山下亀三郎
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山下亀三郎(やましたかめさぶろう)
明治~昭和期の実業家
- 山下汽船、山下財閥の商業者。
- 勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。
生涯
- 1867年(慶応3年)、伊予国宇和郡河内村(現: 宇和島市吉田町)の庄屋・山下家の7人兄弟の末子として生まれた。
- 宇和島の旧制南予中学校に入学するが、明治15年(1882年)に中退すると出奔。京都で小学校の助教員を務め、のち新島襄を助けて同志社を設立した山本覚馬と出会い、山本が主宰する私塾にも足を運ぶようになる。
山本覚馬の妹が、大河ドラマ「八重の桜」で主人公として描かれた新島八重。
- のち山本の勧めで東京に出て、明治法律学校(現: 明治大学)に入学する。
- 22歳の時に明治法律学校を退学して富士製紙会社に入るが長続きせず、次に大倉孫兵衛紙店の店員となった。その後、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店などを転々とした後、竹内兄弟商会の石炭部に入る。
- この頃はちょうど日清戦争の時期にあたり、石炭業界は好景気に沸いていた。ここで山下は石炭輸送の必要から初めて海運業と接する。1897年(明治30年)、竹内兄弟商会の石炭部を譲り受け、個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と変えた。
- 山下は同郷である秋山真之とも親しい間柄で、日露開戦近いという情報を得る。明治36年(1903年)には近親で元伊藤博文首相秘書官であった古谷久綱を通じて徴用船の指定を受ける。
- しかし日露戦争が終了すると戦後不況の影響をもろに被ってしまい、また北海道での木材事業にも失敗し数百万円(当時)の負債を背負ってしまう。
- ここで山下は「菱形償却法」と呼ばれる返済方式を考案し、その後好況の波にも乗りわずか7年で完済したという。
- 明治42年(1909年)以後。外航海運は好転したこともあり、山下の海運業は着実に発展する。
- そして大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発すると海運業は未曾有の好景気となり、戦前に比べて船のチャーター料は十数倍に跳ね上がり莫大な利益を手にする。山下は、勝田銀次郎・内田信也とともに三大船成金と称せられ、この船成金競争のトップを走ることになる。
- この間、1915年(大正4年)6月には、満州の大連に山下汽船合名会社を設立、次いで11月に石炭部を分離独立させて山下石炭株式会社とし、翌1916年(大正5年)8月には渋沢栄一らと扶桑海上保険(現: 三井住友海上)を創立。さらに1917年(大正6年)5月には山下汽船合名会社を資本金1,000万円の株式会社に改組拡充して別会社の山下合名会社をつくり、8月には浦賀船渠株式会社(現: 住友重機械工業)を創立するなど、矢継ぎ早に事業を拡大していった。
- 大戦中、山下の上げた利益は実に年間2,900万円にのぼった。1919年(大正8年)当時の総理大臣の年俸が12,000円、各省大臣や東大総長の年俸が8,000円であったので、山下がいかに巨額の利益をあげたかがうかがい知れる。
一概には比較できないが、日銀の企業物価指数による比較では、平成26年時点で約500倍の価値となり、年間145億円の利益となる。昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? :日本銀行 Bank of Japan また米価による比較では数百億円に上るという計算もある。
- 一方で山下は、現在の地位は実母の教育の賜物として、郷里に女学校を2校(現:宇和島市の吉田高等学校、現:西伊予市の三瓶高等学校)建設したほか、軍人・軍属の子弟教育のためと称して陸海軍に1000万円(当時)を寄付している。これが山水学園設立につながり現在の桐朋学園となっている。1971年 - 桐朋学園
- 1943年(昭和18年)3月には、時の東條内閣によって創設された内閣顧問に任命され、大正昭和期の代表的政商とさえ称された。
- 政府関係の委員にも就任し、第二次世界大戦末期には行政査察使に就任し北海道視察に行くことになるが、この視察によって病を得た山下は、1944年(昭和19年)12月13日死去した。
山下汽船は、その後合併を繰り返し現在は株式会社商船三井となっている。
系譜
長男:山下太郎
- 亀三郎の長男で、のち山下汽船社長、会長を務めた。
- 山下太郎の娘和子は、松方正義の孫(松方三郎の子、松方峰雄)と結婚する。
松方正義の次男・正作の妻・繁子は、三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の長女である。
- さらに、山下太郎の後妻の茂子の大叔父・郷昌作は、数え2歳で三菱の創業者で初代総帥・岩崎弥太郎の養子となり岩崎豊弥と改名している。故に山下家は松方家を通じて岩崎弥之助家の係累となる一方、河合家・川崎家・郷家を通じて岩崎弥太郎家の係累にもなっており、山下家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係にあるといえる。
刀剣
- 山下は金にあかせて美術品を蒐集しており、刀剣の蒐集でも名が知られた。
- 関東大震災で罹災し、様々な刀剣が被害に遭っている。
関東大震災では数多くの名刀が焼失しました。小田原の山下亀三郎氏の石蔵が潰れ、数多くの美術品が損害を請けました。刀では大般若長光、粟田口久国などの名品が数多くありました。久国は石の角でくの字形に曲り大きな刃切れが出来、大般若は弓のように曲がってしまいました。大般若などの研ぎを網屋さんから依頼されました。網屋さんは木挽町の家が丸焼けになり、大久保の斎藤栄寛さんの家に立ち退いていました。私も丸焼けになり、大井の兄の家に厄介になっていました。栄寛さんの家に急造の仕事場を作りましたが、光線が悪い上に道具の大半を焼いてしまいました。兄の家が材木屋であったのがさいわいで、ため木(曲がりを直す道具)を作り、さきに先ず長光にかかりました。弓のように曲がったのを直すのですから、名刀だけに刃切れでも出てはと命がけの仕事のつもりで取り掛かりました。ため木を持った両手に力を入れたがきかばこそ、腰の強さは無類です。更に思い切って力を入れたら”ぽきん”と音がして手応えがなくなってしまった。眼の前はまっ暗になり気が遠くなるようでした。ところが折れたのは刀ではなく、ため木だったのでほっとしました。この時のことは今もさいさい思い出します。それでも苦心の末、曲がりも直り研ぎ上がった時は、自分ながらよく疵も出ずに直ったと思います。不慣れな仕事場にくわえて材料もやりくりだったのが、この思いを一層強くしました。私も三十代の血の気の多い時でした。
(吉川恒次郎の回顧)
- のち、大正14年(1925年)に売立で処分されている。
- 大般若長光
- 武州忍藩松平家伝来。大正年間に同家から松平頼平氏を通じて売りに出したものを購入。のち伊東巳代治に譲っている。現在は東京国立博物館所蔵
- 庖丁正宗
- 武州忍藩松平家伝来。のち伊東巳代治に譲っている。現在は永青文庫所蔵
関連項目
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