立花宗茂


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立花宗茂(たちばなむねしげ)  

戦国時代の武将
高橋紹運の実子で、立花道雪の養子となる
従四位下・左近将監、侍従、飛騨守
筑後柳河藩の初代藩主
左近侍従

Table of Contents

生涯  

石動丸(いするぎまる)  

太刀
号 石動丸

  • 「不動丸(いするぎまる、ゆするぎまる)」、「不動宗近(ふどうむねちか)」とも。

由来  

  • 城資盛および和田義直所持の太刀
    この石動丸は、梶原景正の「鶴丸」(鶴丸剣)、および長江八郎左衛門景近の「蝶丸」であるともいう。梶原景正は延久元年(1069年)生まれで後三年の役に従軍。長治年間(1104年 - 1106年)に相模大庭御厨を開発し永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。長江景近は景政7代孫。

作者  

鶴丸釼(鶴丸剣)ヲツクレリ。此作太刀鎌倉ノ権五郎景正(梶原景正、景時の曽祖父)帯也。仍七代ノ孫ノ長江ノ八郎左衛門景近コレヲ傅テ蝶丸ト名ツク。ハバキニ金蝶ヲホリツケタル故ナリ。又彼ノ作太刀越後国城太郎貞重(城貞重)次資持。当国奥山ノ館ニ不動明神トアカメテ最後ノ時帯也。其後四十餘年ヲヘテ宝殿ノ中ニスコシモサヒスシテアリケルヲ和田ノ次郎左衛門尉(和田義盛)宝殿ヲ造カエ畠地三段永代令寄進此太刀ヲ申ウケテ不動ト名ツケテヒサウス。
(鍛冶名字考)

城太郎が奉納した箇所に下線を引いた。いくつかずらずらと並べている途中に登場し、城太郎が寄進し40余年を経て和田次郎左衛門が取り出し名付ける。なお梶原景正の鶴丸~蝶丸~不動丸までが同物だとする説もある。

  • 【一般的な解釈】:※つまり3つの刀について述べている
  1. (三条宗近は)「鶴丸剣」を作った。
  2. (三条宗近は)梶原景正が帯びた太刀も作った。7代孫の景近はこれに「蝶丸」と名付けた。
  3. (三条宗近は)城太郎貞重所持の太刀も作った。のち宝殿に収め、40数年後に和田義盛が取り出して「不動」と名付けた。
  • 【すべて同物とする解釈】:
  1. (三条宗近は)鶴丸剣を作り、それが梶原景正が帯びた太刀であり景正はこれを「蝶丸」と名付けた。のち城太郎貞重がその「蝶丸」を所持した後に宝殿に収め、40数年後に和田義盛が取り出して「不動」と名付けた。

蝶丸 京宗近 長口八郎左衛門太刀 権五郎景政ヨリ傳
古刀銘尽大全

友行 備前国住人 一条院御宇作ト云説アリ。寛和年中也。八郎左衛門尉所持ノチョウ丸作之。ハゞキゞハ(はばき際)ニ蝶ヲ打故也。又越前国城太郎助盛奥ノ山タチニ石動権現ヲ奉崇シカ、最後ノ時進宮ス。其後四十九年當時見ニ石シロミニシテサヒス。和田四郎左衛門尉ノ彼石シロミヲ所創十町寄進シテ申出シ其名ヲ石動丸ト云。ウコカサレハ不動丸ト云。
(長享銘盡)

城太郎が奉納した箇所に下線を引いた。こちらでも城太郎が寄進し、49年を経て和田四郎左衛門が取り出し名付ける。なお「長享銘盡」では長江景近の「蝶丸」も友行作となっているが、鶴丸は書かれていない。どこかで逸話が混同したと思われる。

城氏  

  • 城小太郎資盛は越後蒲原郡奥山庄に石動権現を勧請し信仰していた。
    城太郎定重(貞成)とも
  • 建仁元年(1201年)鳥坂城に拠って叔母の坂額御前とともに鎌倉幕府に反旗を翻す。このとき戦勝を祈願して友行(宗近)の名刀を寄進する。
  • 資盛は奮戦むなしく敗れる。
    「吾妻鏡」にも、城氏の先祖の出羽城介繁盛が狐から相伝した刀がこの戦で紛失したとする。

和田氏  

  • 和田義盛の五男五郎兵衛尉義重が中条の地頭に補せられ、その兄四郎左衛門尉義直は石動権現(いするぎごんげん)に所領10町を寄進して友行の太刀を申し請ける。
    和田義盛の孫、次郎左衛門尉義資とも。
  • 和田義重は、これを「石動丸」とも「不動丸」とも呼んで愛蔵したという。
  • 建保元年(1213年)和田義盛の乱で敗死し、石動丸も行方不明となる。


城資盛  

  • 平安時代末期から鎌倉時代初期
  • 平繁盛(平維茂)の流れを汲む越後平氏の城氏の一族
  • 城資永の嫡男。号は小太郎。
  • 養和元年(1181年)に父の資永が急死すると、叔父の長茂(助職)が城氏の家督を継承するが、横田河原の戦いの敗北などを経てその勢力は急速に衰退する。
  • 文治4年(1188年)頃に長茂が源頼朝に降伏した後も、資盛は再起を期して越後周辺に潜伏する。
  • 建仁元年(1201年)に至り、越後において叔母の坂額御前とともに挙兵し、周辺地域の御家人を圧倒する(建仁の乱)。
  • これに対し鎌倉幕府は佐々木盛綱を大将とする追討軍を派遣。反乱軍は要害の鳥坂城に拠って善戦するが、最終的には坂額が負傷し捕虜となったことから総崩れとなり、資盛は脱出して行方不明となった。

和田義直  

  • 吾妻鏡では和田義盛の五男とする。

    和田左衛門尉義盛率伴黨。忽襲將軍幕下。謂件与力衆者。嫡男和田新左衛門尉常盛。同子息新兵衛尉朝盛入道。三男朝夷名三郎義秀。四男和田四郎左衛門尉義直。五男同五郎兵衛尉義重。六男同六郎兵衛尉義信。七男同七郎秀盛。

  • 越後中条の地が五郎兵衛尉義重に与えられたとする。
  • 父とする和田義盛は、鎌倉幕府の御家人で初代侍所別当。
  • 和田義盛は治承・寿永の乱(源平合戦)において功績を挙げ、義盛の弟義茂は越後奥山庄の地頭職を与えられた。義茂は弟の宗実に地頭職をゆずり、宗実のあとは義茂の子重実が奥山庄を領した。のちの中条氏となる。
  • 和田氏は、のち二代執権北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。

城氏と和田氏の関係  

  • ともに桓武平氏の後裔を称し、「系図上は」つなげることができる。
    現代においては僭称もしくは仮冒とされる部分も存在するが、名刀伝説が形作られた中世においてはつながりがあると信じられていたことが重要である。
  • このことが、少し無理があると感じる「鶴丸・蝶丸・不動丸同物説」が提示される理由の一つになっているものと思われる。
【桓武平氏高望流】                  【城氏】
高望王─┬平国香─平繁盛─平維茂─繁成─貞成─永基─城資国─┬城資長(検非違使、義仲追討)
    │              (城太郎) (城九郎)├城資永─城資盛(小太郎)
    │                         └坂額御前
    ├平良兼─平公雅─平致頼
    │
    ├平良将─平将門
    │             【三浦氏】
    └平良文─平忠光─平忠通─三浦為通─為継─義継─義明┬義澄
                              │     【和田氏】
                              └杉本義宗┬和田義盛─和田義直
                                   │
                                   │  (越後地頭)
                                   ├和田義茂─和田重実
                                   └和田宗実

戸次氏  

秀吉  

  • 貞盛には養子が多く、子としては15番目だったことから維茂は余五(十(あま)りの五)君、さらに後に鎮守府将軍となったため、「余五将軍」と呼ばれる。

    鎮守府将軍、或非将軍云々、信濃守従五上、帯刀奥山城鬼才流、世人号余五将軍
    (尊卑文脈)

    十一男(十(あま)り一)であった那須与一などと同様の名前。余りの後ろに数詞が付く場合は、余剰という意味ではなく加えるという意味合いになる。


朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)  

  • 平維茂の佩刀。
  • 平維茂の8代孫城長茂(平長茂)は、文治(1185)ごろの人で、父は城資国、兄は城資永、妹に坂額御前がいる。
  • 生まれるとすぐに行方不明になる。4年後に狐塚で発見され連れて帰ってくると、狐が老翁に化け刀や櫛を長茂に与えたという。
  • 「慕狐(ぼこ)」あるいは「ははこ」からの転化ではないかとされる。
  • この刀は坂額御前の頃まで伝わっていたようだが、挙兵した際に失われたとされる。

    建仁元年
    一夕以夢得之於狐冢、攜歸于家、狐化老翁來授刀及袖櫛于繁茂、世傳其刀、及資盛敗、遂失所在、

    建仁元年五月十四日
    資盛之姨母之號之坂額之御前、雖爲女之身、百發百中之藝殆越父兄也、人擧所謂奇特、此合戦之日、殊施兵略、如童形令上髪、奢腹巻居矢倉之上、射襲到之輩、中之者莫不死、西念郎従又多以爲之被誅、于時信濃國住人藤澤次郎(四郎)清親廻城後山、自高所能窺見之發矢、其矢射通件女左右股、即倒之處、清親郎等生虜、疵及平愈者、可召進之、姨母被疵之後、資盛敗北、出羽城介繁成資盛曩祖、自野干之手所相傳之刀、今度合戦之刻紛失云々


関ヶ原  

  • 平維茂が勅命を受け戸隠山で鬼女を退治する物語。




江戸時代  

  • 平維茂の長男繁貞は越後において勢力を得、その子孫は奥山を名字とし京都で検非違使となるなど、朝廷に仕える武士として続いた。子孫には奥山度繁や、その娘の阿仏尼がいる。

柳川への復帰  

  • 阿仏尼は鎌倉中期の女流歌人で、「十六夜日記」を著した。
  • 藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産んだ。
  • 藤原為家は御子左家嫡流だが、為家の没後に播磨国細川荘の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と側室の子冷泉為相が争い、阿仏尼は1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが「十六夜日記」である。
    当初日記には名がなかったが、日記が弘安2年(1279年)10月16日に始まっていることを由来として後世名付けられた。

    むかし、かべのなかよりもとめ出でたりけむふみの名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも身のうへの事とは知らざりけりな。
    (中略)
    惜しからぬ身ひとつは、やすく思ひすつれども子を思ふ心のやみはなほ忍びかたく、道をかへりみるうらみはやらむかたなく、さてもなほあづまの龜のかゞみにうつさば、くもらぬ影もやあらはるゝと、せめておもひあまりて、よろづのはゞかりを忘れ、身をやうなきものになしはてゝ、ゆくりもなく、いざよふ月にさそはれ出でなむとぞ思ひなりぬる。

人柄  

  • この後和歌の御子左家は二条流(二条家)と冷泉流(冷泉家)に分かれた。しかし二条家と庶子の京極家は南北朝までに断絶し、二条流は二条為世の弟子であった頓阿を通じて、東常縁や三条西家に伝わる(古今伝授)。
  • さらに後、三条西実枝から伝授を受けた細川幽斎が田辺城に囲まれた時、古今伝授が絶えることを惜しむ後陽成帝の勅使により田辺城は開城し、その時勅使に贈られた太刀が「古今伝授の太刀」である。

系譜  

  • 三男・繁茂の子孫は秋田城介(国司)として越後国に土着し(城氏)、繁貞の子孫に代わって越後で繁栄した。名物鶴丸国永」は、平維茂からこの秋田城介(三男繁茂の家系)に伝わったとされる。
平維茂─繁成─貞成─永基─城資国(城九郎)─┬城資長(検非違使、義仲追討)
                      ├城資職
                      ├城長茂
                      ├城資永───資盛
                      └坂額御前
※詳細不明。

刀剣  

長光の剣  

  • 平維茂の三男繁茂の家系。
  • 城長茂は、建仁元年(1201年)叛乱を企てて建仁の乱を起こし、長茂は京において幕府軍に討伐される。
  • これと呼応する形で越後国において長茂の甥(資永の遺児)である城小太郎資盛とその叔母(資永・長茂の妹)坂額御前が挙兵し最終的には佐々木盛綱率いる幕府軍によって鎮圧される。
  • 坂額は鎌倉に送られ将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠が頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾される。坂額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている。

雷切  

  • 立花道雪(戸次道雪)所用。
  • その後立花宗茂に伝わり、以後柳川藩立花家に伝わった。


波泳ぎ兼光  


梅岳宮御神剣 兼光  


無銘 兼光
戸次道雪〜立花宗茂所用

  • 立花家の由来書によると、この刀は戸次道雪がいつも腰に差していたもので、これを譲り受けた立花宗茂も合戦にはいつも使用していたという。
  • 無銘だが、宗茂の時代には備前国(岡山)の長船兼光の作と極められていた。
  • 明治時代の刀剣帳では、御神剱御宝剱に分類されており、文政7年(1824年)には、祭礼のときには梅岳宮の神殿におさめることになったと記されている。


短刀銘 吉光国宝 

短刀
銘 吉光
長23.3cm
国宝
立花家資料館所蔵

  • 長七寸六分九厘。平造り、庵棟、身幅広く内反り。表裏に刀樋。なかご生ぶ、先は栗尻。目釘孔2個。目釘孔の下、中央に「吉光」の二字銘がはいる。
  • 筑前の国粕屋郡立花山に居城した大友近江守貞宗の息子である立花左近将監貞載が足利尊氏に従って上洛し、建武3年(1336年)正月、京都東恫院揚梅ヶ辻で、敵の大将結城大田判官親光と引き組んで重傷を受けながらこれを討ち取った賞として尊氏から賜ったものとされる。
  • この吉光の短刀は、源氏の白旗、血染めの鉄扇とともに立花家三種の神器とされており、立花氏代々の什宝として伝えられた。
  • 昭和10年(1935年)4月30日旧国宝指定。
  • 昭和28年(1953年)11月14日に国宝指定。

水田長光  

  • 朝鮮出兵の頃、風斗就澄に与えたという。

その他  

脇差
銘「貞宗立花宗茂所用。
短刀
銘「安吉」立花宗茂・二代藩主立花忠茂・三代藩主立花鑑虎所用。
銘「播州住政国作」立花宗茂所用。参勤交代の際に持参されたという。
銘「濃州関住兼貞作」立花宗茂所用。参勤交代の際に持参されたという。