中村覚太夫


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 中村覚太夫(なかむら かくだゆう)

江戸時代の旗本、刀剣研究家
中村八太夫知剛
中村覚太夫

Table of Contents

 概要

 生涯

  • 中村家は江戸時代の旗本。
    中村家は持弓組同心の家系で、祖父・友太夫(友右衛門)知良および父・友八郎知香も勘定を務めており、八太夫知剛も勘定を務めた。家伝では、先祖中村宇右衛門某が、天正10年(1582年)のいわゆる伊賀越えの際に郷里の者とともに道案内をしたことにより、慶長5年(1600年)その子・宇右衛門知光が服部石見守正就(服部半蔵正成の長男)配下として御家人に加えられたとする。その三代孫が八太夫祖父の知良となる。家紋は丸に亀甲。
  • 父・中村友八郎(友太夫)知香の長男に生まれた。
  • 幼名鉄太郎、長じて八太夫と名乗った。
  • 明和6年(1769年)正月26日に勘定。
  • 安永4年(1775年)9月14日に関東及び甲斐国河川の普請を担当する。
  • 同年閏12月6日29歳で、10月晦日に亡くなった父を跡を継ぎ、四千石。
  • 寛政11年(1799年)より関東郡代付代官(関東代官)の一人になっている。
    関東代官とは代官頭(関東郡代)に下に置かれた役職で、家康の関東移封後の代官頭(伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正、大久保長安)のもとで旗本の知行地及び天領の管理実務を担当した。伊奈氏の支配が200年間続いた後、お家騒動にともなって代官頭を罷免された。関東郡代は勘定奉行久世広民の兼任となり、その配下に従来の2名に加えて3名が追加され5名体制となった。久世広民の転任後は勘定奉行中川忠英が関東郡代を兼ねた。
     中村八太夫はこの5名のうち小野田三郎右衛門信利の跡を受けて文政4年(1821年)より小平市域を支配している。
  • 寛政5年(1793年)8月9日付けで、東海道河川の普請での不手際により出仕停止。9月8日に許されている。
  • 文化11年(1814年)から馬喰町御用屋敷詰代官。
    この馬喰町御用屋敷詰は江戸廻り代官とあわせて経験を積んだ優秀な代官が配属され、他の代官が許されていない布衣に任じられた。中村八太夫は、安房上総の森覚蔵、武蔵下総の山田茂右衛門、下総の佐藤忠左衛門とならび布衣を許されている代官の一人であった。
  • 天保12年(1841年)ニの丸留守居となるが、天保14年(1843年)3月1日に老年をもって職を免ぜられた。寄合となるが翌2日死去。享年97歳
    没年を元に逆算すると延享3年(1746年)生まれということになる。
  • 墓所は麻布東町の宗福寺。法名眞實院譯釋顕誠居士。
  • 妻は朝岡直右衛門城宣の娘で、1男3女があった。男子は知足(久五郎)
  • 寛政重修諸家譜

    知剛ともかた
    鐵太郎 八太夫 母は秋山氏の女。
    明和六年正月廿六日御勘定に列し、安永四年九月十四日關東および甲斐國川々の普請をつとめしにより、時服二領黄金二枚をたまふ。閏十二月六日遺跡を繼。特に二十九歳のちしば々々東海道をよび關東の川々普請のことによりてものをたまふ。寛政五年八月九日さきにうけたまはる東海道川々の普請に等閑のことありしにより、出仕をとヾめられ、九月八日ゆるさる。 妻は朝岡直右衛門城宣が女。

    妻の父・朝岡直右衛門城宣は、当時朝岡安親という木屋流の高名な刀剣鑑定家ががいたことから、関係者ではないかと推測されている。※文化文政頃には中村覚太夫、朝岡安親、山田浅右衛門、柘植平助などが武家目利きで高名だったという。

  • 墓碑

    眞實院譯釋顕誠居士
    左 俗名中村八太夫、享年九十七、天保十四癸卯三月二日卒

 逸話

 「中村覚太夫」の名について

  • 八太夫知剛がいつごろ覚太夫を名乗ったのかは不明だが、刀剣研究家としては主に「中村覚太夫」の名で知られている。※公文書では「八太夫」のみ。但し検索する際は「八"大"夫」のほうが引っかかる
  • この「覚太夫」については過去大正~昭和期にも幾度か話題になったようで、川口陟が中村覚太夫の自筆で「覚太夫」と記した包み紙も所持しているのだと断言している。

    因に中村覚太夫は俗名を八太夫とも称した。之は武鑑によれば彼の父知香も八太夫と称していたので、父在世中は覚太夫と名乗り、家督相続後八太夫と改めたのであるが、実際は若い時からの呼び名の覚太夫を彼自身も名乗っていたらしく私の所蔵する信家鍔集の押形を入れてあつた包み紙にも彼の自筆で覚太夫と記してある。此押形には享和三年の書入があるから、尠くとも其の時代には覚太夫と称していたので、全然覚太夫と名乗らないで、八太夫と名乗ったという説を為す人があれば、それは再考すべき説である。

    享和三年は1803年。ただし、寛政重脩諸家譜では祖父、父ともに「友太夫」となっている。
  • いずれにしろ刀剣界では「中村覚太夫」で通っている関係から、ここでも中村覚太夫として立項した。

 古美術(刀剣)蒐集

  • 中村八太夫は地方出張の際にも刀剣を探して歩いたという。また父も代官であり、関東代官を19年間も務めた中村八太夫の羽振りは良かったという。
  • この財で八太夫は刀剣書および骨董類を買い込んでおり、刀剣の名作や茶器の名物など優品を集めた。当時世人は、天下の重宝は八太夫の家に輻輳(集中)せりと噂したという。中でも、信家作の鐔を50枚も所持していた。
    「光徳刀絵図(太閤御物刀絵図)」の慶長本(慶長五年二月二十二日奥書があるもの)を所蔵し、彼の所蔵歴より、現在は「中村本」と称されている。のち三矢宮松氏所蔵。

    鍔の所蔵数についてはブレがあり、幕末の漢学者・大谷木醇堂が中村邸で見た信家の鍔は50枚、同様に中西武五郎が見たのは76枚(一心不乱含む)だったという。また中村覚太夫は鍔の押形も残しており、こちらでは信家鍔の拓本が、表裏290枚(鍔146個)が収録されていたという。しかし一部が散逸してしまい、後に秋山久作が解説を付けて発行した「中村覚太夫信家鐔集」には表裏284枚(鍔142個)分のみが掲載されている。
  • 絵画では、文微明、趙子昴(趙孟頫)、梁楷、相阿弥、芸阿弥、曾我蛇足、周文、雪舟その他の優品を蒐集したという。
  • 著名な刀剣では「小竜景光」を山田朝右衛門吉昌の前に所持している。

    備前國長船住景光
      元享二年五月日
    長サ二尺四寸三分ヨ、反リ九分半
     弘化三丙午三月十日銀座貳町目あミ屋惣右衛門悴惣之助持参也、御代官御勤被成候中村八太夫御所持也。角宗。彦根様江上ル也。

  • また「諸家名剣集」(東博所蔵)を写したことでも知られる。

 一心不乱にの鍔

  • 明治維新後にこの中村覚太夫の名が広く知られるようになったのが、秋山久作の「一心不乱の信家」(いわゆる鍔好きの土佐藩士・中西武五郎の話)だとされている。土佐藩士であった秋山久作は、この中で登場する中西武五郎の血縁の人物で、山内容堂に近侍した人物であった。
    秋山久作は元土佐藩士、刀剣研究家。弘化元年(1844年)11月28日生まれ、幼名彦太郎。成年になって容堂公に近侍。明治6年(1873年)容堂が箱崎町の山内邸内に海南私塾(のち高知市の分校に統合されて現在は高知県立高知小津高等学校)を起こすと塾長となる。明治5年(1872年)2月官途につき、太政官左院少議生、当時の議長は後藤象二郎。副議長は江藤新平。明治7年(1874年)内務省より(司法省)警保寮出仕を命じられ、ついで東京府に転じ、学務、営繕その他の庶務を司る。明治11年(1878年)11月より牛込區長となり、同14年辞任。同年11月刑事補となり司法省に出仕。それより地方官となり、明治32年(1899年)奈良縣警察部長を辞す。以来、刀剣鍔の研究に精進。(昭和12年=1937年?)1月21日午前2時没。93歳。
  • 秋山氏はまず明治38年(1905年)7月発行の「刀剣会誌」でこの逸話を紹介し、さらに大正9年(1920年)にも同誌に再掲された。この逸話は室津鯨太郎(川口陟)著の「刀剣雑話」(大正9年)でも再録されている。この「一心不乱に」の鍔は、中西武五郎の話では次のように描写されている。

    武五郎は感激の餘り涙が滲み出て來るのを覺へた。
    手に取つて見ると、それは横經二寸八分竪二寸九分五厘、鐵地木瓜形、角耳小肉の鋤殘し、左に櫃穴を瓢箪形に透かし、右の肩に斧を透してある。地には一面に唐草模様の毛彫があつて、上部澤潟下部に「一心不乱に」の文字が彫つてある、裏は同く澤潟と浪の毛彫、銘は切羽臺の右の肩に信家と鮮かに切つてある、元より覺太夫愛用の随一だけあつて手入れも好く、信家中の傑作であつた。

  • 当然ながら「中村覚太夫信家鐔集」にも掲載されている。

    第四十五圖
    大正五年以來屢見たことがある、現今山内豊景侯所藏、鋤き殘し丸耳、變り木瓜形に斧と瓢簟を透し、表裏共將軍草の手彫、表に「一心不亂に」の文字を彫る、出來面白く、銘は放れ銘で右の肩にあるのを珍とする、此鐔に就いての挿話は「刀劍雑話」に詳しく書いてある。
                ┌───┐
                │中村匨│
                └───┘
    中村覚太夫信家鐔集

    解説は秋山久作。押形自体は覚太夫のものであり、山内侯に譲る前に覚太夫が所蔵していたため所蔵印が押してある。

  • この話で登場し当時の土佐侯こと山内豊熈に献上されたはずの「一心不乱に」の鍔は、何故か明治期には山内家所蔵ではなくなっており、秋山氏は八方探すも見つからなかった。しかし大正11年(1922年)に荒木寛一の息子・寛友氏からこの鍔が出てきたため元の山内家(侯爵山内豊景)へと戻ったという。※秋山氏79歳時
  • そもそも、なぜ山内家から「河合正宗」および「一心不乱の信家の鍔」が出てしまったのかについては、「河合正宗」と同時(要するに容堂が酔っ払って画家の荒木寛一に与えてしまう)であることがわかっている。詳細は「河合正宗」の項を参照。
    なお秋山氏が苦心して山内家に取り戻した「一心不乱に」の鍔は、第二次大戦後に再び山内家から出てしまい、現在は行方不明。

 関連項目


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