姫鶴一文字
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姫鶴一文字(ひめつるいちもんじ)
- 福岡一文字派の作
- 「上杉家御手選三十五腰」のひとつ
- 御家名物
- 「上杉景勝自筆腰物目録」の2番目に記される。
景勝公の御書付に上秘蔵、 一 ひめつる一もんじ
- また「上杉家刀剣台帳」では「乾」3号に記載
- 鍔のない拵えになっており、世に「上杉拵」と呼ばれる。
- 棟に切り込み、中心少し区送り、中心先を切ってある。
- 目釘孔3個、うち1つを埋める。なかご鎺下に「一」在銘。
- ※読みについて、例えば「日本刀大百科事典」では「ひめづる」と濁る。しかし所蔵館では「ひめつる」と濁らない。(文化財指定では号を含まないため)所蔵館に従うものとする。
由来
- 磨上げに出したところ、夢に姫君が現れ磨上げしないよう懇願されたという。姫の名を尋ねると「ツル」と答えた為、その後「姫鶴一文字」と号したという。
- 刃文の状態が鶴の羽に似ているからとも、また山鳥毛一文字に比べるとこちらは穏和な刃紋でありかつ長さも2寸ほど小さいために「姫鶴」と号したとも伝わる。
伝来
- 上杉景勝が自ら書き上げた「上杉景勝自筆腰物目録」の2番目に記される。
景勝公の御書付に上秘蔵、 一 ひめつる一もんじ
- 天正16年(1588年)の押形本には、「姫つる一文じ也。上々、百貫、美禰(棟)一文字也。やきば大乱也」という注記がある。
- 上杉家に伝わった
- 明治24年(1891年)、今村長賀が拝見しており、「無類の華美なる出来、御拵前に同じ。 上々」と述べている。また「剣話録」でも次のように語っている。
勿論此「名物」外にも、名物に優る一文字は諸家に段々ある。(略)
其中一二を詳しく評すれば、上杉家に姫鶴一文字と云ふのがある。是は刃の長さ二尺三寸七分、生中心、穴は二つあり、其内中の穴が瓢箪形になつて居る。銘は「一」の字が一つ、太刀銘にある。極々盛んな上出來で、其有様は大房なる丁字亂佩表の中程で、焼刃の高い所は中鎬を起して中々大刄文である。又横手下は飛焼があつて、皆焼風に成つて居る、帽子も表裏共に一文字には珍しい宜しい形で、如何にも見事なものである。
- 戦後売却され同家を出た。
- (新法施行に伴い)昭和25年(1950年)重要文化財指定。
- 平成9年(1997年)、米沢市議会六月市議会での決定を受けて米沢市が8000万円で購入し、同年10月2日に米沢市上杉博物館に搬入された。
エピソード
明治天皇巡幸
- 明治14年(1881年)の明治天皇の巡幸のおり、10月2日には米沢の上杉家に立ち寄り上杉家伝来の名刀の数々を閲覧された。この時当主上杉茂憲は沖縄県令となっていたため、父上杉斉憲が案内したという。
- 中でも姫鶴一文字がとくにお気に召されたとみえ、押形(刀剣拓本)を所望されたという。無類の愛刀家でもあった明治天皇は名刀に夢中になり、翌日の予定がキャンセルされるというハプニングが起きたほどであったという。
ただし記録を見ると、2日は午後1時40分に米沢着、行在所に入り、2時30分に興國学校、福島裁判所米沢支庁、米沢製糸場をそれぞれ御幸した後に行在所に還御している。その後、「是の日(10月2日)、行在所に織物其の他の産物竝びに古書畫・古器物等を陳列して天覧に供す、上杉氏傳來の寶器頗る多し、」と続く(「徳用守家」の項を参照)。さらに翌3日はまだ夜も明けきらない午前6時に米沢行在所を発し、開𨯳掛詰所少憩したのち瀧ノ澤に至っている。
当時、米沢福島間は難路とされ、山県県令三島通庸が新道を整備している。この日、三島は栗子隧道でお迎えに上がって開通式を執り行っており、出発時刻などを見ても3日は予定通りの進行だったように思われる。熾仁親王の随行日記でも、「三日扈従、今次竣工せる栗子隧道を經て、福島に著」としか書かれていない。もし予定が変更されたのが事実であれば、それは翌3日ではなく米沢着当日の2日(の午後~夜)の予定だったのではないかと思われる。
八千万円の刀より四万冊の蔵書
- 現在も山形県米沢市が所有するが、2003年の米沢市長選挙において安部三十郎氏が「一振り8,000万円の刀より、4万冊の蔵書」と主張して選挙の争点の一つとなり、安部氏は当選した。
- 同市で議論が続いているようだがまだ売却はしていない。
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