楢柴肩衝
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楢柴肩衝(ならしばかたつき)
唐物肩衝茶入
銘 楢柴
大名物
- 博多商人島井宗室の所持であったことから「博多肩衝」とも。
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由来
- 釉色が濃いアメ色であり、これを「恋」にかけて万葉集の歌にちなんで命名された。
御猟為 鴈羽之小野之 櫟柴之 奈礼波不益 戀社益
み狩りする、雁羽(狩場)の小野の櫟柴(楢柴)の、馴れはまさらず、恋こそまされ
万葉集12巻3048番作者不明
来歴
- 足利義政所持で東山御物のひとつ。
- 義政の茶の湯の師範を務めた村田珠光が拝領。
- 珠光はこれを高弟である鳥居引拙に与えている。引拙の死後、芳賀道祐を経て天王寺屋津田宗柏へ渡り、のち神屋宗白へと渡る。
津田宗柏は津田宗及の叔父で、津田宗達や天王寺屋道叱の父。神屋宗白は、博多の豪商神屋紹策の弟で、神屋宗湛の叔父にあたる人物。
- 津田宗柏の死後、天王寺屋道叱(宗伯の次男)の勧めにより島井宗室が神屋宗白から買い取ったという。
島井宗室
- 上記の伝来で、天正のはじめには博多の豪商である島井宗室が入手している。
- 耳川の戦いで大友氏が没落し島津氏が伸長してくると、宗室は織田信長に保護を求め、信長は交易の保護を条件として、この「楢柴」を献上するよう命じる。
- これに応じた宗室が上京したのが天正10年(1582年)の6月1日で、本能寺の変の前日であった。島井宗室、神屋宗湛らをはじめ公家を招いて茶会を催したのち眠りに入った信長は、翌未明、明智の軍勢に取り囲まれ奮戦した後自害する。
- 招かれていた二人は、名物が焼失するのを惜しみ宗室は空海真筆の「千字文」を、また宗湛は牧渓筆の「遠浦帰帆図」をそれぞれ持ち出している。
「一切経千字文」は現在博多の東長寺所蔵。また「遠浦帰帆図」は連歌師の柴屋軒宗長から今川義元に伝わったもので、現在は京都国立博物館所蔵となっている。
秋月種実
- 次いで大友氏の没落とともに勢力を拡大した秋月種実がこの「楢柴」を所望し、ついに宗室は大豆百俵で献上している。
- 異説では、茶人の縁を通じて秀吉への降伏交渉方を依頼するために宗室宅を訪れた種実が、密かに盗んでいったという。その後秋月城を包囲された種実はこの楢柴を献上することで許されている。一説に、秋月種実は「楢柴」を渡さなければ軍勢をもって博多を攻めると脅したとも伝わり、こちらのほうが実情に近かったのではないかと思われる。
秀吉
- 天正14年(1586年)秀吉が九州征伐で益富城を一夜で落城させると、秋月種実はこの「楢柴肩衝」と国俊の太刀を献上、さらに娘の竜子を人質として差し出し降伏する。これにより、天下三肩衝はすべて秀吉の所有となった。
秋月種実は隠居したため子の秋月種長が後を継ぐが、日向高鍋3万石に減移封される。豊臣政権下でも功績を上げ、さらに関ケ原では大垣城を守備しており、水野勝成の勧めで弟の高橋元種や相良頼房を誘って東軍に内応、これにより家康より本領安堵され、日向高鍋藩秋月家は明治維新まで続いた。
羽柴秀保
- 秀吉はその後豊臣秀保(大和中納言)に譲ったのか、文禄3年(1594年)3月の宗湛日記に登場する。
三月廿九日
一、大和中納言様(秀保) 御會 宗湛一人
長四テウ ヨカミ柱櫻木也、スミヲリニツリ棚ニモノナシ、
床ニ虚堂ノ文字懸テ、前ニナラ柴、袋ニ入、四方盆スヘテ、床ノマン中ニ置テ、
(略)
一、ナラ柴肩衝ハ、口付ノ筋二ツ、腰サカツテ 帯一、肩丸クナテ 候、筋ノアタリニ茶色ノ藥アリ、土靑メニ細ク、藥ハツレハ四五分、底糸切也、ソノ切目ウシロノハタニカゝル
袋ハ白地ノ金ラン、紋テツセン花、カナ地、ヒシ也、裏香色ノ方色也、緒ツカリコイアサキ、
豊臣秀保
豊臣秀保は秀吉の姉ともと三好吉房の間に生まれた息子で、関白秀次らの同母弟。のち秀吉の異父弟大和大納言秀長の養子となり、天正19年(1591年)にはその跡を継ぎ「大和中納言」と称された。天正20年(1592年)6月7日に従三位権中納言叙任。この茶会の1年後、文禄4年(1595年)4月16日に急死したとされる。享年17。
「武徳編年集成」では諱を豊臣”秀俊”とし、文禄3年(1594年)4月25日とする。甫庵太閤記などでも同様に諱を”秀俊”とする。
- 「楢柴」は、秀保の死に伴い、秀吉に戻ったものとみられる。
家康
- 慶長3年(1598年)、秀吉臨終の際に家康へと贈られる。
- しかし明暦3年(1657年)の明暦の大火で破損し、修繕されるも行方不明となる。
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