厚藤四郎
厚藤四郎(あつしとうしろう / あつとうしろう)
- 吉光作の短刀
- 享保名物帳所載
厚藤四郎 在銘長七寸二分 代金五百枚 御物
厚さ四分あり、昔し室町殿の御物なり、其後泉州堺の町人所持、本阿弥光徳百貫に求め一柳伊豆守殿に遣さる、又其より黒田如水老へ遣され秀次公へと上る、毛利甲斐守殿拝領、嫡孫甲斐守殿より家綱公へ上る金千枚下さる、寛文の初め光徳代付なり
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由来
- 厚藤四郎は「鎧通し造」と呼ばれる短刀で、長さのわりに重ねが非常に厚い。
- 特にこの厚藤四郎は根元部分で4分(約1.1cm)もあり、珍しいためにこのような呼び名となった。
来歴
- 来歴概略
足利将軍家─本阿弥光徳─一柳直末─黒田如水─豊臣秀次──┐ │ ┌───────────────────────────┘ │ └豊臣秀吉─毛利秀元─毛利綱元─徳川家綱─田安家
足利将軍家
- 足利将軍家に伝わり、9代足利義尚が長享元年(1487)年に江州出陣の際の差料と伝わる。
香の御袷に、赤地の錦の桐唐草の御鎧直垂に、白綾の腹巻に、御腰物は厚藤四郎吉光なり并に金作の御太刀なり、廿四さしたる矢のうち、くろの御矢、上に帯びるは引かざるなり、御鞭は三所藤なり、みたらしは重藤なり、豹皮の御連貫に、御馬は河原毛なり、梨地の御鞭なり
(長享番帳)
一柳直末
黒田如水
- 天正18年(1590年)、一柳直末が小田原征伐で戦死したためか、黒田如水へと渡っている。
一柳直末の妻・心誉が、黒田如水の妹にあたる。直末の死後、遺された男子は黒田松寿丸と名付けられ養育された。
豊臣秀次
- のち如水から豊臣秀次に献上される。
- 文禄4年(1595年)、秀次自刃の際に寵臣・山田三十郎が拝領しこれで切腹したという。
二番山田三十郎あり。厚藤四郎の御脇指を拝領し、腹十文字にかき切て、首を請けしかば、うちおとし給へり。
毛利秀元
- ただし「毛利家譜」では、実際に入手したのは7月7日に前田利家邸で行われた形見分けの少し後の7月15日だとする。
七月十五日利常亭ニ於テ無蕪ノ花瓶及ヒ厚藤四郎吉光ノ短刀ヲ賜フ蓋シ遺物
八月十八日秀吉公薨ス
- ※天正20年(1592年)7月、秀吉から毛利秀元に下賜されたという説があるが、これは誤りということになる。
太閤肥前名護屋より帰洛の節赤間ヶ関にて乗船座礁したる時秀元僅かに十四歳小船を漕寄せ太閤を救ひまへらせしにより海岸の砂原にて秀元に賜りし由物語にあり
この時、秀吉は母である大政所が危篤との報を受け、急ぎ帰洛中であった。この座礁事故により、危うく秀吉を遭難の目に会わせるところであったとして操船を誤ったとされる水手(かこ)頭の明石与次兵衛が切腹している。「水手切り」
将軍家
- 寛文4年(1664年)2月28日、毛利家(毛利秀元孫、長門長府藩3代藩主の毛利綱元)から徳川家綱に献上され、黄金千枚が下賜されたという。
(2月)廿八日月次なり。松平讃岐守頼重初め就封の暇給ふもの十四人。毛利右京は家傳せし厚藤四郎の差添を獻ず。島津又四郎忠高は。亡父但馬守久雄遺物當麻の脇差をさゝぐ。
(徳川実紀)(3月)五日毛利右京家傳の脇差獻ぜしにより金千枚給ふ。
(徳川実紀)寛文四年三月五日厚藤四郎の脇指をたてまつりしにより、黄金千枚を恵賜せらる。
(寛政重脩諸家譜)
毛利綱元が元服して従四位下・甲斐守に叙任されるのは、同年12月25日。
- 「御名物御道具」
三、厚藤四郎吉光 御脇差、 山城粟田口
是は足利家所持、後一柳伊豆守所持、それより黒田如水江送る、又関白秀次に上る。後、毛利甲斐守江下さる。寛文四年二月、甲斐守三世毛利右京亮より被差上
田安家
- 後に田安家に伝わった。田安家に入った経緯・時期は不明。
東博
- その後本阿弥光遜が三井家に納めようとしたが、断られたため昭和13年(1938年)に東京帝室博物館(現東京国立博物館)が2万円で購入した。
名物 厚藤四郎 七寸二分 白鞘 二万圓
刀 短刀 銘吉光(名物 厚藤四郎) 一口
(東京帝室博物館 昭和十三年列品)
※「一橋家から帝室博物館へ献上された」という説は、福永酔剣氏の「日本刀大百科事典」、「皇室・将軍家・大名家刀剣目録」等による。これは誤りということになる。
一柳直末
- 一柳直末は、美濃国厚見郡西野村の土豪一柳直高の子。
黒田職隆──┬黒田孝高 ┌娘(松野重元室) └心誉 ├娘(徳永昌重室) ├────┴黒田松寿丸 一柳直高──┬一柳直末━━━一柳直盛【伊予播磨6万8千石】 │ ├一柳直盛──┬一柳直重 │ ├一柳直家【播磨小野藩】 ├一柳直道 ├一柳直頼【伊予小松藩】 │ ├一柳直良 └娘 └一柳直澄 ├────┬小川光氏【豊後日田→改易】 小川祐忠 小川祐滋【伊予国分】 (兼々庵)
- 元亀元年(1570年)より弟の直盛とともに羽柴秀吉に仕え、黄母衣衆となる。武勇に秀で「熊」の異名をとったという。
- 天正13年(1585年)には田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに秀吉の甥・豊臣秀次(秀吉の姉日秀の子、殺生関白)の宿老に命じられ美濃国大垣城に3万石を領す。
- 天正13年(1585年)には美濃国竹ヶ鼻で6万石、天正13年(1585年)には従五位下伊豆守に叙せられている。
- 天正18年(1590年)小田原征伐に参加。3月29日伊豆国山中城攻めで間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死している。
- なお妻は黒田職隆の娘(黒田如水の妹)であり、一柳直末は如水の義弟にあたる。この年の正月に生まれたばかりの男子は、この関係から黒田孝高に引き取られ、その子黒田長政の幼名と同じである松寿丸(しょうじゅまる。一柳松寿丸)と名付けられた。
- 一柳家は次弟の一柳直盛が継いでおり、最終的に伊予西条藩6万8000石の主となった。直盛の遺領は3人の子である直重・直家・直頼により分割されるが、そのうち播磨国小野藩、伊予国小松藩の2家が明治維新まで大名として生き延びた。
- 弟の一柳直盛は「一柳安吉」に名を残す。
赤間ヶ関(あかまがせき)
- 「赤間ヶ関」とは現在の下関のこと。
- 赤間ヶ関の由来については諸説ある。
赤間關
下之關、又は馬關ともいふ、諸説ありて詳かならず。(一)赤間稲置の姓より出たるとし(大同類聚方)、(二)赤駒の形色備へたる岩石あるより出たるとし(技癢録)、(三)赤目比魚西海に多く産するより出たるとなす(書紀通證)。又下関の名は、釜戸田島の方より數へて下なる關より稱し、馬關とは、赤間を赤馬に作りて馬關と爲せる文人の意より出でたるものと云ふ。
(国史大辞典)
- 現在も耳なし芳一で有名な赤間神宮などに名前が残る。旧赤間関市は明治35年(1902年)6月に下関市となった。
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