松浦信国
松浦信国(まつうらのぶくに)
小太刀
銘 源左衛門尉信国 応永廿一年二月日
名物 松浦信国
1尺9寸分半(57.6cm)、反り5分(1.5cm)
徳川美術館所蔵
松浦信国 長二尺一寸九分 尾張殿 是ヲ上リ龍共云
上り竜信国 在銘長一尺九寸 尾張殿
- 目釘孔二個
松浦信国
- 鞘書き
松浦 源左衛門尉信国御脇指 銘有 長壱尺九寸分半
- 本造り、佩表に宝寿の下に昇り竜、下に降り竜。裏に櫃のなかに剣巻き竜を浮き彫り。
- 鋩子は佩表が小丸、裏が尖り、返りは深い。
- 中心は少し磨上、目釘孔3個、銘は佩表に「源左衛門尉信国」、裏に「応永廿一年二月日」と切る。
由来
- 肥前平戸城主、松浦鎮信(式部卿法印、平戸藩初代藩主。慶長19年没)の所持にちなむという。
来歴
細川忠興
秀吉
- 秀吉の愛刀のひとつで三之箱に秘蔵した。
- 「豊臣家御腰物帳」には次のように記されている。
三之箱 御たてこしらへの分
羽柴与一郎より上 長サ壱尺九寸
(豊臣家御腰物帳)信国刀 長岡与一郎上 長さ一尺九寸
銘 源左衛門尉信国/応永二十一年二月日
慶長十六年四月三日 右兵衛殿へ被進候
(御太刀御腰物御脇指方々ニ被遣之帳)
長岡(羽柴)与一郎とは細川忠興(三斎)のこと。忠興より献上されたものであった。右兵衛殿とは徳川右兵衛督義直(尾張義直)のこと。
- 秀吉の死後、秀頼へと伝わる。
秀頼→尾張義直
慶長十六年四月三日 右兵衛殿へ被進候
(御太刀御腰物御脇指方々ニ被遣之帳)
- 慶長16年(1611年)3月28日、徳川家康は二条城で豊臣秀頼と対面した。
- その後4月2日に、義直(尾張徳川家祖)と賴宣(紀伊徳川家祖)は、家康の名代として大坂城へ秀頼を送り届けており、その際に秀頼から使者である尾張義直へ贈られたものだという。
四月二日尾張宰相義直卿。遠江宰相賴宣卿を大坂につかはされ。右府上洛せられ御對面有しを謝せられ。御太刀一振。馬一疋。銀千枚。淀殿へ銀二百枚。綿三百把。北方へ銀百枚。綿二百把。紅花三百斤をくらせたまふ。
義直卿より右府へ國宗の太刀。賴宣卿より友成の太刀。共に銀二百枚そへて進らせらる。淀殿幷に北方へ。兩宰相より銀百枚。綿二百把。紅花三百斤づゝ進らせらる。
右府より義直卿へ高木貞宗の太刀。吉光の刀。緞子百卷。小袖。道服幷に小鼓の筒。賴宣卿へ二字國俊の太刀。松浦信國の刀。小鼓の筒。申樂の裝束(半臂三。狩衣三。半切三。大口 三。)をくられ。
供奉せし竹腰山城守正信へ信國の刀。成瀨隼人正正成左文字の刀。安藤帶刀直次に助眞の刀。水野對馬守重仲へ一文字の刀。三浦長門守爲春に長光の刀をたまひ。饗有て兩卿伏見へかへりたまふ。
- 義直→秀頼:國宗の太刀
- 賴宣→秀頼:友成の太刀
- 秀頼→義直:二字國俊の太刀。松浦信國の刀
- 秀頼→賴宣:高木貞宗の太刀。吉光の刀
- 秀頼→竹腰山城守正信:信國の刀
- 秀頼→成瀨隼人正正成:左文字の刀
- 秀頼→安藤帶刀直次:助眞の刀
- 秀頼→水野對馬守重仲:一文字の刀
- 秀頼→三浦長門守爲春:長光の刀
秀頼公ヨリ、右兵衛主(右兵衛督義直)に被進物、
御脇指吉光、刀高木貞宗、創業記考異ニハ、松浦信國ニ作ル、編年大略、續撰清正記、マタ同ジ、敬公實録ニハ高木貞宗トアリ(略)
秀頼公ヨリ、常陸主(常陸介頼宣)に被進物、
刀二字國俊、脇指マツラ信國、創業記考異ニハ、高木貞宗ニ作ル、編年大略、紀藩無名書及ビ續撰清正記マタ同ジ(略)
(当代記)
尾張徳川家代々
- のち尾張徳川家に伝来。
- 尾張義直の「御腰物御脇指帳」には次のように記載されている。
一 松浦信国 代金三拾枚之由 秀頼より
- 現存し、徳川美術館所蔵。
上り竜信国(のぼりりゅうのぶくに)
- 上り龍、のぼりれう
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