注連丸行平


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 注連丸行平(しめまるゆきひら)


二尺七寸三分半

Table of Contents

 由来

  • 神前に横に掛けていたため号したという。
    • ※注連縄(しめなわ)に掛けているという意味

 来歴

  • 上々御腰物はすべて将軍家(秀忠)へと伝わった。
  • のち家光あるいは家綱から贈られたものか、甲府宰相徳川綱重の所持となっている。
    徳川綱重は家光三男。養母は天樹院千姫。慶安4年(1651年)に甲府15万石を与えられる。承応2年(1653年)8月12日に元服して「綱重」と名乗り、従四位下・左近衛権中将に叙任され、左馬頭を兼任した。寛文元年(1661年)に10万石を加封され、同年に参議に補任され、甲府宰相と称される。延宝6年(1678年)に兄の将軍家綱に先立って死去。享年35。
  • 綱重は江戸城中にいたため、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼けてしまった。

    一、左馬頭様ノ道具 上野紀新大夫吉光
    ノ一振ノ法國経 秋田行平宗近此作
    無類シメ丸行平右ハ太刀

 異説

  • 戦後まで現存したという話がある。ただし焼き直し。
  • この説によると、元は足利義輝の蔵刀で、弘治年間には松永弾正久秀が入手していたという。

    然しながら注連丸の太刀は足利家重代ではあつたらうが、此の時には既に義輝の手には無かつたと云ふのが眞相である。それは弘治二年(※1556年)本阿彌光心が諸國の名刀を親しく寫つした、いわゆる光心押形集に、この名物注連丸行平が記載されてあつて、その傍に今、松彈にありと添へ書きがしてある。彈とは、云はずと知れた松永彈正久秀のことである。(中略)今は全く知る由もない。兎も角その太刀はその後、どう云ふ経過でか、豐臣秀吉の愛藏するところとなつてゐた。

  • 松永弾正の次に秀吉が所持し、その後森家を三ヶ月(領)で再興させた際に下賜したのだという。

    秀吉は、信長に殉じて本能寺の變に可惜若い命を散らした森蘭丸に、痛く同情して、その家の再興を計り、森家はそれで播州三日月に於いて再興したのである。その時に、その注連丸行平の太刀は、その祝儀として秀吉から森家へ與へられたのである。

    しかしこの話はかなりおかしい。信長の家臣であった三左衛門森可成は美濃金山城主だったがいわゆる姉川の合戦で嫡男・可隆と共に討ち死にする。次男であった鬼武蔵森長可が跡を継ぎ活躍したため川中島20万石を得た。さらに弟である森蘭丸も父祖の地である金山6万石を与えられている。その後本能寺の変を経て領国にいた森長可(と忠政)は生き延びている。
     豊臣政権家で森長可は親秀吉の姿勢を表し、東濃の信孝配下の諸城を攻略している。その後、小牧・長久手の戦いで森長可が池田恒興とともに討ち死にし、森家は森忠政が継いだ。忠政は秀吉政権下で重んじられ、秀吉弟の秀長の娘婿(養女・智勝院)となっている。
     しかし秀吉が亡くなると家康に接近し、かねてより希望していた川中島13万余石へ転封している。美作一国18万余石に加増転封するのは関ケ原の後、岡山55万石で入っていた小早川秀秋が亡くなった後の話である。つまり、秀吉が三ヶ月に於いて再興したなどという話は何かと勘違いしていると思われる。ただし、森家では秀吉より拝領と伝えており、太閤桐の金無垢鎺も付いていたという。
  • 経緯は不明ながらも、江戸時代には播磨三ヶ月藩主の森家が所蔵し、明治まで伝わる。森家では秀吉より拝領と伝えていた。

    秀吉の愛藏時代を物語る太閤桐の紋透しの金無垢鎺も、その儘に、以来三百年、代々森家の重寳として傳へられてゐたのである。

    秀吉所蔵の行平では「北野紀新大夫行平(二尺六寸四分)」があるが、こちらも同様に享保名物であり、同様に明暦の大火で焼けている。どうも伝承が混じっているのではないかと思われるが、「北野紀新大夫行平」は明治2年改の将軍家御腰物台帳の焼直し御道具にも載っているため別物と思われる。
    さらに、同様に綱重に伝わり同様に明暦の大火で焼けた「秋田行平(二尺七寸)」もある。

    森可成の六男・森忠政は川中島藩から美作国津山藩初代藩主となるが、忠政の実男子がすべて早世したため、忠政の三女・於郷が忠政の重臣・関成次との間にもうけた外孫(初名・関家継)を養子として迎えたのが美作津山藩の2代藩主・森長継である。
    森長継の五男・森長俊は、1万5000石を分与され津山新田藩を起こすが、本家の津山藩森家が改易されたため、播磨三日月藩へと移封され、初代藩主となった。
    森可行─┬森三左衛門可成─┬─森長可
        │        ├─森蘭丸成利
        └森惣兵衛可政  │
                 ├─碧松院
                 │ ├────関成次
      尾張一宮城主関成重──│─関成政   ├─┬森長継
                 └─森忠政─┰於郷 ├関長政【美作宮川藩】
                       ┃   └関衆之【津山藩家老】
                       ┃
                       ┗森長継(於郷の子)
    
    
    
    
    ┬池田輝政   【備中松山藩】
    └池田長吉─池田長幸─┬池田長常
               └鶴   ┌森長武【津山藩3代】
          関成次   ├───┴森忠継【津山藩世嗣】
           ├────森長継──関長治【備中新見藩】
     森忠政──渓花院於郷 ├────森長俊【津山新田藩→播磨三日月藩】
                継光院
    
    
    
    
    ※森氏系藩主系図
    【津山藩】
    森忠政──森長継─┬森長武(長継次男)──森長成(長継嫡孫)──森衆利──森長継
             │
             │【西江原→赤穂藩】
             ├森長直(長継二十三男)──森長孝──森長生…
             │
             │【三日月藩】
             ├森長俊(長継五男)──森長記──森俊春……森俊成
             │
             │【備中新見藩関氏】
             └関長治(長継九男)──関長広──関政富…
    
  • 政治家・山本悌二郎が、子爵・森俊成(森家11代当主)と貴族院廊下で密談の上で譲渡されたという。

    持ち家の當主である俊成子爵が、御所藏の刀剣類を整理される際、故犬養木堂翁が此の太刀を絶賛して、他の刀は賣却してもよろしいが、此の太刀だけは手放さずに是非保存しろ、と云はれてゐたので、俊成子爵もその氣持でゐたのである。處が愛刀家として有名な政友會の故山本悌二郎氏が農林大臣時代に、犬養翁からその話を聞いて、何としてもその太刀が欲しくてたまらず、人を介して森子爵に譲渡方を申入れたが、犬養翁の忠言もあるので、他の刀は兎も角この太刀だけは御免を蒙る、と、どうしても譲ると云はない。

    森俊成は明治時代の華族・貴族院議員。旧備中新見藩主家の子爵・関博直の四男で、旧三日月藩主森家10代の子爵・森長祥の養子となり、家督を相続した。生家の旧備中新見藩主家も森長継の六男・関長治に始まっている。
  • 山本悌二郎は、のち神戸市の木村岩五郎氏に譲ったのだという。

    漸くの思ひで想ひを遂げた山本氏は此の太刀を長く愛藏されてゐたが、後に故あつて、現所有者である神戸市の木村岩五郎氏に渡つたのである。この行平太刀名物の注連丸である事が藩名したのは、木村氏の手に歸してから後の事である。文部省で重要美術品に認定する際、充分調査をした處、前に書いた光心押形所載の行平であることを發見し、その添書に名物注連丸なり、との添書があつたのである。


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