竹俣兼光
竹俣兼光(たけのまたかねみつ)
- 享保名物帳所載
竹俣兼光 在銘長二尺八寸 所在不知
昔越後の侍竹股某所持なり、表鵜の首、裏樋三鈷に梵字あり、長銘延文の年号
- 上杉将士書上
二尺九寸ありて丈夫なる刀なれば
- 本阿弥光悦押形
たけまた 長サ二五四 うさ美とのより
- 刃長二尺五寸四分。佩き表に三鈷柄の剣、裏には腰樋のなかに食い違い樋のような浮き彫り。銘は「備州長船兼光 元徳三年十一月日」、目釘孔3個
- ※光悦押形は、「光徳刀絵図」と年紀銘や刃長、特徴が異なる。
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由来
- 越後老津の百姓が雷雨に遭い、この刀を頭上に頂いて逃げると、雷雨が過ぎた痕刀に血潮がついていたという。
- またある時、百姓が朝市で小豆を買い求め、小豆の入った袋を背負って歩いていたという。袋に裂け目があった為小豆が一粒ずつ落ちたが、百姓の刀の刃に触れて真っ二つに切れたという。「赤小豆粥」の項を参照。
- 上杉謙信配下の揚北衆竹俣三河守慶綱(三河守朝綱、筑後守春満とも)がその刀を買い上げて調べると兼光在銘の名刀で、「小豆兼光」と名付けて所持していた。
謙信の許に赤小豆粥、竹俣兼光、谷切とて三の刀あり。竹俣兼光は、もと越後の百姓持ちたりしに、ある時山中を通りしに雷烈しく鳴りたりしかば、あはや落かゝるかと思ひて、刀を抽き頭に指当て目をふさぎ居たり。やゝ有て空晴しに、刀の鋒より血流れ殷にそみたり。又或時大豆を袋に入れて帰るさに、袋の綻より一粒づゝこぼれけるが、鞘にあたりて二ツに成りしかば怪しみ見しに、鞘のわれて刃は纔に出たりしに当し故なり。双なき刀とて竹俣三河守乞得しが、謙信後にさゝれけり。
(常山紀談)上杉謙信の太刀に、赤小豆粥〈鎌倉行光三尺一寸川中嶋にて信玄と太刀打の時の太刀也〉竹股兼光、谷切〈來國俊ノ作也〉と云て三腰有り、竹股兼光は、元來越後老津之百姓是を持、山中を通りけるに、雷頻に鳴かヽりしかば、百姓は刀を拔、切先を頭上にさし上、目をふさぎ居たり、暫して天晴しかば彼刀を見るに、切先一尺計血に成り、百姓の頭も衣も血かヽりて有、雷落懸り此刃に當りて、又天へ上りしに無レ疑と云共、右、之血如何成故にや、
(武辺咄聞書)
来歴
- 能登穴水の合戦の際に竹俣三河守はこの兼光で奮戦するが、噂を聞きつけた謙信がそれを召し上げて自分の佩刀にしたという。「竹俣兼光」
- 謙信は川中島の合戦においてこの兼光を帯びて武田陣に深く攻め入り、輪形月平太夫と言う鉄砲兵をその鉄砲ごと切り捨ててしまったという。「鉄砲切り兼光」、「一両筒」
弘治年中川中島合戦に、信玄の兵輪形月平大夫といふ者鉄炮をもてねらひしを、謙信馬を乗寄せ、一刀に切伏て、かけ通られけり。後に甲斐の兵ども是を見るに、輪形月は物具かけて切られ、持たる一両筒は二の見通の上より切放したり。「いかなる刀にてかくは切れし」といひあへるに、則かの兼光の刀なりけり。
(常山紀談)弘治二年三月廿五日夜、川中島合戦に、信玄の味方討死の死骸の中に、一匁玉の鉄砲を持ちながら切伏せられたる者あり、其持ちたる鉄砲の筒、二の目當りの所を三分二切放ちあり、甲州方見て、疑もなく謙信の竹股兼光にて候、切りたる所見事なりと沙汰せしなり、希代の大業物なり
(上杉将士書上)
- 謙信の死後上杉景勝に伝わり、京都に研ぎに出したところ偽物騒動が起こる。※詳細は後述
- 天正14年に秀吉が召し上げている。
今度上洛事、誠遠路之心指、不浅候、殊重代竹俣兼光進上之段、別而祝着之至候(略)
天正十四年八月三日(秀吉花押)
上杉少将とのへ
(上杉家文書)先刻ハ竹股兼光之刀給候、まんぞくニ候、高(鷹)之つる(鶴)しゝ(鹿肉)おくり候 恐々 かしく
九月一日秀吉(花押)
なお上杉景勝が、上洛して秀吉と会見し、養子・畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出して臣従したのは天正14年(1586年)6月である。
- 秀吉から秀頼に伝わる。
- その後大坂落城のおりに行方不明になり、徳川家康(秀忠)が黄金三百枚を出す事を条件に探させたが、見つかっていない。
秀吉公御秘蔵ありて秀頼公へ御譲り、摂州落城の時、和泉・河内の中へ持ちて落ちたりと沙汰に付、秀忠公御尋の所、若し持出て候者あらば黄金三百枚くださるべしと仰出され候へども出て申さず候由
(上杉将士書上)
偽物騒動
- 謙信の死後、上杉景勝が京都の研師にこの兼光を砥ぎに出したところ、偽物騒動が起こった。
- しかし、元の持ち主である竹俣三河守が、兼光にはハバキから一寸五分のところに馬の毛を通すほどの小さな孔(あな)があったと申し出たため、偽物であることが発覚した。
- 景勝は急ぎ家臣を京に向かわせ本物を探し出し、偽物に関与した人物をすべて処断したという。
景勝代に京都へ遣し拵へ、直に登せ、一年程出来して越後へ来る、景勝輒(すなわ)ち謀臣をして被説あるに、二代目の竹俣三河守見て、是は偽せ物にて候、元の兼光にてなしと申す、景勝、其仔細を尋ね給ふ、三河守申上ぐるは、元の兼光は、脛巾金一寸五分上の鎬に、指表より指裏へ、髪條の通る程の穴ありしが、今此刀になしと申すに付、京都へ使を登せ、石田治部少輔へ内證を申し、吟味穿鑿するに、清水坂の刀商人盗みて、其代に新身を以てかげかつへ進上せしとなり、同類廿二人露見し、秀吉公仰付けられ罪し給ふ、元よりの正直の竹股兼光の刀、景勝へ戻し、竹股持参して件の穴へ馬の毛を一筋通し候て御目に懸くる故、景勝も希代の事に存ぜられ、彌く秘蔵し給ふ
(上杉将士書上)
竹俣三河守(たけのまた)
- 竹俣氏は揚北衆佐々木党のひとつ、加地氏の庶流。
加地季綱のときの1413年(応永20年)ごろ、居館の北楯の内の竹やぶに二俣の竹が生え、のち城郭を竹俣城に移したあとも二俣の竹が生えたので、加地の姓を改めて竹俣と称したという。
- 竹俣三河守慶綱(1524~1582)は、竹俣清綱の孫。竹俣為綱の子として生まれる。
- 慶綱は長尾景虎(謙信)に近侍して寵愛と信頼を得、越山七手組の大将の1人に抜擢され、本庄繁長の鎮定や川中島合戦にも功があったという。
- 天正10年(1582年)4月に越中に侵攻した織田軍に対して魚津城に篭り奮戦するが、天正10年6月3日(本能寺の変の翌日)落城と共に自刃する。
後継
- 竹俣家が断絶するのを惜しんだ上杉景勝により竹俣利綱(左京亮。後に清綱と改名)に継がしめたという。その後、竹俣家は家老として続き、江戸家老竹俣美作当綱などを出した。
- この「竹俣利綱」は、上杉家文書「御家中諸士略系譜」によれば、元の名を長尾景人といい、越後大浦城主を務めていたという。
- 一方、竹俣家系図によれば、竹俣利綱は長尾氏出身ではなく討ち死にした三河守慶綱の弟であり、兄の子勝綱がまだ幼かったために継いだともいう。その後、文禄2年(1593年)に勝綱が亡くなると竹俣家の家督を継承し、会津移封、米沢移封にも従った。
- 慶長18年(1614年)没。家督は市河房綱の子・清房が継いだ。
「二代目の竹俣三河守」
- 現存する宛行状などによると、天正16年(1588年)2月~文禄2年(1593年)5月まで竹俣勝綱(平太郎)、慶長3年(1598年)~5年(1600年)まで清綱(左京=利綱)に出されている。
- 「上杉将士書上」で語られる「竹股兼光」偽物騒動時は、本能寺の変以後~秀吉に召上げられる天正14年(1586年)以前であるため、偽物を見破った「二代目の竹俣三河守」は恐らくこの竹俣勝綱になると思われる。
なお「上杉将士書上」では、二十五将のひとり「竹俣三河守頼綱」の項で、父は筑後守春光とし、さらに「此竹股朝綱 秘蔵の刀に名誉の霊剣あり」として上記の竹俣兼光の話が語られる。この「頼綱」は魚津城で自害した三河守慶綱とされる。
「謙信記」では「竹股三河朝綱、父は筑後と申し」とあり、朝綱が「上杉将士書上」での「頼綱」であることがわかる。また「竹股三河子三十郎と申し、後三河と申候」と記しており、これが竹俣勝綱(平太郎)のことであると思われる。
参考
- 「琉球兼光」
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