最上正宗
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最上正宗(もがみまさむね)
刀
刃長一尺一寸七分五厘
- 反りのある平造りで、差表に素剣と梵字。裏に香箸と梵字。中心に正宗二字銘。
最上家文書でも刀または脇差と表記が揺れている。
来歴
- 慶長5年(1600年)、出羽山形城主最上義光が上杉景勝を退けた(慶長出羽合戦)ことを賞し、翌年4月に家康から拝領した脇指。
関原の凱旋をよび景勝が罪に伏せしことを、賀したてまつるのところ、御膝許にめされ手をとらせたまひ、去年景勝との合戦比類なしといふべし。このたびの勝利も、ひとへに汝が忠功によれりと、御諚ありければ、義光肝に銘し、感涙をながして御代万歳と祝したてまつる。よりて御手づから、正宗の御脇指を御賜せらる。
- 最上家は孫の最上義俊のとき最上騒動の責を問われ、元和8年(1622年)に24万石から1万石に減封となる。
- 正宗の刀も売りに出され、常陸笠間城主水谷勝隆が買い求める。
- ところが同家も元禄6年(1693年)に改易になり、その後徳川一門のどこかで買い上げられたと見え、明治になって津田直が所持していたときには葵紋総金具の拵えがついていたという。
- 昭和初期に清田某氏所蔵となっている。
- 「正宗」の二字銘が入るが、これは偽銘とされる。
最上正宗(短刀)
- 真の棟、差表に素剣と梵字。裏に食い違い樋。
- 鋩子小丸。中心うぶ。
- 目釘孔1個、「正宗作」の三字銘。
来歴
- 刀の最上正宗とは別の短刀がある。
- この短刀は現存し、「大黒正宗」とも呼ばれる。
家康
- 家康が浜松にいた頃、すでに最上義光は徳川家に誼を通じており、のちに山形藩2代藩主となる家親を文禄3年(1594年)から近侍として仕えさせている。
最上義光
- このころに正宗の短刀を拝領したという。
- 慶長8年(1603年)兄の最上義康が不慮の死を遂げ、兄義康の所領であった旧寒河江氏所領を受け継いでいる。
- この時、実は宇津の国宗であるところを正宗としたという話がある。
元來宇津ノ國宗ナルヲ後ニ國ノ字ヲ正ノ字ニ御書面ヲ改タルトノ沙汰有之云々
- のち慶長19年(1614年)正月18日に父最上義光が病死すると、最上家親はその跡を継いで最上氏第12代当主ならびに山形藩の第2代藩主となった。
- 最上家は元和8年(1622年)8月18日に1万石に減封され、この時、本刀正宗も売りに出されたとみられる。
水谷家
- 水谷家で買ったのもこの短刀であるという。
最上氏改易ノ後右ノ御書并脇指賣物ニ出タルヲ水谷伊勢守ヘ金百枚ニ被買上之云
- 水谷勝隆は慶長2年(1597年)生まれ寛文4年(1664年)没。官位は従五位下、伊勢守。備中松山藩初代藩主。子の備中松山藩2代藩主水谷勝宗は従五位下、左京亮。
- なお水谷家は、後に孫の水谷勝美(従五位下、出羽守)が元禄6年(1693年)に31歳で死ぬと末期養子が認められず改易となる。
水谷勝隆は「源来国次」も同様に買い入れている。
- なお水谷家は、後に孫の水谷勝美(従五位下、出羽守)が元禄6年(1693年)に31歳で死ぬと末期養子が認められず改易となる。
堀田家
- その後点々とし、堀田家が所蔵し「大黒正宗」と呼ばれた。
- 昭和には個人蔵。
- 「正宗作」の三字銘。
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