷者を出したが、このときも甲斐姫は自ら200余騎を率いて持田口に加勢し、佐野勢の三宅高繁という武将と対峙すると相手を弓矢で討ち取ったと伝えられている。
  • しかし7月6日に小田原城の北条氏直が豊臣方への降伏を決めたため、遂に7月14日忍城は開城した。
  • 戦後、成田一族は蒲生氏郷に預けられ、同天正18年(1590年)9月に氏郷が会津転封を命じられるとこれに従っている。氏郷は、成田氏長に福井城1万石を与えて厚遇している。
  • 11月、陸奥国中部で発生した葛西大崎一揆に呼応して伊達政宗の軍勢が会津領内の塩川に侵攻するとの情報が入ると、成田氏長は家臣を率いて塩川へ出陣している。この時に氏郷により成田家に付けられていた浜田将監と弟の浜田十左衛門が謀反を企てて本丸に攻め入ると、一旦は200余人を有する浜田十左衛門の兵に対して十数人足らずの甲斐姫は追い詰められるが、反撃に転じると馬を使って逃走を図る十左衛門に迫ると斬りつけて落馬させ、その首を討ち取っている。さらに逃走を図ろうとした浜田将監に対し、薙刀を構えて待ち伏せていた甲斐姫は将監の太刀を払い落とし、右腕を切り落として生け捕りとしている。
  • この甲斐姫の武勇伝とその類まれな容貌を耳にした秀吉は、甲斐姫を上方へ上らせるよう命じ、のち自らの側室とした。慶長3年(1598年)の醍醐の花見の際に甲斐姫が詠んだとされる歌が残されており、秀吉が亡くなる頃まで近くにいたとされている。秀吉没後の甲斐姫については不明である。

 成田氏長

  • なお氏郷に預けられていた成田氏長は姫の口添えもあって、天正19年(1591年)に下野国烏山城主として2万石の領主に取り立てられている。氏長の死後、家督は弟の成田泰親(長忠)が継いだ。
  • 成田泰親は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与しており、在国して上杉景勝に備えた戦功を評されて、1万7000石を加増された。
  • 大坂の陣でも徳川方として参戦して武功を挙げたが、元和2年(1616年)12月18日、泰親が死去した後に家督争いが起こり、2万7000石の減封処分となる。
  • 家督は泰親の次男成田泰之(氏宗)が継いだ。成田泰之は元和8年(1622年)11月8日に死去し、成田家では家督をめぐっての騒動が起こり、改易となる。これにより大名家としての成田家は途絶えるが、のち末孫の成田正安が元禄4年(1691年)に御家人に列し、子の成田正末の代に旗本に昇格し、その養子の成田正之は勘定衆となっている。

 関連項目


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