彫貫盛光
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彫貫盛光(ほりぬきもりみつ)
脇差
無銘 伝備州長船盛光(号 彫貫盛光)
刃長35.6cm、反り0.4cm
細川三斎所用
出水神社所蔵(熊本県立美術館寄託)
- 盛光は、応永ころの備前国長船派の刀工。修理亮盛光。古刀上々作にて大業物。応永備前において康光とともにその双璧とされる。
- 平造り、反り一分五厘。鎺元に真の剣巻き竜を透かし彫り。その上に棒樋。
掘貫盛光ハ長サ壹尺壹寸七分三厘反リ一分半アリ
- 細川家「御家名物之帳」の一番最初に登場する。
一、彫貫盛光小脇差、長サ壱尺壱寸七歩三厘、ソリ一歩半、
從秀忠公慶長五年七月廿四日御拝領委御本譜、
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由来
- 倶利伽羅龍の透かし彫りにちなむ。
倶利伽羅龍欄間透し
中身の透し彫により彫りぬきと名付けられる。
来歴
備中吉備津神社
- もと備中吉備津神社の宝物。
彫貫の御脇差は根本備中の吉備津宮に籠たるものにて候、然るを木村常陸助手に渡り定指にしたるを秀吉公御取被成、其後秀忠公に被進候也
木村重茲
- 天正10年(1582年)備中高松城攻めに加わっていた木村常陸介が申し受け、普段指しにしていた。
木村常陸介重茲は木村重成の父とされる人物。隼人正、常陸介。妻の宮内卿局が豊臣秀頼の乳母となり、次男の重成(正四位上・長門守)は秀頼の小姓となり重用された。
秀吉
- その後豊臣秀吉が金10枚で買い上げたという。
秀忠
- 秀吉はこれを徳川秀忠に与えている。秀忠は天正18年(1590年)正月15日、聚楽第にて初めて秀吉に拝謁しておりその時に拝領したともいう。
同月秀忠は秀吉の招きにより13日に上洛、15日には元服して偏諱を受けている。さらに秀吉養女である小姫(春昌院、織田信雄の長女)との婚儀を行っている。当時秀忠は12歳、小姫は一説に6歳であったという。※元服時期については諸説あり。小姫との縁組は秀吉と信雄の対立によりその後離縁となり(ただし信雄失脚後も聚楽第の北政所のもとで養育されたといい、天正19年に早世したともいう)、文禄4年(1595年)に秀吉養女である江(崇源院、浅井江)と再婚している。
細川忠興
- 慶長5年(1600年)7月21日野州宇都宮において、細川忠興は上杉征伐の先鋒として秀忠に拝謁し、次男の興秋を人質に差し出している。さらに秀忠の面前で家臣小川伝治に命じて試し切りさせた国次の刀を献上する。
- その晩、秀忠は岡田利治を使者として人質の興秋を返すとともに、この「彫貫盛光」に「花牧」という名馬を添えて贈っている。そのとき、「この脇差はかねがね忠興が所望と聞いていたが、太閤より拝領のものであるため控えていた。しかしこれより天下分け目の戦いとなりどうなるかわからない。これが最後になるかも知れぬのでそなたに贈ろう」といったという。
此掘貫之御脇差盛光、常々御所望之様體御座候得共、太閤より拝領ニ付不進候、今度ハ樂ニ成となり候ハんも不知候間進候
熊本藩での伝承によれば、秀吉が安芸の厳島神社より申し受け、家康に送ったものを秀忠が譲り受けたともいう。
細川形部家→宗家
- 忠興はこれを側室幾知の子である細川興孝へと与えるが、熊本藩主3代の細川綱利の代に藩主家へと献上された。
明治後
- 明治11年(1878年)、熊本の水前寺公園に細川幽斎、忠興、忠利、重賢らを祀る
出水 神社が創建された際に、この盛光は忠興のご神体として白鞘だけにして安置されたという。 - 昭和6年(1931年)に神鏡を新調して盛光と交換している。同社神官によればGHQの刀狩りの際に盛光は細川侯爵家に返納したという。しかし同家から供出したのか、細川侯爵家にも元の拵えだけが残り、中身はなかった。
- のち発見され現在は出水神社所蔵。
模造刀
脇差
銘 大道直房入道
一尺一寸七分
- 本刀とは別に、細川忠興が藩工の大道直房に本刀を模造させ拵えを付けた模造刀が明治まで現存した。
- こちらは、家臣の陣某が拝領し、明治の初め旧藩士の堀部直臣が譲り受けたものを小森田という刀剣商が買い取り、忠興五男興孝の子孫である子飼の細川男爵家に納めた。
小飼(こかい)細川家は、細川刑部家(ほそかわぎょうぶけ、長岡刑部家とも)のこと。
肥後熊本初代藩主細川忠利の弟刑部少輔興孝が正保3年(1646年)に2万5千石を与えられ家を興したのに始まる。興孝は延宝6年(1678年)に子飼に茶屋を作り、後に下屋敷とした。この子飼の茶屋は後に造作を整えられ、昭和60年(1985年)に熊本県の重要文化財に指定、平成2年から4年の月日をかけて熊本城内三の丸に移築されている。
- 同細川男爵家の売立入札の際に、「肥後刀槍禄」の著者片岡直僖が世話役をしており、業者の入札価格と同値で引取り、愛蔵したという。
- 終戦後行方不明。
- 模造刀は目釘孔2個。
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