中務正宗
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中務正宗(なかつかさまさむね)
刀
金象嵌銘 正宗 本阿(花押)/本多中務所持
名物 中務正宗(桑名正宗)
長2尺2寸1分(67.0cm)、反り6分6厘(1.7cm)
国宝
国(文化庁)所蔵
- 「桑名正宗」、あるいは「中書正宗」(中書は中務の唐名)とも
- 享保名物帳所載
中務正宗 象嵌銘帳二尺二寸分半 代金二百枚 御物
本田故中務殿桑名在城の時分光徳取次にて御求め、表「本多中務所持」裏に「正宗本阿弥」と象嵌に入る光徳なり、家康公へ上る、寛文中は右の代なり、水戸殿へ御伝へ故中納言殿より上る、甲府殿へ進せらる
- 鎬造り、庵棟、反りは浅く、やや延び鋒。彫物は表裏とも棒樋を掻通す。
- 大磨上げで先は粟尻。目釘孔1個。
- 指裏に「正宗本阿花押」、指表に「本多中務所持」と光徳象嵌が入る。
由来
来歴
本多忠勝
- 本多忠勝が桑名城主のとき、本阿弥光徳の取次で購入し、佩表の茎に象嵌銘「正宗 本阿(花押)」と入れる。このとき六千貫。
元本多中務殿桑名在城の時分光徳取次にて御求め
忠勝が伊勢国桑名10万石に封じられたのは関ヶ原の翌年の慶長6年(1601年)。天正18年(1590年)に上総大多喜で10万石を与えられていたため、この時5万石加増の話があった。しかし忠勝が固辞したため、次男本多忠朝に別家を立てさせ大多喜5万石の大名としたという。
家康
- その後本多忠勝から徳川家康に献上される。
- 家康薨去の形見分けで水戸家に分与された。
本多忠勝は慶長9年(1604年)ごろから体調を崩しており隠居を願い出るが許されず、慶長14年(1609年)6月に嫡男忠政に家督を譲って隠居、慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去している。
いっぽう水戸頼房は慶長15年(1610年)に英勝院(お梶の方)の養子となり、翌年には元服して頼房と名乗っている。慶長19年(1614年)の大坂の陣では駿府城の留守を預かっているため、この頃までに拝領したと思われる。
将軍家
- 寛文元年(1661年)8月、水戸藩2代藩主である水戸光國が頼房の遺物として家綱に献上。このころ三百枚に改められる。
(寛文元年8月)廿三日水戸中將光圀卿襲封を謝せらる。 正則の太刀。 銀五百枚。 時服二十獻ぜられ。 故中納言頼房卿の遺物中書正宗の刀。 茶入( 筑紫肩衝)をさゝげらる。
(徳川実紀)
甲府家
将軍家
- 宝永6年(1709年)に家宣が第6代将軍となったことで再び将軍家所蔵に戻る。
- 享保2年(1717年)に近江守継平がこれを見、押形をとっている。
- 寛政2年(1790年)4月に上覧。
四月廿四日、左之御道具
上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
一、中務正宗御刀
是ハ本多中務大輔所持、 権現様江
上ル、後水戸殿江被遣、又水戸殿より
甲府中納言殿江被進、
- 昭和20年(1945年)に徳川家を出て中島昭吉氏の所持となる。
刀 金象嵌銘 本多中務所持 正宗本阿(花押) 一口
旧所有者 東京都澁谷區 徳川家正
新所有者 東京都赤坂區 中島昭吉
変更の年月日 昭和二十年四月二十七日
(昭和二十二年 文部省告示第四号)
中島昭吉は中島知久平の三弟中島門吉の子で、知久平および喜代一の甥にあたる人物。
- 昭和24年(1949年)に高橋金雄氏の所持。
刀 金象嵌銘 本多中務所持 正宗本阿(花押) 一口
旧所有者 東京都港区 中島昭吉
新所有者 東京都世田谷区 高橋金雄
変更の年月日 昭和二十四年十二月十三日
(昭和二十五年 文部省告示第十六号)
文化庁
- 平成15年(2003年)文化庁が1億6600万円で買い上げた。
「九州国立博物館所蔵」としておりましたが誤りでした。ご指摘を受け訂正いたしました。(2016/9/5)
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