上部当麻
上部当麻(うわべたいま)
- 「かんべたいま」(かんべたえま)とも。
- 享保名物帳所載
上部当麻 朱銘長八寸七分 代五千貫 紀伊殿
表劒、裏菖蒲、伊勢上部越中貞長所持、伏見の古道具店にて代金一枚に定め、旅宿に歸り黄金一枚紙にも包ずして懐中仕り、彼道具屋へ持参。相渡す節に至り、金無之、途中に落としたると存じ、立歸る道すがら尋ける處、道に有之、悦び又道具屋方へ走り金子を渡し、脇差を受取り歸り草臥牀間へ行き帯を解けるとき懐中より黄金出る、右道具屋へ渡したる黄金は不慮に拾いたるなり、其後轉々して松平故下総守殿にあり、右の次第は上部と別(懇か)の大黒屋宗栄と申者物語なり、正保二年下総守殿事鶴千代殿より来る、三千貫、小書に城和泉守殿に有之と記すに付、城半右衛門殿へ光山尋らる和泉を織部と申時、大神宮の御道具なり仔細あって代成し候間、百貫に御召給り候へ御師三人来り申に付、黄金七枚にて求候由、其後松平下総守殿へ拂遣し候由両様なり、城和泉、織部、半右衛門萬治ごろ下総守殿より御拂、松平故出羽守殿求め寛文元年に光温へ来り、庵を三棟に直し同二年に二百枚なり、為遺物家綱公へ上る、貞享三年鶴姫君様御入輿の刻代上り朱銘出来、紀伊中納言殿拝領
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刀工当麻
- 当麻は大和五派の一つである当麻寺に属していた刀工集団。大和鍛冶は僧兵の出現と共に各寺院のお抱え工として栄えた。
由来
- 伊勢神宮御師の
上部 越中守貞永所持にちなむ。
来歴
上部貞永
- 伊勢神宮御師の上部貞永が伏見に出た時、古道具屋にて代金一枚で購入。
この時、一度旅籠に戻って古道具屋に着くと、入れたはずのお金が懐中になかった。旅籠に引き返しながら探すと、道中に黄金一枚が落ちているのを発見し、古道具屋に戻って当麻の短刀を買う。旅籠に戻って帯を解くと持っていた黄金が落ち、拾ったお金で短刀を買ったことになった。
※上部貞永ではなく、大黒屋宋栄の話しであるともいう。
城昌茂
- 慶長(1596)ごろになり、伊勢神宮の御師3名が徳川家臣城織部(和泉守)昌茂のもとを訪れ、百貫で譲るといったため、大神宮のものならばということで黄金七枚で買い上げた。城昌茂は、慶長13年(1608年)に埋忠寿斎に金具を造らせ、拵えを新調している。
慶長十三年寿斎拵申候
城いつみ殿たるま寿斎かなく仕候
(埋忠銘鑑)
- 城昌茂は大阪夏の陣で軍令違反を犯し改易となったため、この当麻も手放すことになる。
松平忠明
- 本刀は、本阿弥光栄が金十五枚で購入し、郡山藩主松平下総守(奥平松平家の祖、松平忠明)が買い上げた。
松平忠明
松平忠明は奥平信昌の四男、母は家康の娘盛徳院亀姫。天正11年(1583年)に生まれ、天正16年(1588年)には家康の養子となり松平姓を許されている。実兄松平家治が14歳で早世してしまったため、遺領上州長根7000石を与えられる。慶長5年(1600年)従五位下・下総守に叙任。慶長15年(1610年)伊勢亀山5万石、大坂の役の後には摂津大坂藩10万石を与えられ、家康の特命を受けて戦災復興にあたっている。元和5年(1619年)に大和郡山12万石。寛永3年(1626年)に従四位下・侍従に進む。寛永21年(1644年)62歳で死去。
- 埋忠銘鑑には次のように記す。
城いつみ殿たるま寿斎かなく仕候 代金百枚 松平下総守殿に有之
松平忠弘
- 正保2年(1645年)、子の松平忠弘(奥平松平家2代。播磨姫路・出羽山縣・宇都宮・陸奥白河)の時に百五十枚に改まる。
「正保二年下総守殿事鶴千代殿より来る、三千貫、」この「鶴千代殿」は松平忠弘の嫡男で陸奥白河藩世嗣であった松平清照だと思われる。病弱を理由に廃嫡となり、将軍家披露もされず正室も娶らなかった。後継候補であった人物に次々と問題が起こり、さらに清照に男子(左膳忠雅)が生まれたことで世継問題(白河騒動)が起こる。結果的に山形10万石への減封となり藩主忠弘は隠居となった。跡を継いだのは左膳忠雅であったが、既に父・松平清照は失意のうちに亡くなっていた。
ただし本刀を売りに出したのは世継問題の起こる遥か前、山形15万石の時代である。
松平直政
- その後万治(1658)ごろに売りに出し、松江藩主松平出羽守直政(直政系越前松平家宗家初代、出雲松江藩の初代藩主)が購入している。
将軍家
- 松平直政死後、寛文6年(1666年)に遺物として将軍家(4代家綱)に献上した。
紀州家
- 貞享2年(1685年)、綱吉の息女鶴姫が紀州3代徳川綱教に輿入れする際に引き出物にするため、本阿弥光常が茎に朱銘を入れさせ、代5000貫の折り紙をつける。その後綱教の父である光貞に贈っている。
将軍家
- 正徳3年(1713年)12月11日徳川五郎太の遺物として将軍家に献上される。
徳川五郎太は尾張藩の第5代藩主。正徳元年(1711年)1月9日に生まれ、正徳3年(1713年)7月21日に父・吉道が吐血して死去したため急遽徳川五郎太が継いだ。しかし2ヶ月後の同年10月18日に死去し、家督は叔父の徳川継友が継いだ。
- 寛政2年(1790年)4月に上覧。
四月廿四日、左之御道具
上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
一、上部当麻
是ハ桑山伊賀守所持、其後紀伊殿御所
持、尾張殿江被遣、正徳三巳年十二月
十一日徳川五郎太殿ゟ為遺物上ル、
宝永四亥年七月十八日、御七夜御祝義之時、
常憲院様ゟ 智幻院様江被進、
智幻院とは徳川家千代(6代家宣の次男)のこと。
- 昭和2年(1927年)売立にだされ、2398円で今井貞次郎氏(道具商、八方堂主人)が落札する。※この時「日向正宗」、短刀「切刃貞宗」(享保名物ではない物)も売りに出されている。
二百九十四 名物短刀 上部當麻
長八寸七分、反ナシ
貞享二年折紙代五千貫
拵 目貫 小柄 金二疋獅子 宗乗
△記録「貞享二年鶴姫様將軍綱吉より拝領」
- 表剣、裏菖蒲造。拵、目貫小柄金二疋獅子、宗乗作。
- 平成23年(2011年)の「名物刀剣 - 宝物の日本刀 -」では、個人蔵。表素剣、裏薙刀樋。金粉銘 當麻/本阿(花押)。黒漆塗合口拵、紀州家の包装、家紋入りの刀箱などが附く。目貫は後藤宗乗作の金無垢目貫で、寛永17年(1640年)後藤光昌の折り紙が附く。
※情報提供をいただきました。ありがとうございます。
なお刀剣ワールド財団所蔵の刀剣については「桑山当麻」の項を参照のこと。
上部当麻と桑山当麻の混同
- 享保名物帳には、「今一腰上部と申す名物有之云々」と書かれている。
- これは、本来桑山伊賀守元晴の所持品であったが、紀州家の所有となり、道具替えで尾州家に移ったもので、昔から「桑山当麻」と呼ばれた名物であったという。ところが、別に一腰「上部」と名付ける名物があり、それとこれとが入れ違って折紙に上部と書かれてしまったと記されている。
- さらに享保名物帳では、表は剣、裏は菖蒲樋とあり、また朱銘、代金三百枚とも書いている。尤もこの短刀には表に素剣、裏に護摩著を掘り、茎には朱銘の跡らしいものが見えないので疑問が残る。
上部当麻 桑山トモ 朱銘長八寸三分半 代金三百枚 御物
- しかし白鞘には「正徳三年十二月十一日 上部当麻 無代 長八寸三分 徳川五郎太殿御遺物」とあり、この”五郎太”は吉通(尾張藩4代藩主)のこととされるが、道具替えのあとは上部と呼ばれていた事が知れる。
上部氏
- なお「上部」とは、上部越中守貞永のことを指している。
- 伊勢神宮外宮の権禰宜で、本姓は度会(わたらい)氏。織田氏の御師(おんし)になっており、神宮や会合衆への通達についても貞永を通じて行っている。天正2年(1574年)には長浜城主となった秀吉が、貞永に対して寄進をしている文書が残る。
- 天正10年(1582年)には堀秀政を通じて信長に式年遷宮の復活を願い出ており、信長はこれに対して造営費用3000貫を寄進し、上部貞永を造営奉行に任命している。
- 本能寺の変で遷宮は中断するが、天正12年(1584年)に秀吉が金250枚を寄進したことで遷宮が再開され、天正13年(1585年)皇大神宮および豊受大神宮(外宮)の遷宮が挙行された。
- 越中守貞永は天正19年(1591年)5月5日没。跡は宗次郎貞嘉が継いでおり、同月11日の秀吉による知行宛行状が残る。
度会永元
- 貞永の父は外宮禰宜の永元(字治山田市史)とされる。天正2年(1574年)10月1日、信長より尾張における檀那職を安堵され、同9年12月16日には信忠より買得分の安堵を受けているため、織田家の支配の下に置かれた人物であることがわかっている。
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