保元の乱
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保元の乱(ほうげんのらん)
- 保元元(1156)年、崇徳上皇と後白河天皇の対立に摂関家の対立が原因となって起こった乱。
- 結果、上皇方は天皇方の夜襲を受け敗北し、皇室・院政の衰退と武士の台頭のきっかけになった。
- | 天皇家 | 摂関家 | 源氏 | 平氏 |
天皇方(勝利) | 後白河天皇 | 藤原忠通 藤原実能 藤原通憲(信西) | 源義朝 源頼政 源義康 源重成 源季実 | 平清盛 平信兼 平惟繁 |
上皇方(敗北) | 崇徳上皇 | 藤原頼長 藤原忠実 | 源為義 源為朝 源頼賢 源頼仲 源為宗 源為成 | 平忠正 平忠貞 平長盛 平忠綱 平正綱 |
乱の結果と影響
- 氏の長者を宣旨により決められるなど、摂関家の勢力は衰退。
- 源氏は大打撃を受ける。
崇徳上皇
- 崇徳上皇は仁和寺に身を寄せそのまま出家するが、讃岐へ島流しとなってしまう。
- 天皇・上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事であった。
- 配流8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御。
血書五部大乗経
- 崇徳上皇は、配流先において仏教に深く傾倒し極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りを行う。
- 完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。
大なる金の
鵄 、翅 を刷 ひて着座したり。
上座に見る金の鵄こそ崇徳院にて度らせ玉へ。その傍なる大男こそ筑紫八郎為朝よ。その左の一座に玉衣を布き双べたるこそ、代々の帝王、淡路の廃帝(淳仁天皇)、井上皇后(光仁帝皇后、井上廃后)、後醍醐院、次第の登極を守つて玉衣に着座し御座す。
怨霊化
- 当初は宣命などにおいても罪人として扱われていたが、歿後10年が過ぎた安元2年(1176年)になると、わずか3ヶ月の間に高松院(姝子内親王。二条天皇中宮)・建春門院(後白河院女御)・後白河院孫の六条上皇・弟嫁の九条院(藤原呈子。近衛天皇中宮)らの死が相次いだ。
凡両月之問、三続崩逝、古今未有希代事也
(玉葉)
- さらに翌安元3年(1177年)には延暦寺の強訴(白山事件)、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀などがたて続けに起こり社会が不安になるとともに、崇徳院の怨霊が原因であるとささやかれるようになる。
讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり
(愚昧記)安元三年七月廿九日ニ讃岐院ニ崇徳続ト云名ヲパ宣下セラレケリ。カヤウノ事ドモ怨霊ヲオソレタリケリ。ヤガテ成勝寺御八講、頼長左府ニ贈正一位太政大臣ノヨシ宣下ナドアリケリ。サテ又コノ年京中大焼亡ニテ、ソノ火大極殿ニ飛付テヤケニケワ。コレニヨリテ改元、治承トアリケリ。入道カヤウノ事ドモ行ヒチラシテ、西光ガ自状ヲ持テ続へ参リテ、(中略)コレヨリ続ニモ光能マデモ、「コハイカニト世ハナリヌルゾ」ト思ヒケル程ニ
(愚管抄)
- 寿永2年には「血書五部大乗経」の存在を聞いた後白河院が供養のために願文を起草させている。
崇徳院讃岐において、御自筆血をもって五部大乗経を書かしめ給ひ、件の経奥に、理世後生の料にあらず、天下を滅亡すべきの趣、注し置かる。件の経伝はりて元性法印のもとにあり。この旨を申さるるにより、成勝寺において供養せらるべきの由、右大弁をもって左少弁光長に仰せらる。彼怨霊を得道せしめんがためか。
(吉記)
- 寿永3年(1184年)には後白河院は宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改めている。
讃岐院奉号崇徳院。宇治左府贈宮位太政大臣正一位事宣下。天下不静。依有彼怨霊也
(百錬抄)
- さらに保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)を設置している。
摂関家
藤原北家嫡流(五摂家)
【藤原北家嫡流(有職故実御堂流)】 (近衛家) 道長─頼通─┬師実─┬師通─┬忠実─┬忠通─┬基実──基通──家実─┬兼経(近衛家⑤) └通房 │ │ │ │ └兼平(鷹司家⑤) │ ├家政 │ │(松殿家) │ │ │ ├基房──師家 │ └家隆 │ │ │ │ │(九条家) │ │ └兼実──良経──道家─┬教実(九条家⑤) │ │ ├実経(一条家⑤) │ │ └良実(二条家⑤) │ └頼長─┬兼長 ├家忠 ├師長 │(花山院家) └隆長 ├経実 │(大炊御門家) └忠教 (難波家)
- 頼長の死亡を口実に後白河天皇が宣旨によって忠通を藤氏長者に任じて、大殿が勝手に藤氏長者を任じることができなくなった。
- 更に忠実には頼長と共謀して挙兵を企てたという嫌疑をかけられて、宇治殿領全てが没官される危機に陥ったが、追い込まれた忠実は宇治殿領を忠通に譲渡して没官を回避した。忠通以後の摂関家は藤氏長者が所有する殿下渡領の拡大に努め、大殿を含めた個人の影響力を小さくする方向で動いた。
源平
- 平清盛は播磨守に、源義朝は武士として名誉である左馬頭に任じられた。位階上は同じ従五位上だが、播磨守は実質の実入りが多く利益が見込める。
- この恩賞に不満があった源義朝は、3年後に信西派として平治の乱を起すが敗退。源氏は壊滅的な打撃を食らうことになる。
源義朝は東国へ落ち延びようとするが、比叡山の竜華越で源朝長(義朝子)・源義隆(義家の子)を失い、尾張の長田忠致の邸にたどり着いたところを鎌田政清とともに殺害された。また源義平は、難波経房の郎等橘俊綱に捕らえられ、六条河原で処刑される。源頼朝も捕えられるが、池禅尼(上西門院だともいう)の嘆願を受け助命され伊豆へ流されることとなった。
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