壷切ノ剣
壺切御剣(つぼきりのごけん / つぼきりのぎょけん)
皇太子相伝の護剣
立太子の時に天皇から伝承される
壷切ノ剣、壺切之剣、壷切御剣、斬壷剣
御由緒物
- 斬壷剣(きりつぼのみつるぎ)とも。
- 拵えは「
塵地海浦螺鈿 」であったという。
- 皇位継承者である皇嗣に引き継がれてきた護剣で、天皇より皇嗣へと相伝される。現代では立太子の儀において伝授される。
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来歴
初代
藤原家
- 元は藤原家に伝来したもので、壷を切った故事にちなみ命名され、元は藤原長良[延暦21年(802年)~斉衡3年(856年)]から弟の良房へ、そして養子となった基経に伝えられたものであったという。
仁和五年(889年)正月十八日
太政大臣 奏云、昔臣父 有名劍、世傳斯壷切、
古来、壷切ノ剣は「張良の剣」であったという伝承がある(江談抄)。高瀬羽皐はこれについて、誤りの元が「禁秘抄階梯」であるとした上で持ち主であった藤原「長良」を張良と混同したのだとする。また「嘉良喜随筆」による、壺切御剣は天國の作であり長く近衛家にあったとする説を紹介している。
- 光孝天皇[在位:元慶8年(884年)~仁和3年(887年)]の時、神泉苑の土中に埋没していたのを発掘したと書かれている。
光彩電耀、目驚霜刄
基経→敦仁親王(醍醐天皇)
- 立太子の際に譲られるという慣例は、藤原基経が宇多天皇[在位:仁和3年(887年)~寛平9年(897年)]に献上し、宇多天皇が第一皇子である敦仁親王(醍醐天皇)に授けたのに始まるという。
延喜四年甲子二月十日乙亥、保明親王立皇太子、時年二歳、母故攝政太政大臣藤原朝臣基經女、中宮穏子也、(略)左大臣時平朝臣奏曰、貞觀故事有御劔、以山陰朝臣爲使云々、
吾 又始爲太子初日、帝 賜朕御劔、名號壷切、左近少將定方爲使、持壷切劔賜皇太子、定方賜祿褂一襲、
(扶桑略記)立太子事被奉護身剣
扶桑略記では、延喜4年(904年)に醍醐天皇の第二王子保明親王が、藤原時平の後ろ盾によりわずか2歳で立太子された際に、故事にちなんで醍醐天皇が壷切ノ剣を贈ったことを記している。故事というのが、かつて寛平5年(893年)4月2日に敦仁親王(後の醍醐天皇)が立太子された際に、父帝である宇多天皇より壷切ノ剣を贈られたことを指している。これにより、宇多──敦仁親王(醍醐)──保明親王と伝わったことがわかる。
なお保明親王は即位する前に薨御、皇太子はその子である第一王子・慶頼王が指名されるが、王子も2年後に薨御。代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(朱雀天皇)が皇太子となった。宇多天皇 藤原仁善子(時平娘) ├───醍醐天皇 ├───慶頼王 ┌良門──高藤──胤子 │ ┌保明親王 │ ├──┼寛明親王〔朱雀〕 │ │ └成明親王〔村上〕 藤原冬嗣─┴藤原長良──藤原基経─┬藤原穏子 ├藤原時平──藤原保忠 ├藤原温子(宇多天皇女御) └藤原褒子(宇多天皇の御息所)
憲平親王(冷泉天皇)
- この後、村上天皇の子である冷泉天皇が生後間もなく立太子した際にも壷切ノ剣が贈られている。
天暦四年七月廿三日、戊子、
午三剋御南殿、儀式如例、
此間勅使左近權中將良岑義方朝臣令持護御劔参來、賜座於東渡殿、令著之、義方朝臣捧劔著座、件劔元是納宜陽殿也、刄長二尺五寸五分鯰尾、鞘長二尺七寸五分、柄長五寸八分、金銀蒔繪、海鳧文浮津波鬘頭、以青滑革装束之、有唐錦袋、左近少將伊尹傳取奉之、卽令奏恐由、給祿、白大褂二領、勅使拝舞退出、
(九條殿記、御産部類記)
- もともと藤原氏の娘が産んだ皇太子の守り刀として献上したともいわれており、それを示すかのように践祚の際にも天皇から皇太子へと直接渡るのではなく、幾度と藤原家の介入が起こっている。
道長→三条天皇(送られず)
- 冷泉上皇と女御藤原超子の間に生まれた三条天皇には、長和元年(1012年)に道長の次女妍子が入内して中宮となるが、三条天皇は東宮時代からの妻である娍子(左大臣藤原師尹の次男藤原済時の娘)を皇后とし、二后並立状態となる。道長の娘妍子がいながら娍子を立后したこと、妍子との間には女児しか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなった。
当時の朝廷では、村上天皇の皇子である冷泉・円融の両統迭立が行われており、道長はすでに円融系の一条天皇に娘彰子を嫁がせ、待望の外孫皇子である敦成親王(のちの後一条天皇)が生まれていた。道長としては冷泉系の三条に早く退位させ、外孫の敦成親王へ譲位をさせることが権力の拡大へとつながった。
藤原伊尹娘 懐子 ├──師貞親王〔花山〕 村上天皇─┬冷泉天皇 │ │ 藤原済時娘 ┌敦明親王(小一条院) │ │ 娍子 ├敦儀親王 │ │ ├──┴敦平親王 │ ├──居貞親王〔三条〕 │ 超子 ├───禎子内親王 │藤原兼家娘 妍子 │ │ 藤原道長娘 ├──尊仁親王〔後三条〕──貞仁親王〔白河〕 │ ┌敦良親王〔後朱雀〕 └円融天皇──懐仁親王─┴敦成親王〔後一条〕 〔一条〕
- 三条天皇が仙丹により失明するとしきりに譲位を迫ったことから、三条天皇は敦明親王(後の小一条院)を次の皇太子とすることを条件に、長和5年(1016年)、一条天皇の第二皇子・敦成親王(母は道長娘である中宮彰子。のち後一条天皇)へと譲位する。
- しかし道長は皇太子である敦明親王へ壷切ノ剣を渡すことを拒み、さらに翌長和6年(1017年)5月に三条上皇が崩御すると事態は悪化し、敦明親王は自ら皇太子廃位を願い出ている。
この廃位に対して道長より小一条院の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得る。その代わりとして道長の娘寛子を妃に迎えたために、それまでの妻であった延子は悲しみの余り寛仁3年(1019年)に急死。さらに延子の父である左大臣藤原顕光も治安元年(1021年)に失意のうちに病死する。その後、顕光父娘は怨霊になって道長一族に祟ったとされ、人々は顕光を「悪霊左府(左大臣)」と呼んで恐れたと伝わる。
二代目
- 初代の剣は後冷泉の治世である康平2年(1059年)正月8日におこった内裏の火災で失われる。
康平二年正月八日皇居一条院焼亡、主上(後冷泉院)渡御上東門院御所、壷切劍灰燼、不被献東宮也
- 以後、摂関家の教通より献上されたものが使われる。こちらは古備前派の延房の作と伝わる。
- しかし、この剣も同じ年の12月11日におこった火災にて焼けてしまい、かろうじて刀身だけが焼け残る。
- さらに、承久の乱(1221年)の騒動で行方不明となり代わりの剣が用意されるも、亀山天皇(恒仁親王、母は太政大臣西園寺実氏女の大宮院藤原姞子)の立太子の折に二代目が発見される。
教通→後三条天皇(送られず)
- なおこの藤原氏の外孫以外に渡さないとの言葉は頼通にも見られ、のち正嘉2年(1258年)に尊仁親王(後三条天皇、母は三条天皇の娘禎子内親王であり、藤原氏が外戚となれなかった)が立太子する際に、道長の子である右大臣教通が渡すのを拒んだとされる。
壷切は藤氏所生の東宮にのみ参らすべき護身劍也(藤原頼通)
後三条院東宮に立給時、後冷泉院より渡されざりけり、後冷泉院失せ給うて後、もとめ出てゝ二条殿(藤原教道)関白の時、後三条院にたてまつられにけり、立坊の後廿餘年渡されでやみき、いま位に即きて後もとめられずともありなんと、世の人申しけり。其後程なく二条内裏の火事に焼けて、みばかりのこりけるに、鞘をつくりてぐせられたるなり。
壷切我持無益也更々ホシカラズ(後三条院)
- この藤原北家御堂流と縁の薄い後三条の子である白河天皇は、実子である8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位し、太上天皇として幼帝を後見し、院政を開始する。
- のち江戸時代にも火災に見舞われるが、その際も拵が失われたのみに留まり、現在に至る。
近代皇室での来歴
- 壺切御剣は、近代皇室でも権威の象徴として受け継がれている。
睦仁親王(明治天皇)
- 父である孝明天皇は天然痘で急死したが、睦仁親王はまだ元服前の14歳での践祚であったため、立太子礼を経ずに皇位継承している。
- 光格天皇の童形践祚の先例にならって、髪型は総角、衣装は引直衣、衵、単、張袴、横目扇という童型践祚を行った。
- 聖徳記念絵画館に、川崎小虎による「践祚」という絵が奉納されている。奉納者は侯爵池田宣政。
嘉仁親王(大正天皇)
- 明治22年(1889年)11月3日に嘉仁親王(大正天皇)が立太子された際に明治天皇から受け継いでいる。
御劔傳進
皇太子嘉仁親王殿下ヘ御先例ニ依リ壷切ノ御劔ヲ傳進セラレ左ノ勅語アリタリ
勅 語
壷切ノ劔ハ歴朝皇太子ニ傳ヘ以テ朕カ躬ニ迨ヘリ今之ヲ汝ニ傳フ汝其レ之ヲ體セヨ
(明治22年11月3日、伝劔ノ勅語)
裕仁親王(昭和天皇)
- 明治43年(1910年)の皇室令の定めにより、皇太子結婚式においても捧げられるようになった。
皇室令第三號 皇室親族令
附式 第一編 第一大婚式
賢所大前ノ儀
次ニ皇太子参進
式部長官東宮大夫前行シ東宮侍従壷切御劔ヲ奉シ東宮侍従長東宮侍従東宮武官長東宮武官後ニ候ス
(略)
次ニ皇太子内陣ニ著座東宮侍従壷切御劔ヲ奉シ外陣ニ候ス
(略)
次ニ皇太子皇太子妃外陣ニ移座
此ノ時御劔ヲ奉スル東宮侍従及女官簣子ニ候ス
(以下略)
※この後の皇霊殿神殿ニ謁スルノ儀でも同様の所作がある。
- この皇室令附式に則って行われたのが、大正13年(1924年)1月26日に行われた裕仁親王(昭和天皇)の結婚の儀であった。この時に「壷切御剣」が登場する。
皇太子殿下は垂纓の御冠を召し、右の御手に笏を執られ歩みを運ばせらる、壷切御劍を捧げた牧野東宮侍従、御裳捧持の入江東宮侍従長龜井東宮侍従等を従へられつゝ綾綺殿の廻廊から賢所へと参進遊ばさる。續いて良子女王殿下は園池賞典次長前行申上げ、島津女官長、青山女官等後ろに随へて進ませらる。此時賞典長は静かに賢所の階段を上り兩殿下も八階ばかりの白木の階段をお上りになつて、巻き上げられたる簾の下から内陣に進まれる。其時壷切御劍を奉じた侍従も女官等外陣に着く。内陣には東宮殿下の御座を右に妃殿下は左に恭々しく跪かれて御禮拝になる。東宮殿下は此日御自ら良子女王と神前に御結婚の式を擧げられたる旨の御告文を奏せられて妃殿下も御共に外陣に御座を移される。賞典長は親善の御瓶子を捧げつゝ殿下に神酒を参らす。次で賞典長は其御盃を女王殿下に進めらる。女王殿下も賞典長が献ずる神酒を召される。此間突如宮城外より皇禮砲第一發が響く。皇太子殿下には茲に全く御結婚の儀を訖らせられ、再び神前に御拝あつて御退下遊ばされた。
- なお、明治42年(1909年)制定の皇室祭祀令の立儲令では、「賢所大前の儀」の中で壺切御剣が親授される手順となっている。
賢所大前ノ儀
次ニ侍従長壺切御劔ヲ御前ニ奉ル
次ニ勅語アリ壺切御劔ヲ皇太子ニ授ク
次ニ皇太子壺切御劔ヲ奉シ東宮侍従奉持皇太子妃ト共ニ簀子ニ候ス
- これに則って行われたのが、大正天皇即位礼(前年11月)以来最初となる「明治節」の日である大正5年(1916年)11月3日に行われた、裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼である。このときに大正天皇から壺切御剣が親授されている。
詔勅 立 皇太子ノ詔
朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ爲ニ立太子ノ禮ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス
御 名 御 璽
大正五年十一月三日
勅語 御劔傳進
壷切ノ剣ハ歴朝皇太子ニ傳ヘ以テ朕カ躬ニ迨ヘリ今之ヲ汝ニ傳フ汝其レ之ヲ体セヨ
(大正5年11月3日、伝劔ノ勅語)
- 勅使発遣の儀(宮殿:鳳凰ノ間):11月1日
- 賢所皇霊殿神殿に奉告の儀(宮中三殿):11月3日
- 賢所大前の儀(宮中三殿:賢所):11月3日
この中で壺切御剣が親授される。 - 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿):11月3日
- 参内朝見の儀(宮中正殿):11月3日
継宮明仁親王(第125代天皇)
- 昭和27年(1952年)11月10日、継宮明仁親王の成年式と立太子の礼が行われた際に昭和天皇より伝進されている。
当初、成年式は昭和26年(1951年)12月に実施する予定だったが、同年5月に崩御された貞明皇后の服喪のため延期していた。
- 成年式 / 加冠の儀(仮宮殿:表北の間)
- 立太子宣制の儀(仮宮殿:表北の間)
- 壺切御剣伝進の儀(仮宮殿:表拝謁の間→奥一の間)
侍従長を通じ、天皇より皇太子へと伝進。 - 朝見の儀(仮宮殿:表西の間)
- 勲章親授の儀(仮宮殿:表拝謁の間)
- さらに、宮中饗宴の儀が12日より3日間行われ、18日には伊勢の神宮を、19日に畝傍陵を、20日に多摩御陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。
浩宮徳仁親王(今上天皇)
- 平成3年(1991年)2月23日、浩宮徳仁親王の満31歳の誕生日に立太子の礼が行われ、同日に、鳳凰の間において皇太子の印とされる「壷切ノ剣」を第125代天皇から親授された。
- 2019年時点では「壷切ノ剣」は今上天皇(第126代天皇徳仁)の所持となっていたが、次項で述べるように令和2年(2020年)11月に「立皇嗣の礼」が行われ秋篠宮文仁親王へと引き継がれた。
令和元年(2019年)5月1日の皇太子徳仁親王の即位に伴い、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の定めにより秋篠宮文仁親王が皇嗣となった。その儀式である「立皇嗣の礼」については翌年4月に実施予定であったが、同年11月8日に延期された。
- 勅使発遣の儀(宮殿:竹の間):2月19日
- 賢所皇霊殿神殿に親告の儀(宮中三殿):2月23日
- 立太子宣明の儀(宮殿:松の間):2月23日11時~11時15分
宣明の儀に引き続き、鳳凰の間において天皇から皇太子となった徳仁親王に壷切御剣が親授された。 - 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿):2月23日
- 朝見の儀(宮殿:松の間):2月23日
- 宮中饗宴の儀(宮殿:豊明殿):2月24~25日
- さらに徳仁親王は、2月26日に伊勢の神宮を、27日に神武天皇陵を、28日に昭和天皇陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。
秋篠宮文仁親王
- 2019年5月1日の皇太子徳仁親王の即位に伴い、皇嗣文仁親王殿下となった。
- 令和2年(2020年)4月19日に立皇嗣の礼が挙行予定であったが、新型コロナウィルス感染症対策により、実施は同年11月8日に繰延べとなった。
- なお皇嗣が皇太子の場合は「立太子の礼」が行われるが、秋篠宮文仁親王は皇太子や皇太弟といった称号が付されず、「立皇嗣の礼」の名称で行われた。
- 賢所皇霊殿神殿に親告の儀:11月8日午前8時
- 立皇嗣宣明の儀:11月8日午前10時45分
- 皇嗣に壺切御剣親授:11月8日午前11時25分
11月8日午前11時25分,天皇が鳳凰の間にお出ましになる。 侍従が前行し,侍従長,侍従が壺切御剣を奉持して随従する。 次に皇嗣が御前に参進される。 皇嗣職大夫が随従する。 次に侍従長が壺切御剣を御前に進める。 次に天皇のお言葉がある。 次に天皇が壺切御剣を皇嗣にお授けになる。 次に皇嗣が壺切御剣を皇嗣職大夫に渡される。 次に皇嗣が退出される。 皇嗣職大夫が壺切御剣を奉持して随従する。 次に天皇が御退出になる。 侍従が前行し,侍従長及び侍従が随従する。
- 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀:11月8日午前11時35分
- 朝見の儀:11月8日午後4時15分
御物調書
関係系図
天皇家:宇多帝~後三条帝
【天皇家】 宇多──醍醐─┬朱雀 ┌広平親王┌花山 │ │ │ ┌敦明親王 ├村上──┼冷泉──┴三条──┴禎子内親王 │ │ └源高明 ├円融───一条──┬後一条 ┌後冷泉 │ │ │ │ └後朱雀───┴後三条 │ └具平親王──源師房(村上源氏)
藤原北家
【藤原北家】 基経─┬時平──保忠 │ ├仲平 ┌敦敏───佐理 │ ├頼忠───公任───定頼 ├忠平─┬実頼──┴斉敏───実資───資平───資房 │ │ (有職故実小野宮流) │ │ │ │ (有職故実九条流) └兼平 ├師輔──┬伊尹──懐子→冷泉:花山母 │ │ ├師保 ├兼通 │ │ ┌超子→冷泉:三条母 ├師氏 ├兼家──┼道隆──伊周(中関白家、坊門家・水無瀬家) │ │ ├詮子→円融:一条母 └師尹 ├為光 ├道兼──兼隆 │ ├道綱 │ │ │ │ │ │(有職故実御堂流) │ │ ┌彰子→一条:後一条・後朱雀母 │ │ ├頼通───────師実─┬師通(北家嫡流、五摂家) │ └道長─┼教通 ├家忠(花山院家) │ ├頼宗(中御門家) ├経実(大炊御門家) │ ├顕信 └忠教(難波家) │ ├能信 ├安子 ├嬉子→後朱雀:後冷泉母 │→村上中宮 └長家─忠家──俊忠──俊成──定家──為家 │ 冷泉・円融母 (御子左家) │ └公季───実成───公成──┬実季──┬公実──┬実兼 (閑院流) │ │ ├実隆 ├頼仁 ├保実 ├実行(三条家) │ │ ├通季(西園寺家) ├慶信 ├仲実 ├実能(徳大寺家) │ │ ├季成 └茂子 └苡子 ├仁実 →後三条 →堀河 └璋子→鳥羽 白河母 鳥羽母 崇徳・後白河母
藤原北家嫡流(五摂家)
【藤原北家嫡流(有職故実御堂流)】 (近衛家) 道長─頼通─┬師実─┬師通─┬忠実─┬忠通─┬基実──基通──家実─┬兼経(近衛家⑤) └通房 │ │ │ │ └兼平(鷹司家⑤) │ ├家政 │ │(松殿家) │ │ │ ├基房──師家 │ └家隆 │ │ │ │ │(九条家) │ │ └兼実──良経──道家─┬教実(九条家⑤) │ │ ├実経(一条家⑤) │ │ └良実(二条家⑤) │ └頼長─┬兼長 ├家忠 ├師長 │(花山院家) └隆長 ├経実 │(大炊御門家) └忠教 (難波家)
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