酒呑童子
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酒呑童子(しゅてんどうじ)
丹波大江山千丈嶽(せんじょうだけ)の鬼の岩屋に棲んだという鬼
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概要
- 若い頃は、伊吹童子と名乗り、父は伊吹弥三郎(佐々木信綱に摩利支天の秘法を使って倒されたという)、母は大野木殿の娘という。
御伽草子「酒呑童子」では、自らの生涯を次のように語っている。生国を越後とし、山寺で稚児として育ったものの法師に恨みを持ち、数多の法師を刺し殺してしまう。比叡山に流れて棲家としたところ、弘法大師に封じられてしまうが、大師も世を去り高野山に入定したため、この大江山を棲家としているという。
あるいは、越後蒲原郡中村の百姓の子の外道丸であるといい、久上村の山寺に入れられたともいう。越後地方に伝わる伝承では酒呑童子は弥三郎婆の子であるといい、いっぽう御伽草子「伊吹童子」では弥三郎の子が伊吹童子であるとする。
さらに「弥三郎」とは鎌倉時代の武士柏原弥三郎のことであるともいう。柏原弥三郎は源頼朝に仕え、屋島・壇ノ浦の戦いで功があり近江柏原の地を給い京都警備の大役を命じられる。しかしその後、寺社領を横領するなど勝手な振る舞いがあったとして追討の宣旨が出るまでになってしまう。吾妻鏡によれば、建仁元年(1201年)5月17日条において佐々木四郎信綱らが逐電中の弥三郎を発見し、これを誅戮したとの記事が載る。この事件は濡れ衣であったといい、それが口碑伝承される中で伝承上の「弥三郎」へと生まれ変わったのだとする。
- 近国者や都の美女をさらって食べて人々を困らせたため、源頼光に退治されたという。
- 小鬼2匹(茨木童子、唐熊童子/青鬼、赤鬼/土蜘蛛、鬼童丸)を従える場合が多い。この時に使われた剣は童子切安綱として名高い。
- 白面金毛九尾の狐、大天狗と化した崇徳天皇と並び、日本三大悪妖怪と謳われる。
- 酒顛童子・酒天童子・酒伝童子とも。
伝承
- 一条院の時代に、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭うことがあった。一条院の近臣池田中納言国隆(花園中納言と堀川中納言の娘とも)の娘まで拐われるに及び、安倍晴明に占わせたところ大江山千丈ヶ岳に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかったため、帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。
頼光仰せけるやうは、この度は人數多にて叶ふまじ、以上六人が山伏に様をかへ、山路に通ふ風情にて、丹波の國鬼が城へ尋ね行き、栖だにも知るならば、いかにも武略をめぐらして、討つべきことは易かるべし、面々笈を拵へて具足冑を入れ給へ、人々いかにとありければ、うけ給はると申して、面々笈を拵へける。まづ頼光の笈には、らんでん鎖と申して緋縅の御鎧、同じ色の五枚冑に、獅子王とこそ申しける、ちすゐと申しゝ劔二尺一寸候ひしを、笈の中にぞ入れ給ふ。保昌は紫おどしの腹巻に、同じ毛の冑を添へ、岩切と申して二尺ありける小薙刀、二重に金を延べつけて、三束あまり捩ぢ切りて、笈の中へぞ入れ給ふ。綱は萌黄の腹巻に同じけの冑をそへ、鬼切と云ふ太刀を笈の中にぞ入れ給ふ。定光と季武、金時も、思ひゝの腹巻におなじけの冑をそへ、いづれも劣らぬ劔を笈の中にぞ入れにける。
- 来光らが旅の者を装って鬼の居城を訪ね酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。
- 頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗し、酒呑童子の首級を京に持ち帰り凱旋した。首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。
- 首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。
配下
- 酒呑童子の配下には、副首領の茨木童子のほか、熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の四人の鬼が四天王としており、いくしま童子という名前も伝承上に存在する。
場所について
- 古来酒天童子がいたのは「大江山」であるとされ、これは現在の丹後半島の付け根にある丹後天橋立大江山国定公園に含まれる。この大江山は、小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」という歌に詠まれている。
- しかし一説に、酒呑童子がいたのは「大枝山」だったという説がある。この大枝山は現在は老ノ坂として知られる場所で、京都市と亀岡市の境に位置する。大枝山は、古来平安京の四堺(大枝・山崎・逢坂・和邇)の一つであり、ここまでが都とされた。
- 戦国時代、丹波亀山城を出発した明智光秀が京へ向かうのに通ったのが、後者の大枝山(老ノ坂峠)である。
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