吉野太夫


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 吉野太夫(よしのたゆう)

  • 「吉野太夫」は京都の太夫に代々伝わる名跡で、10人いたとされる。
  • 三筋町七人衆」として高名な吉野太夫は林家(林与次兵衛家)の二代目である。夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓とも呼ばれる。

    日のもとにてたぐひなき名妓とは此よし野をぞいふべきさて天正のはじめ二條萬里小路に廓ありし時より今の島原の廓になりて寛文延寶の頃までに吉野といひし遊女十人ありけり此徳子は二世のよし野なるを今はさだかにしれる人あらざれば先其時をかうがへわかちてこゝにしるしつ

    高尾太夫については、「伊達綱宗#高尾との恋」を参照のこと

Table of Contents

 二代目吉野太夫

  • 二代目吉野太夫は、本名松田徳子。
  • 慶長11年(1606年)京都方広寺付近の生まれ。父は西国の武士松田武右衛門であったと言う。
  • 慶長17年(1612年)の秋、幼少期に禿として女郎屋林屋に抱えられ、肥前太夫の禿となる。禿名を林弥(りんや)といった。

    自七歳之秋、被養林氏與次兵衛之家而従益子肥前、禿名林彌

    他の一説には六條柳の馬場の遊女屋林屋の抱へ肥前太夫が禿で林彌と言つたのが、後に吉野と呼ばれたともいふ。

  • 廓名は、はじめ「浮舟(うきふね)」といったが、後にある歌を詠んだことから「吉野」に改めたとも言う。

    それは兎も角吉野の廓名は最初「浮舟」であつたが、或年廓の花を見て、
      此處でさへぞな吉野は花ざかり
    と詠んで、籠中の鳥にも等しい境遇を嘆ちつゝ、吉野の空に憧憬れたと言ふ所から、人呼んで吉野太夫と稱へたとある。

    ただし二代目であることから、この歌由来説には疑問が残る。

  • この頃、お忍びで遊びに来ていた堀尾忠晴がそのあまりの美貌に感心し、太夫に上げることを助言し祝儀金を贈ったという。

    一とせ出雲の國の守これが相を見給ひて家あるじにのたまふやう此童なみならずよくおほしたてよかならず名を日の本にしらるべき相ありとをしへ給ひしがげにおよずけては天の下にならびなきあそびとなりてぞ萬のをのこしたはざるはなかりし

    堀尾忠晴(ほりお ただはる)
    堀尾吉晴(茂助)の孫で、父は堀尾忠氏。母は前田玄以の娘。慶長4年(1599年)生まれ。正室は奥平家昌の娘で秀忠養女のビン姫。
     堀尾家は、茂助吉晴が信長・秀吉に仕えて立身出世し、浜松12万石を領している。さらに子の忠氏が関ケ原で功を上げ出雲隠岐24万石を領した。本城を月山富田から松江に移そうとするも着工前に28歳で急死したため、祖父吉晴の後見を得て6歳の忠晴が跡を継ぎ、松江藩二代藩主となった。忠晴は大坂の役で活躍するが、寛永10年(1633年)領内を検地中に27歳で急死。跡継ぎがおらず堀尾家は断絶した。一説に、大庭大宮(神魂神社)の禁足地である神魂ヶ池(小成池)を強引に見た際に蝮に噛まれたためとも言う。

  • 元和5年(1619年)5月、14歳で太夫となり、和歌・連歌・俳諧のほか、琴・琵琶・笙に巧みであったという。

    元和五年己未五月五日出世而補太夫職、于時徳子年十四名曰吉野、

  • さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという。才色兼備を謳われ、「東に林羅山、西の徳子よし野」とまで名を知らしめたという。

    其頃もろこしまでもきこえたる人は、あづまに羅山林氏、都に徳子よし野となん

  • その名は遠く中国にまで伝わり、呉興の李湘山なる人物が寛永4年(1627年)8月に「夢見吉野」と題する詩を贈ったとも言う。

    日本曾芳野名 夢中髣髴トシテ猶驚
    情容未見恨無極 空ツテ海東數鴈行
    (色道大鏡巻第十七 吉野傳)

  • 馴染みの客には、関白近衛信尋(後陽成天皇の皇子で近衛信尹の養子)や、灰屋紹益がいた。2人は競って吉野太夫を身請けしようとし、結局は寛永8年(1631年)に灰屋が妻としている。

    其比近衛信尋公(應山公と稱す 世に三筆と稱せし三藐院殿(近衛信尹)の息なり)華街にての御名を石白(せきしろ)と呼て(石白は關白をかくして いふならん)しばゝ吉野の許にかよひ給て御情の程いと深かりしに吉野おもはずも人の妻となりければいとゞおもひみだれ給ひしよしは松花堂昭乗に賜ひし御文にてしらる其文に曰
    年來誤り候て執着候事之今更截斷難叶事出現候て妄念亂候一兩日山居候而拂法之道理も申談候は如何猶承諾于三十日邊可登山候
      菊月十一日
         瀧本

    灰屋紹益(はいや しょうえき)
    佐野紹益、本阿弥紹益。江戸初期の豪商。本阿弥光悦の甥(妹・妙光の息子)である本阿弥光益の子で、通称三郎兵衛。諱は重孝。慶長15年(1610年)生まれ。豪商灰屋紹由(はいや じょうゆう)の養子となり跡を継いだ。養父紹由は連歌師里村紹巴に連歌を学び、さらに古田織部とも親交があるなど風流三昧の生活を送った人物として知られた。養嗣子紹益もまた光悦や烏丸光広、飛鳥井雅章、松永貞徳ら当代の文化人に師事し、茶湯、書画、蹴鞠、和歌、俳諧などに長じた。元禄4年(1691年)11月12日82歳で没。
     灰屋は本姓佐野氏。代々紺染めにもちいる紺灰を扱う商人で、紺灰座の棟梁を務めていた家柄。江戸初期には茶屋、角倉、後藤らと肩を並べるほどの盛況を誇った。

  • 寛永20年(1643年)8月25日、38歳で死去。法名は唱玄院妙蓮日性信女。

 逸話など

  • 吉野の命日は、「吉野忌」として俳句の季語にもなっている。
  • 井原西鶴の「好色一代男」にも登場しており、前代未聞の遊女と絶賛している。

 吉野門

  • 吉野太夫は京都鷹峯の常照寺の開山である日乾上人に深く帰依している。同寺に朱門を寄進しており、現在も「吉野門(太夫門)」の名で呼ばれている。
    日乾上人(にちけんしょうにん)は日蓮宗の僧。字は孝順。寂照院と号した。越前の生まれで俗称は塚本氏。永禄12年(1569年)に若狭国長源寺の日欽に師事して出家し、2年後の元亀2年(1571年)に京都本満寺の日重に学び、天正16年(1588年)に師の日重から本満寺8世を継いでいる。慶長7年(1602年)には身延山久遠寺21世として入寺。紀州徳川家徳川頼宣の帰依を受け、頼宣の援助により駿河国蓮永寺を再興している。寛永4年(1627年)には本阿弥光悦の招きにより鷹峯に常照寺を創建して檀林を開創した。中和門院近衛前子(近衛前久の娘で後陽成天皇女御。子に後水尾天皇、高松宮好仁親王、近衛信尋ら)に法華経を講じた記録が残る。
  • 常照寺では、毎年4月の第二日曜日には吉野太夫を偲び「吉野太夫花供養」が行われ、島原太夫が禿や男衆を従えて道中する姿が見られる。

 吉野間道(よしのかんとう)

  • 現在、「吉野間道(吉野広東)」として知られる織物は、名物裂「吉野間道」に由来する。※「古今名物類聚」にも取り上げられている。デジコレ
  • 元は中国から伝来した裂地で、京都の豪商灰屋紹益がこの名物裂を吉野に贈り、それを打ち掛けに用いたことから人気を博したのだという。

    彼の吉野廣東とて後世茶人が珍重した廣東縞の袋物地も、一たび吉野が襠に用ひたからの好事である。

 高台寺遺芳庵(いほうあん)

  • 京都東山の高台寺の茶室遺芳庵は、灰屋紹益が吉野太夫を偲んで建てたものと伝わる。明治41年(1908年)に紹益の旧邸跡から移築したものである。※ただし建築様式から、後世のものとされている。
  • 一畳台目の小規模な茶席で、炉は逆勝手向切りとする。吉野窓と称する壁一杯に開けられた丸窓が特色となっている。

 勘当話

  • なお吉野を落飾させた灰屋紹益の養父紹由は、当初この身請け話を許さず紹益を勘当してしまうが、後に許したという逸話が有名である。
  • それによれば、ある日紹由が下京に出向いた際に俄か雨に降られてしまい、道端の庵に雨宿りをする。その庵が実に瀟洒閑雅であり、さらに美しい女房による茶湯のもてなしがあまりにも水際立っていたことに驚く。後日本阿弥光悦紹益の実の大叔父にあたる)に話した所、それこそ勘当した紹益の隠れ家であり、その美人が吉野であることを聞いたことから紹由もその結婚を許したのだという。
    ただし灰屋紹益が吉野を妻とするのは寛永8年(1631年)だが、養父灰屋紹由はその9年前の元和8年(1622年)3月16日に死去している。そのためこの逸話で反対する人物は、養父紹由ではなく実父の本阿弥光益であると指摘されている。本阿弥光益は寛文5年(1665年)2月25日、82歳で没。本阿弥光悦は寛永14年(1637年)2月3日、81歳で没。
    尾形伊春──尾形道柏〔雁金屋〕
           ├────尾形宗柏──尾形宗謙─┬尾形光琳
          ┌法秀              └尾形乾山
          │
          │
    本阿弥光二─┼本阿弥光悦━━光瑳
          │
          │     本阿弥光瑳
          └妙光    ├───本阿弥光甫─┬本阿弥光傳
           ├───┬妙山         ├本阿弥光山
          本阿弥光徳├本阿弥光室      └本阿弥光通
               ├本阿弥光栄
               └本阿弥光益─┬本阿弥光務
                      └本阿弥紹益
                〔灰屋〕    ↓
                佐野紹由━━━(佐野)灰屋紹益
                        │
                       吉野太夫
    

 他の吉野太夫

  • 「吉野太夫」は京都の太夫に代々伝わる名跡で、10人いたとされる。
    10代とも書かれているが、恐らく10人の誤りではないかと思われる。林家の吉野は三代が知られるという。高名な六条七人衆の吉野は林家の二代吉野。

日のもとにてたぐひなき名妓とは此よし野をぞいふべきさて天正のはじめ二條萬里小路に廓ありし時より今の島原の廓になりて寛文延寶の頃までに吉野といひし遊女十人ありけり此徳子は二世のよし野なるを今はさだかにしれる人あらざれば先其時をかうがへわかちてこゝにしるしつ
 
林與次兵衛家
二條柳町遊女の長なりはじめ又一郎といふ其後六條より今の廓に移りて寛文五年斷絶す
 
元祖
吉野 諱禎子 時代詳ならず上職高名の遊女なり今按るに天正慶長の頃萬里小路の廓の遊女なりしならん
 
二代同家
吉野 諱徳子 六條廓上職の遊女(コレヲ大夫職又五三ノ君ナド通稱ス)禿名林彌肥前といへる天職にしたがひて元和五年五月出世寛永八年八月退廓花廓の間十三年六條にて七人衆の内定紋一ッ巴なり
 
三代同家
吉野 諱恰子 時代詳ならず坤廓(今ノ島原ヲイフ)天職の遊女(俗ニ天神トイフ)今按るに正保慶安の遊女ならん
 
喜多八左衛門家 上ノ町
(略、三代まで)
 
田中喜三郎家 中ノ町
(略、初代のみ)
 
高田七郎右衛門家
(略、初代のみ)
 
伊藤吉右衛門家 柏屋と云 上町
(略、初代のみ)
 
宮島甚三郎家 太夫町
(略、初代のみ)

 関連項目


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