鄙田青江
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鄙田青江(ひなたあおえ / ひなだあおえ)
太刀
銘 恒次
2尺3寸6分(71.5cm)
個人所蔵
- 刃長二尺三寸五分、刃長二尺三寸五分五厘、刃長二尺三寸六分など諸説ある。
- 鋩子は小丸で品よく返る。中心磨上、目釘孔2個。「恒次」の二字銘。
由来
- 日向(鄙田)半兵衛(守兵衛、平兵衛とも)が所持していたためこの名がついたという。
享保名物帳では「越中富山鄙田半兵衛」とするが、越中富山ではなく、駿河大納言忠長の家臣とされる。
来歴
日向半兵衛
- 日向半兵衛政成は、駿河大納言徳川忠長の家臣。
- 徳川忠長は寛永9年(1632年)に高崎藩にお預けとなり、日向も遠州横須賀藩にお預けとなった。寛永13年(1636年)に赦免となり知行三千八十石を与えられるが、寛永20年(1643年)5月2日に79歳で没した。
- 寛永17年(1640年)には日向が本阿弥に対して本刀を鑑定に出しており、十三枚の折紙をつけている。
この後、本刀の行方はわからないが、数年後には豊前小笠原氏の所持となっている。恐らく寛永20年(1643年)に政成が死んだ後、嗣子の政次が父の遺物として献上、あるいは鑑定の後に売却し、それが小笠原氏に伝わったものと思われるが、公式記録に記載なく詳細は不明。
小笠原忠真→黒田光之
- 正保4年(1647年)豊前小倉藩小笠原忠真の娘市松姫(宝光院)が黒田忠之の嫡子光之に嫁いだとき、婿引出として本刀を光之に贈っている。
この時、黒田家から小笠原家に対しては「博多藤四郎」が贈られている。市松姫の母は本多忠政の娘亀姫。酒井忠挙正室の筑姫、黒田綱之、福岡藩4代藩主黒田綱政、直方藩主黒田長清らを産んでいる。
黒田家代々
- その後は黒田家に伝わる。
- 戦後同家を出た。
- 現存。
日向氏(ひなたし)
- 日向氏はもとは甲斐の巨摩郡村山郷を本拠とした国人領主という。戦国期には武田氏の家臣団に加わっている。この日向氏に「大和守」というものがおり、武田信虎期に大和守是吉、信玄・勝頼期に大和守虎頭がそれぞれ登場する。
玄東斎
- 本刀の日向氏は、元は清和源氏義光流・小笠原支流の新津(にいづ)氏を称していたが、玄東斎の時に祖母の姓である「日向」を名乗ったという。※新津玄東斎の祖母は、日向大和守某の母という。
- 玄東斎は武田氏に仕え、元亀3年(1572年)11月20日には信玄から駿河厚原郡のうちにおいて七十貫文の地を拝領した。慶長13年(1608年)5月14日87歳で没。法名宗立。
日向政成
- その玄東斎の子が政成で、傳次郎、半兵衛と称した。
- 妻は、内藤修理亮清成の娘、後妻は横田十郎兵衛の娘。また永井信濃守尚政の娘を娶っている。
- はじめ武田勝頼に仕える。
- 天正8年(1580年)には伊豆戸倉城主の松田新六郎(松田憲秀の長男、笠原政尭とも)が武田氏に通じて後北条氏に叛旗を翻した際には、日向政成は新六郎に属し戸倉城に篭って戦ったという。
- 天正10年(1582年)に武田家が没し、後北条氏が甲斐の湯野多伊羅(ゆのたいら)に城を築くと、家康は岡部次郎右衛門正綱、曽根下野守正清らを派遣してこれに当たらしめている。この時日向政成は、正綱・正清らに属して後北条氏と戦い首級を挙げている。
- 本能寺の変の後、いわゆる「天正壬午の乱」では依田信蕃の下で徳川方として活躍し、同年に家康に初めて拝謁、御家人に列している。この頃、甲斐竹居・駿河厚原において百七十貫文の本領を安堵されている。
- 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは松平忠左衛門重勝の組に属して首級を挙げている。さらに慶長7年(1602年)には伊勢・近江・甲斐の郡代を務め、大坂の役では鉄砲足軽50人を預けられ参陣し、甲斐八代・巨摩において千石余の加増を受けている。
- 大坂夏の陣に際して、家康が上洛して様子を尋ねる逸話が実紀(東照宮御実紀附録巻十五)に載る。
- 慶長5年(1600年)には駿河大納言忠長に附属するが、寛永9年(1632年)に忠長が高崎藩にお預けとなると、日向も遠州横須賀藩にお預けとなった。
寛政重脩諸家譜には「政成も松平式部大輔忠次にめしあづけられ」とするが、榊原忠次(大須賀忠政の長男、榊原康政の孫。生母の祥室院は家康の姪)は4年前に没しており、恐らく横須賀藩井上正利ではないかと思われる
- 寛永13年(1636年)に赦免され、武蔵・上野において三千八十石余の采地を賜っている。寛永20年(1643年)5月2日79歳で没。法名日景。
日向政次(正次)
- 傳右衞門政次
- 政成の子で、母は永井信濃守尚政の娘。
- 家光に仕え、書院番から御先鉄砲組頭を務めている。子孫は旗本寄合として続く。
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