火車切広光
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火車切広光(かしゃぎりひろみつ)
- 上杉家御手選三十五腰のひとつ
- 上杉家御腰物帳五十二号
火車切広光 脇指拵 御重代 三十五腰之内
一尺二寸七分
由来
- 上杉家に伝わった火車切広光の由来は不明である。
- おそらく伝承に登場する妖怪の火車を斬ったことから名付けられたと思われる。
後述する「藤嶋友重の火車切」では火車を切る場面が詳述される。
来歴
- 上杉家所蔵
三十五腰之内
- 昭和頃に静岡の石居健次氏蔵
- 現在は佐野美術館所蔵
別の広光作脇指
- 上杉家には、この「火車切」とは別の広光作の脇指が存在し、これも同様に上杉家御手選三十五腰のひとつとなっている。
脇指
銘 相模国住人広光/延文五年八月日
一尺四寸
- 銀無垢の一重鎺が附き、金の平象嵌で「自
古河 様拝領」と入る。古河様とは4代古河公方・足利晴氏のこととされる(あるいは5代の足利義氏か)。
「火車」
- 「火車切」の火車(化車、かしゃ、きゃしゃ)とは、日本各地に古来伝わる妖怪の名前で、生前悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を葬式や墓場から奪っていくとされる。正体は年老いた猫とされ、妖怪猫又が正体であるとも言われる。
- また説話物語集「宇治拾遺物語」では、地獄で亡者を責める悪鬼である「獄卒」が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。
藤嶋友重の火車切
- 火車切広光とは別の「火車切」がある。
藤嶋友重作
火車切
由来
- 紀州藩士の学者・神谷養勇軒の著した「新著聞集」は、怪異奇談集であり寛延2年(1749年)に刊行されている。
- この中に「火車切」の逸話が登場する。
松平五左衛門殿(近正)従弟の葬礼に、雷電四方に閃き、龕の上に、黒雲かゝりしを、五左衛門殿、龕に手を掛うかゞひみたまふに、熊の手のごとく成もの、雲の中より指出す処を、抜うちにしたまへば、手答へして雲はれぬ。跡を見れば、血おびたゞしく流れたり。其中に、怖ろしき爪三つ付、その本に、銀の針をすりならべたる様の、毛生ひたる物切おとしたり。それよりこの刀を、火車切と名づけ所持ありしを、諏訪図書を聟にとりて、其引出物にせられしを、諏訪若狭守殿、強ちに所望、黙止がたくて、つかはしけるとぞ。
- これによると、徳川家康に仕えた「松平五左衛門」こと大給松平家の松平近正が、従兄弟の葬儀に参加した際に、雷鳴が鳴り響き雲の中から現れ遺骸を奪おうと現れた火車の腕を抜き打ちに切り落としたという。
- この時に「火車の爪」と思しきものが血だまりの中に落ちていたため、刀を「火車切」と名付けという。
来歴
- のちこの「火車切(藤嶋友重作)」は、近正の孫娘(近正の長男である松平一生の娘)が信濃諏訪藩の家老諏訪頼雄に嫁ぐ際、火車の爪と共に婚礼の引出物となり、以来諏訪図書家の家宝となる。
諏訪頼雄は諏訪藩初代藩主諏訪頼水の弟(諏訪頼忠の嫡男が頼水、頼雄は四男)。諏訪図書家を興し、代々、高島城二の丸に居住し二の丸家と呼ばれた。
- 諏訪頼雄は元和7年(1621年)に隠居し、子の盛政に家督を譲っている。この時火車の爪と、藤嶋友重の刀(火車切)を譲られている。
- 「新著聞集」の中で「
強 ちに所望」したという諏訪若狭守とは、初代藩主諏訪頼水の次男であり2代藩主諏訪忠恒の弟の諏訪頼郷(若狭守、土佐守)であると思われるが、その後の「火車切」の行方は不明。
刀工藤嶋友重
松平近正
- 松平近正は、大給松平家の祖である松平乗元の家系。三河松平氏の3代当主松平信光は、大給城を攻略して三男の親忠に与えた。この親忠の次男が乗元で、さらにその次男親清の子が松平近正となる。
松平信光─┬守家──守親(竹谷松平) ├昌龍 ├親忠─┬親長(岩津松平家) ├与副 ├乗元─┬乗正(大給松平家) └光重 │ ├親清──近正──一生──成重 │ └乗次(宮石松平家) └長親──信忠──清康──広忠──元康(家康)
- 松平近正は、慶長5年(1600年)家康が会津上杉討伐に向かう際に伏見城留守居の一人となり、迫り来る西軍の中、三の丸に籠もる。最期は守将鳥居元忠と共に討ち死にした。(伏見城の戦い)
- 嫡子の松平一生(かずなり)の代に上野三ノ倉5500石から下野板橋1万石に加増移封されて大名となる。以降一生系大給松平家と呼ばれる。一生系大給松平家は、板橋藩で2代藩主を務めた後に、松平成重が大坂夏の陣での功が認められ三河西尾藩2万石に転封され、さらに2万2千石で丹波亀山に加増移封、松平忠昭の代に豊後中都留、豊後高松を経て豊後府内に入り、そのまま幕末を迎えた。
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