歌仙兼定
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歌仙兼定(かせんかねさだ)
- 日本名宝展覧会出展
関鍛冶の代表と謂わるる二代兼定の鎬造り、身長二尺餘、山田浅右衛門が試斬りをして最上大業物なりと折紙をつけて居る、三斎細川忠興の指料で、三十六人斬ったからとて一名歌仙斬りとも云ひ茶人だけに拵付面白く、頭は四分平山道、綠は革着せ青漆塗、目貫金鉈豆、柄は黒塗鮫茶革巻、鐔は鉄丸形左右影蝶透し、鞘は腰下刻み鮫着せ黒塗研出しで、これが歌仙拵えと呼ばれて名高い。
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由来
- 肥後八代に引退していた三斎(細川忠興)は、当主忠利を取り巻く近臣達の輔佐ぶりが悪いとして、彼らを八代城に次々と呼び寄せ、この刀で首を刎ねたという。
- 殺害した家臣が36人であったため、三斎は三十六歌仙にちなみ「歌仙兼定」と呼んだという。
忠利公、肥後国施政上ニ関シテ老公ノ意ニ適セズ、其ノ側近ノ奸臣ヲ八代城ニ召致シ、悉ク其ノ首ヲ刎ネラレ、其ノ数三十六人ニ及ビ則チ止ム。ソノ後、国政大イニ革マリ、仁恵領土ニ霑ヒタリト云フ。因ッテ三十六歌仙ニ倣ヒ此ノ号アリ。
此ノ拵ハ、頭ニ四分一ノ平山道ノ深彫リ、縁ハ古革包ミ、鐔ハ正阿弥作ノ影蝶透シ、目貫ハ金ノ鉈豆、鐺ハ鉄ノ泥摺ヲ用ヒ、柄ハ燻革巻キ、鞘ハ鮫ノ腰刻ミナリ。
(肥後刀装録)
異説では殺した人数は6人であり、六歌仙にちなんだともいう。またこの逸話の主は、忠興ではなく初代藤孝(細川幽斎)であるともいう。
- 刀剣本では上記の由来とされているが、「御家名物之大概」や「柏原家拝領兼定御刀略図」にも”歌仙”の文字がなく、この由来がどこから生まれたのかが不明である。
上記「日本名宝展覧会」においても、”歌仙”の文字は説明文にのみ書かれている。
来歴
細川忠興→細川立孝
- 寛永21年(1644年)2月29日、細川忠興から側室円通院幾知の子である細川立孝へ、毛織之御羽織と共に伝わった。
一正保元年甲申二月廿九日、細川中務(立孝)殿為御参勤八代を御立、自是先三斎君より御暇乞之御祝儀ニ和泉守の御脇差・毛織之御羽織被遣候、
寛永21年12月16日に正保へ改元。
細川光尚→細川綱利
- その翌年の正保2年(1645年)閏5月11日に立孝が死ぬと、本刀は遺物として肥後熊本藩2代藩主光尚へと贈られ、光尚の嫡子である綱利の道具となった。
右和泉守御脇差は翌年中務(立孝)殿御死去、御遺物ニ光尚君ニ被差上、綱利君御道具ニ成ル、毛織は井門次郎左衛門ニ被下候、
綱利は寛永20年(1643年)1月8日生まれ。正保2年(1645年)11月11日家光に初お目見え。父である2代藩主光尚が慶安2年(1649年)12月28日に急死したため、慶安3年(1650年)4月に6歳ながら家督を相続している。正徳2年(1712年)に隠居し家督を譲る。
細川綱利→柏原要人
- 肥後熊本藩3代藩主細川綱利のとき、家老柏原要人定常が拝領する。
歌仙兼定を拝領したという「柏原要人」については資料が少ない。細川家資料では、貞享元年(1684年)、貞享3年(1686年)、元禄4年(1691年)、元禄14年(1701年、柏原要人定道を家老に)、正徳元年(1712年、家老要人)、正徳2年(1713年、家老要人定道没)などに登場するが、柏原要人定常ではなく定道である。
これより前となると「柏原新左衛門定治」なる人物が、延宝4年(1676年)~延宝8年(1680年)に旅家老、元禄6年(1693年)~元禄10年(1697年)まで中老職についているが、名乗りも諱も異なっている。
※ただし侍帳によれば、新左衛門が初代であり、二代目の柏原要人が定常を名乗ったともいう。柏原要人定道が定常であるとすると時代はぴったりあう。この後幕末まで、柏原家の人物が藩要職に付くことはなかったようだ。
柏原家代々
- 明治30年ごろまで柏原家に伝来した。
細川護立
- 柏原家を出たあと転々としていたが、昭和の初め頃に16代当主細川護立により買い戻された。
此ノ刀ハ細川五代綱利公ヨリ、寵臣柏原定常ニ賜ハリシガ、明治三十年頃、同家ヨリ所々ニ転ジテ、最近細川子爵家ニ復帰ス
歌仙拵
- なお細川三斎が考案したとされる拵え(刀の外装)の方も「歌仙拵」として有名であり、こちらも「黒塗研出鮫腰刻鞘打刀拵(歌仙拵)」として展示されている。
関連項目
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