豊後正宗
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- 同名刀が二口ある。
豊後正宗(ぶんごまさむね)
- 享保名物帳所載
豊後正宗 無銘長八寸 代金二百枚 大久保加賀守殿
多賀豊後守所持、本棟に切込あり刄かね残る
- 刃長八寸、平造り、真の棟。身の中ほどの棟に昔は切込みがあり、相手の刀鉄が残っていた。現在もかすかに痕が残る。
- 中心はうぶで、振袖形。目釘孔4個、3個は埋める。無銘。
由来
- 多賀豊後守高忠所持にちなむという
来歴
- 元は多賀豊後守高忠所持という。
- ※異説あり、後述。
秀吉
黒田如水→竹中重利
- 一時竹中重利が所持していたとされる。
慶長七年夏、重隆議采女正曰、我曾親睦黒田如水軒父子至深、故吾馳筑前欲改舊好友、重興同焉、於之重隆到筑前覇家臺、而後登城、于時如水軒迎重隆於庭際、是時竹中重隆謁於如水軒父子、圓清命家臣饗應重隆(略)、故今與一刀於貴公、(略)擇出九寸五分小刀、以請之、圓清見之寄曰(略)、伊豆守告暇歸豊府、改其小釼於京師、是正宗之正作也、重隆大喜異名豊後正宗
文中名前がコロコロと変わる。「重隆」「采女正」「伊豆守」は重利のこと。「重興」は息子の竹中重義。「圓清」は如水の戒名(龍光院殿如水円清大居士)。
竹中重利は半兵衛重治の義弟。通称源助。重信、重義、隆重、重隆とも。従五位下、伊豆守。文禄3年(1594年)に豊後1万3千石。関ヶ原の後に豊後府内で荷揚城(大分城)を与えられ2万石。
- これが正しいとすれば、秀吉から黒田如水へと渡り、その後竹中重利へと渡ったことになる。慶長7年(1602年)夏に曰くとなっており、如水からの譲渡はそれ以前ということになる。また豊後の異名も、多賀豊後守所持によるものではなく、重利が豊後にて手に入れたために名付けたということになる可能性がある。ただしこの頃九寸五分あった刃長が、享保には八寸に縮んでしまっている謎も残る。
重利の子の竹中重義は、豊後府内2代藩主。長崎奉行に任じられるが、のち密貿易などの不正で訴えられ、寛永11年(1634年)2月に改易。切腹を命じられ、竹中家は断絶する。本刀はこのときに将軍家に没収された可能性がある。
大久保家
- 享保名物帳編纂時は大久保加賀守忠方所持。
大久保忠方(おおくぼ ただまさ)
大久保忠方は相模小田原藩の第3代藩主。小田原藩大久保家5代。正室は柳沢吉保の養女。一説にこの忠方が将軍(家継・吉宗)より拝領と言うが、寛政重脩諸家譜には祖父忠朝、父忠増、本人のいずれも該当する記述なし。※忠朝は元禄7年に正宗御刀を拝領している。
三井家
- 昭和6年(1931年)9月に行われた大久保子爵家の入札で「名物 豊後正宗短刀」は2660圓で落札されている。
長七寸九分余 二百枚光温小札付 織出袋入り 金無垢二重鎺 拵銀無垢定紋唐草彫金具に海老鞘塗箱入 小刀二本添
- 戦後昭和23年(1948年)5月、神奈川県大磯の三井家別荘にあったものが何者かに盗まれる。
- 昭和34年(1959年)、アメリカサンフランシスコ市在住の山中純公氏が所有していることが判明し、三井家が買い戻した。
豊後正宗
大脇差
刃長一尺九寸五分五厘
- 同名の脇差もある。こちらは大坂夏の陣で焼失。
由来
- 多賀豊後守高忠所持にちなむという
来歴
立花家
- 立花宗茂の所持。
秀吉
- 本阿弥光徳「大坂御物名物刀剣押形」にも記載がある
豊後正宗 壱尺九寸五分半
- 大坂落城で焼ける。
- 「駿府御分物帳」には「御腰物(大坂焼物) 」として所載される。
- その後は行方不明。
池田家
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