芦葉江
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芦葉江(あしばごう)
刀
無銘 伝郷義弘
号 芦葉江
長さ71.5cm、反り2.6cm
香川県指定有形文化財
高松市歴史資料館所蔵(高松市)
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由来
- この刀には、細川忠興(三斎)の詠んだ歌が附けられている。その歌から名付けられたという。
難波江のうどのの里に来て見ればあしとは見えぬ義弘の太刀
- これに貫名海屋の細字で何か由緒書きが認められているという。
来歴
- 元は小西行長が拝領したもので、昭和になって大西家で発見された。
元は讃岐揚家の所有ともいう。揚(あげ)家は桓武平氏を称し、元は久保姓という。讃岐(香川)きっての資産家として知られ、刀剣も多数所蔵した。
「芦葉江」は、琴平電鉄社長の大西禎夫の元に揚家(欣之助氏か)の娘が輿入れした際に大西家(小西家)に移ったという。大西禎夫氏の後、琴平電鉄は禎夫の実兄虎之助の息子大西潤甫氏が継ぐがのち経営破綻、その後は香川日産自動車前社長の真鍋康彦氏が社長となった。現在は真鍋氏の長男である真鍋康正氏が社長となっている。
- 大西家は讃岐高松に土着した多くの小西家の残党の中で一番の大家族であったため、世の人が「小西ではなく大西だ」と呼ぶようになり、後に大西姓を名乗るようになったという。
- その後、坂出市の医者で愛刀家の下村勲氏が入手。
- 下村氏の死後10年目の命日に高松市に寄贈された。
- 平成11年(1999年)6月22日に香川県の有形文化財に指定。
- 現在は高松市歴史資料館で所蔵。
貫名海屋(ぬきな かいおく)
江戸後期、徳島生まれの文人書画の巨匠で儒者
貫名菘翁(ぬきな すうおう)
- 書は、市河米庵・巻菱湖とともに幕末の三筆として称される。
- 姓は吉井、名は苞、字を君茂・子善、通称は省五、のち泰次郎。
- 号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数あるが、海屋・菘翁・方竹山人・須静山人が知られる。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂・笑青園など。
- 安永7年(1778年)3月、徳島藩士で小笠原流礼式家の吉井直好の二男として徳島城下御弓庁に生まれた。母は藩の御用絵師矢野常博の娘。
- 兄は吉井直道(礼蔵、永蔵。号 其楽)。
- 娘婿に門人であった貫名海雲(ぬきな かいうん)。播磨洲本の生まれで、外山三太夫の次男。本姓は加藤氏。通称右近、与三郎。海屋の二女を娶って跡を継ぎ、私塾・須静堂の塾頭となった。一条忠香に招かれて息女・美子(明治天皇の皇后。後の昭憲皇太后)に漢学と書を教授し、のち学習院書博士となった。明治20年(1887年)死去。
外山三太夫は阿波麻植郡学島村の人。洲本城代家老稲田家に仕えた。千家流生花を教授した。号 一也亭及知。明治20年(1887年)9月20日死去、享年86。
儒学者として
- 幼少の頃は弓町の儒医を業とした木村蘭皐に学び、後に13~14歳の頃は阿波国那賀郡黒津地村の光明寺に寓居して高橋赤水に就いて儒学を学んだ。17歳の頃、母方の叔父・矢野霊瑞を頼って高野山に登って学問に励み、山内の図書を貪り読んだと伝えられる。その後22歳で大坂の懐徳堂に入門し、中井竹山の下で経学や史学を学び、やがて塾頭となった。
- 文化8年(1811年)頃、京都に移ると私塾・須静堂を開き朱子学を中心に教えた。
- 60歳の頃に海屋と号し、70歳頃に聖護院付近に移り住み、名産の野菜・菘(スズナ、蕪の古名)に因んで菘翁と号した。最晩年になって下賀茂に隠居した。
- 文久3年(1863年)5月6日、86歳で死去、京都東山高台寺に葬られた。
文人画家として
- 少年期に西宣行に米元章の書風を学び、のち高野山では空海の真蹟に強い影響を受ける。最晩年85歳の時に中風で倒れ会話執筆ともに困難になるが、筆を握り続けて書画の制作に打ち込んでいる。この時期の作品を「中風様」と呼び、傑作とされる。
- 画は母方の祖父・矢野典博に狩野派の画法を学んでいる。長じた後に当時一流の文人画家と親しく交流するうちに文人画の技法を修得したとされる。また、頼山陽、梁川星巌、猪飼敬所、摩島松南ら多くの儒者・文人とも親交を深めている。
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