半月丸
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半月丸(はんげつまる)
太刀
在銘
長二尺二寸八分
- 三条小鍛冶宗近の作
由来
- 少し乱れた直刃に半月形の打ち除けがあったためという。
来歴
- 元は禁裏所蔵という。
- 江戸時代に、小浜藩主の酒井家が拝領したと伝える。
- 一説に、若狭小浜藩の12代及び14代(最後)の藩主であった酒井忠義が京都所司代を務めた関係で拝領したという。※小浜藩酒井家13代、15代。
- 酒井忠義は京都所司代を2回務めている。
- 一度目:天保14年(1843年)11月3日~嘉永3年(1850年)7月28日まで
- 二度目:安政5年(1858年)6月26日~文久2年(1862年)6月30日まで
- 一度目は仁孝天皇、二度目は孝明天皇である。忠義拝領であるとすれば、幕末に禁裏から酒井家へと下賜されたことになる。
- 明治期に靖国神社遊就館に出品されたことがある。当時酒井伯爵所蔵。
異説:山中幸盛所持
- 三日月宗近と同様に、本刀にも山中幸盛(鹿之助)所持という伝来がある。
今一刀の宗近が同じく幸盛の佩用として酒井伯爵家に所藏されてゐる。但しこの宗近は三日月と呼ばずして半月丸と呼ばれてゐる。この半月丸は往年九段の本部へも出品されたことがあるが、長サ二尺二寸八分、直刄に少しく亂れが交り、刄紋に半月の形がある。この半月は所謂打ちのけで、打ちのけは卽ち三日月形である。打ちのけは他の名工の作にも屢々見る所であるが、宗近の作には著者も嘗て見てゐるものに、焼刄の境、寧ろ刄の中に明瞭に半月形の打ちのけがあつた。而もその妙趣、氣品、さすがに古名工の作なるかなと思つてつくゞく感嘆すると共に、同時に三日月宗近を思ふて、三日月なる異名の出所も、果して佩用者の山中幸盛が三日月を信仰せしに因ったものか、或はこの打ちのけが三日月形をなしてゐるが爲めの異稱か、この二者の疑問は未だに解けずにゐる。
御物宗近
- なお現在御物の宗近で、小浜藩酒井家16代の酒井忠道が明治42年(1909年)9月の北陸巡行の際に、東宮(後の大正天皇)に献上され、さらに東宮から明治天皇に献上された太刀がある。
- 上記「半月丸」と同物ではないかと思ってしまうが、長が全く異なり、この御物は刃長78.5cm、反り2.8cm。「宗近」二字銘となっている。目釘孔は2個。
- 小浜藩酒井家の13代酒井忠義は、娘の稜子に旗本酒井忠欽の四男忠氏を迎え家督を譲っている。14代忠氏は、のち病を理由に家督を父の忠義(15代忠禄)に譲って隠居。その後家督は、嘉永4年(1851年)生まれの長男である16代忠道に譲られた。御物の宗近はこの忠道から献上されたもの。
- 小浜藩酒井家の家督遷移(藩主代数とは1つずつずれる)
- 13代酒井忠義:天保5年(1834年)~文久2年(1862年) ※宗近拝領か
小浜藩主12代。忠義は文久2年(1862年)「忠禄」に改名 - 14代酒井忠氏:文久2年(1862年)~明治元年(1868年)
小浜藩主13代 - 15代酒井忠禄(忠義):明治元年(1868年)~明治2年(1869年)
小浜藩主14代再勤 - 16代酒井忠道:明治17年(1884年)叙爵 ※明治42年(1909年)に宗近献上
- 17代酒井忠克:大正9年(1920年)襲爵
- 18代酒井忠博:昭和14年(1939年)襲爵
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