松井江
松井江(まついごう)
刀
朱銘 義弘 本阿(花押)
名物 松井江
2尺2寸9分(69.4cm)、反り5分3厘(1.8cm)
重要文化財
佐野美術館所蔵
- 鋩子小丸、中心大磨上、目釘孔1個。中心に古中心残る。
- 朱銘は本阿弥光常。指裏に「義弘」、表に「本阿(花押)」
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由来
- 肥後熊本藩主細川家の家老、松井興長(松井佐渡)所持により「松井江」とよばれる。
来歴
松井氏
- 元は松井氏所蔵
将軍家
- 松井氏から将軍家に入った経緯は不明。八代城主として入城しているため、代替わりの際には江戸城において将軍より朱印状をもらっている。このため初代興長が八代城を与えられた際に献上したものと思われる。
- 松井文庫には、本刀を納めていた朱鞘が今も残る。八代市立博物館 未来の森ミュージアム-イベント案内-
朱塗打刀鞘 銘「長岡式部少輔」 1口
紀州徳川家
- のち貞享二年(1685年)、将軍綱吉の息女鶴姫が紀州徳川家徳川綱教(紀州藩3代藩主)に輿入れする際に、引き出物として贈られた。
- 同年3月6日、登城した綱教に婿引出としてこの松井江と朱判正宗の脇差を添えて下賜した。この時に本阿弥光常に鑑定させ二百枚の折紙が付く。綱教は綱吉の娘婿として将軍家世継ぎと目されていたが、綱吉より早く宝永2年(1705年)5月に亡くなっている。このため、綱吉はやむなく甥の綱豊(徳川家宣)を後嗣にしたともいう。
鶴姫君様御入輿の刻常陸介殿拝領
○六日紀伊邸に阿部豐後守正武御使し。(略)。御盃下さるゝ時。綱教卿へ御引出物とて。義弘の御刀。朱判正宗の御脇差たまひ。光貞卿に當麻の御刀。武藏正宗の御脇差たまふ。
- 以後紀州徳川家に伝来。
- 昭和8年(1933年)11月に行われた紀州徳川家の第二回入札において、「名物 松井郷義弘刀」は2390圓で落札されている。
- 昭和10年(1935年)12月18日重要美術品指定。伊藤平左衛門所持。
刀 朱銘義弘 本阿(花押) 名物松井江
愛知縣名古屋市中區松重町 伊藤平左衛門
(昭和10年 文部省告示第四百二十二號)
名古屋の伊藤平左衛門は、尾張国の工匠の棟梁の名跡。年代的に10世と思われる。大正2年(1913年)5月、父9世平左衛門の死後に長男である10世が家督相続している。
- 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では佐野隆一氏所持。
- 現在は佐野美術館所蔵。
松井興長
- 松井佐渡守興長は、細川氏の家臣松井康之の二男。
- 正室は細川忠興の娘・古保(こほ)。
- 式部少輔・佐渡守。熊本藩筆頭家老
明智玉子 細川幽斎 ├───────┬松井寄之 ├───細川忠興 └恵妙院古保 沼田光兼─┬沼田麝香 │ └沼田祐光──沼田光長──自得院 ┌松井興長━━松井寄之(長岡佐渡守) ├──┼松井興之 ├──┬松井直之 松井長之┬松井正之──松井康之└たけ │ └松井正之 └松井友閑 ├────崇芳院古宇 (宮内卿法印) 三淵重政
父:松井康之
- 関ヶ原戦後細川氏が豊前豊後39万石の大名となった際、父・康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石という大名格の領地が与えられた。
- 寛永9年(1632年)に細川氏が肥後熊本藩に国替になると、父康之には玉名・合志郡の内に3万石が与えられた。慶長16年(1611年)に父康之が隠居したため興長が相続する。
- 正保2年(1645年)、熊本八代城にて隠居していた細川忠興(三斎)が死去すると、正保3年(1646年)から松井興長が八代城3万石を預かることになった。
- 八代城は、南の薩摩島津家に対する備えとして一国一城令の例外とされて存続し、代々松井家が八代城主を務めた。
- また、忠興の六男(松井寄之)を養嗣子に迎え、細川別姓である長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。
- この松井氏は、米田氏、有吉氏と並び上卿三家の筆頭として代々熊本藩家老を努め、明治維新まで続いた。現在八代にある松井家には、興長の差料として「松井江」の朱鞘が残されている。※上記、松井文庫所蔵
- なお松井家文書によれば、松井家は織田、豊臣、徳川それぞれから本領安堵された直臣であるとする。
- これは、織田信長の命により細川幽斎・忠興とともに丹波・丹後攻略を行った功により、山城神童寺村160石1斗7升を拝領する。さらに秀吉、家康から本領安堵の朱印状を得ている。その後も元禄5年(1692年)~文久3年(1863年)に至るまで老中連署奉書により安堵されており、将軍家直臣であることがわかる。
- 天正13年(1585年)秀吉
- 慶長18年(1613年)家康
- 寛永13年(1636年)
- 寛文元年(1661年)
- 江戸幕府老中連署奉書は代々鍵付きの箱で厳重に保管され、現在も松井文庫所蔵
- 松井家への八代城引き継ぎの際にも、この背景が考慮されている。
八代の儀は御国中一ヶ所の端城ニて、殊異国・薩州等を受大切の物ニ付、長岡佐渡(松井興長)を被召置度、佐渡は永久の家筋ニて、従公儀御知行をも被下置候者の儀ニ付、傍被召置被下候へかし、左候得は御家御相続の限は、相替不申段被仰達置候由、林外記(細川光尚側近)密ニ奉承知居、同年七月御共ニて罷下候以上興長え申聞候
- 文禄の役の際、秀吉は松井康之の働きを激賞して石見半国を与えようとするが、康之は幽斎・忠興への我が本意に背くことになるため直参になるのは遠慮したいと固辞している。秀吉はその忠義に感じ入り、唐物茶壺「深山」を与えたという。
唐物茶壺 銘「深山」
松井文庫所蔵
- さらにこの話を聞いた家康も愛蔵の水指に、山岡景友に命じて名を付けさせた上で与えている。
三島縄簾文水指(なわすだれ)
- 松井康之は、備前長船春光の刀を度々用いて手に合ったために愛蔵したという。そこで康之が死んだ際には春光院と法諡したという。
康之所持仕候備前長船春光作之刀、度々物場ニ而手ニ合申候而、終身秘蔵仕候處、此節康之を春光院と法諡仕、春光の二字、暗ニ符合仕候儀、奇異之由申傳候、右之刀、長二尺四寸壹分、永禄三年八月吉日与裏銘御座候、松井康之末期辭世之和歌一首を詠、自筆ニ而記置申候、
やすく行道こそ道よ是や此 是そまことの道にいりける
右之病中、自身物場等之儀、追々長岡興長に物語仕候由、其節之必覺ニ仕候哉、自筆十ヶ條稜書傳申候、此外ニ、武功等ニ付而、拝領物、又物証書など、其儘ニ而引譲候類者、此書面ニ相見不申候
養子:松井寄之
松井氏にちなむ刀剣
- 松井江
- 松井氏→将軍家→紀州徳川家(綱吉息女鶴姫の輿入れ)
- 松井貞宗
- 松井氏→将軍家→加賀前田家(秀忠遺物)
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