持田謹也
持田謹也(もちた きんや)
明治の実業家、茶人、愛刀家
- 重要美術品などを多数所持しているためページを設けます。
概要
- 持田謹也氏は持田畯一郞氏を父として明治4年(1871年)千葉に生まれた。父・持田東畝は漢学者で、千葉匝瑳郡須賀村で塾を開いたという。
君は千葉縣人持田畯一郞の二男にして明治四年二月を以て生れ同三十三年分家して一家を創立す父畯一郞は東畝と號し著聞せる漢學者たり君は其後を承け夙に學に志し同二十四年支那に遊び歸朝後東京に於て古文莚及芝浦學堂の校長となる後北海道に渡り北海道每日新聞社主筆北海タイムス編輯長北海道産馬協會長北海道畜産聯合會長札幌競馬俱樂部會長札幌外五郡産馬組合長等に就任し大正十二年馬政調査委員に任命せられ競馬協會監事帝國馬醫協會理事等を歷任し現に北海タイムス社監事たり
持田謹也 (第8版) - 『人事興信録』データベース
- のち北海道にわたり、明治29年(1896年)北海道毎日新聞社主筆をはじめ、明治39年(1906年)に北海タイムス(現、北海道新聞)編集長のち取締役。
- ほか北海道産馬協会長、北海道畜産連合会長、札幌競馬倶楽部会長(9代:明治43-昭和12)、札幌外五郡産馬組合長、札幌競馬場場長(札幌競馬倶楽部2代、日本競馬界札幌競馬場初代)などを歴任したという。札幌競馬の育ての親ともされている。
- 北ぐにの競馬 : 創立三十周年記念誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
札幌競馬倶楽部創立の明治四十三年から、昭和十二年解散に至るまで、約十五年間倶楽部理事長として活躍した持田謹也氏は、名実共に札幌競馬の功労者といえよう。
持田さんは全く競馬の人そのものだった。この永い十六年間、馬券なき競馬と毎日を送った。それは常に競馬再興の信念に生き、一年として休まぬ運動に情熱を傾ける日日であったのだ。
大正十二年競馬法(※旧競馬法)が交付されて、馬券は陽の目を見た。持田さんの行動はまるで水を得た魚のように生き生きとして見えた。北四条西十二丁目の事務所から、一丁位南、植物園の近くにお宅がありました。私達女子事務員は仕事の連絡で一週間に一ぺんくらいお伺いしてました。お屋敷の庭に池があって泥鰌をたくさん飼っていらして、女中さんがうちの旦那さんがお好きだと云って、泥を吐かしてそのまますぐ汁に入れて、召上がっていたようです。
弓が大変お好きで事務所の空地に矢場があって、よくやっておられました。それに字がお上手で、文章も上手、「お前達毎日一枚づつ習字をやれ」と毎日見て頂きました。
武徳殿が出来てからは一ヶ月に何回か弓をやりに行かれ、私達もついて行って見なければならなかったものです」
持田さんと日高の大塚助吉氏とは、名刀をもらった、貸したで裁判沙汰になり十年も争ったという話がある。持田さんは札幌の刀剣会の役員でもあった。なんでも津田氏という人が遺産にもらった日本刀や弓矢を譲り受け、それが箱にいっぱいあったというから、大変な愛刀家だったことは間違いないようだ。大塚氏と争ったというのも、晩年の無欲さから見れば名刀に対する魅力愛着といったものだったのかもしれない。武田忠幸氏によれば
「持田氏は書道に長じ、武道を愛し、弁舌家であり、文章も良く、碁もひと通りのことはやる。才能もあったがむしろ凝り性だったのではないか」といっている。大塚助吉氏は日高三石の大塚牧場の牧場主。四国生まれで北海道開拓のため日高に入植。三石に移住して牧場を開いた。豊平という明治期の大種牡馬の馬主だった。
- 北ぐにの競馬 : 創立三十周年記念誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
札幌競馬場歴代場長
- 明治43年(1910年)10月~昭和12年(1937年)12月まで札幌競馬場場長を務めている。
- 茶人であり、愛刀家としても知られる。
茶室:八窓庵
八窓庵(旧舎那院忘筌)
一棟
近世以前/住宅
二畳台目茶室、一重、切妻造、銅板葺
- 八窓庵は、小堀遠州(近江国小室藩初代藩主・小堀政一)の作と言われており、「遠州三茶室」の一つとされる。当初は居城である近江小室城内(現、滋賀県長浜市小室町)の小堀家菩提寺孤篷庵境内に建てられていた。
- のち長浜八幡宮の俊蔵院内に移転し、さらに明治4年(1871年)頃に川崎村(現、長浜市川崎町)の円教寺に移った後、長浜町(当時)の長尾慈海によって町内の俊蔵院学頭舎那院へ移築された。
この移転順序については混乱がある。
- さらにここでも維持が困難となり、大正8年(1919年)に持田謹也が長浜町竹生島の宝厳寺住職・峰覚以や同町有志、京都の岡田英斉らの斡旋で譲り受け、解体して北海道まで運搬した。
- 持田はさらに、当時散逸していた燈籠・庭石・器物などを苦心して蒐集し、大正14年(1925年)8月3日に現在の札幌市内中央区北4条西12丁目の自宅敷地内で往時の姿を再現した。また三分庵(四畳半茶室)と水屋を増設している。
- 昭和11年(1936年)9月18日に国宝保存法により旧国宝指定。戦後の文化財保護法により重要文化財指定。※増設された三分庵と水屋は重要文化財指定の対象外
- 昭和25年(1950年)には実業家・長沢栄一の所有となっている(土地、邸宅のすべてを譲渡した)。
長沢栄一氏は、昭和22年(1947年)に満州から引き上げてきた材木商で、はじめ八窓庵を高松市の住吉神社に寄贈しようとしたが高価なため断念したという。
- 栄一氏の死後も夫人により保存されてきたが、昭和46年(1971年)9月に札幌市に寄贈され、中島公園内へ移転した。
- 平成17年(2005年)には積雪で全壊した機会に調査が行われ、建造物修繕記録である棟札を2枚(明治三十五年棟札・大正十四年棟札)発見し、1919年に建物を譲り受けた持田謹也が、部材を札幌に輸送。1925年に部材を組み立てたことが判明した。構造材、造作材ともにことごとく折損、割損したが、重要文化財指定解除には至らず、修理に際しては可能な限り旧材を補強のうえ再用した。
刀剣
- 重要美術品の刀剣などを多数所持していた。
- 短刀
- 銘 備前長船景光/正和三年卯月日。刃長八寸五分。のち長野県の個人所有。昭和10年(1935年)8月3日に重要美術品認定。認定時所持者持田謹也氏。表に腰樋、裏に護摩箸。
- 「黒田景光」と号すという。もとは徳川家の所蔵したもので、のち明治政府から「黒田家」が拝領したものという。ただしこの黒田家というものが謎だが、どうも戊辰戦争や箱館戦争、西南戦争で活躍した後の第2代総理大臣・黒田清隆を指すのではないかとされている。明治3年(1870年)に樺太開拓使次官(2代)、開拓長官(3代)となっている。
- 刀
- 無銘 伝兼光。附 革巻柄蠟色鞘打刀拵十二月廿四日徳川家康感状一通。刃長二尺四寸。昭和12年(1937年)5月27日重要美術品認定。認定時所持者持田謹也氏。慶長19年(1614年)徳川家康から稲田九郎兵衛への下賜品で、同時に感状も与えられた。
稲田九郎兵衛は阿波徳島・蜂須賀藩の筆頭家老稲田氏。大坂の陣に親子3代で出陣しており、2代稲田修理亮示植と3代稲田九郎兵衛植次を含む7名に感状が下された。なお初代稲田左馬亮植元と林圖書助能勝(徳島藩家老)には特に称賛のあった2名として7人とは別に名前が上がる。恐らくその時に拝領した刀と思われる。
- 終戦後、日本刀を美術刀剣として保存するという動きがあり(赤羽刀の項参照)、昭和21年(1946年)の勅令三百号「銃砲等所持禁止令」により審査体制が築かれるようになった。その際に、審査委員に任命されている。
- 上京時には、平井千葉氏や橋本元佑氏らを呼び出して遊んでいたという。
彼(平井千葉)は遊び好きで、立方の芸が達者であった。これも今は故人となった北海道では第一の本筋の蔵刀家であった持田謹也さんが上京すると、私(本間順治)を招待し、平井と刀屋の壺屋こと橋本元佑がお相手であったが、壺屋が
地方 、平井が立方 で特級の芸を披露したものである。
宴席での芸能のこと。立方(たちかた)は踊り手、地方(じかた)は唄、三味線、お囃子などを担当する。
関連項目
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