一柳安吉
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一柳安吉(ひとつやなぎやすよし)
- 「享保名物帳」所載
一柳安吉 長一尺六分 松平加賀守殿
一柳監物所持、加州御預の監物殿にては無之、表裏刀樋影樋
- 平造り、棒樋に連れ樋。真の棟。鋩子は乱れこんで角張り、わずかに返る。注進うぶで、目釘孔2個。「左安吉」と三字銘。
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由来
- 美濃国の武将一柳直盛(従五位下・監物)が所持していたことからこの名がつく。
「加州御預の監物殿」とは、直盛の孫で伊予西条藩3代藩主の一柳直興のこと。寛文5年(1665年)7月29日、職務怠慢や失政などがとがめられ改易され、身柄は加賀藩の前田綱紀に預けられた。
来歴
一柳直盛
- 一柳直盛は一柳直末の弟。天正18年(1590年)、小田原征伐で直末が戦死したため、跡を継いだ。のち尾張国黒田城3万石を与えられる。天正19年(1591年)に従五位下・監物に叙任さる。
- 直盛は関ヶ原の戦いで東軍に属し、池田輝政・浅野幸長らとともに河田木曽川渡河の戦いや岐阜城攻め(岐阜城の戦い)に加わって戦功を挙げた。戦後、伊勢神戸5万石の初代藩主となる。
- 大坂の陣でも戦功を挙げ、寛永13年(1636年)には伊予国西条(及び播磨国加東郡)6万8000石余を与えられる。※なお家光の命により、加東郡内の5000石を次男の直家に分与。
- しかし同年8月、直盛は封地に赴く途上の大坂において客死する。遺領は、西条藩を継いだ長男の直重が3万石、次男の直家が2万3000石余(伊予川之江藩→播磨小野藩)、三男の直頼が1万石(伊予小松藩)をそれぞれ分割相続した。
黒田職隆──┬黒田孝高 ┌娘(松野重元室) └心誉 ├娘(徳永昌重室) ├────┴黒田松寿丸 一柳直高──┬一柳直末━━━一柳直盛【伊予播磨6万8千石】 │ │【伊予西条藩】【伊予西条藩】 ├一柳直盛──┬一柳直重──一柳直興【改易】 │ ├一柳直家【播磨小野藩】 ├一柳直道 ├一柳直頼【伊予小松藩】 │ ├一柳直良 └娘 └一柳直澄 ├────┬小川光氏【豊後日田→改易】 小川祐忠 小川祐滋【伊予国分】 (兼々庵)
一柳直家
- 本刀は次男の一柳美作守直家に与えられたと見え、同寛永13年(1636年)本阿弥に鑑定に出されており、千貫の折紙をつけさせた。
- 直家は寛永19年(1642年)に死去。直家には娘しかおらず、以前より出石藩主小出吉親の次男・一柳直次を養子とし、娘と娶せて遺領を相続させようと届け出ていた。しかし当時は末期養子がまだ許されていなかったため、家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった。
直家の弟で伊予小松藩主の一柳直頼の妻・青龍院が、小出吉親の娘という関係。青龍院の弟・一柳直次は残された播磨国加東郡の1万石を相続し、播磨国小野藩2代藩主となった。
一柳直興
- この時に本刀は伊予国西条藩主の兄・一柳直重に伝わったものと思われ、さらに直重の子である西条藩3代藩主の一柳直興まで伝わった。
- 一柳直興は、正保2年(1645年)に父・直重の死去により家督を継ぎ、翌正保3年(1646年)に従五位下・監物に叙任された。
- 寛文5年(1665年)、一柳直興は職務怠慢や失政を咎められて改易され、その身は加賀藩お預かりとなる。これが享保名物帳に書かれる「加州御預の監物殿」である。
4代藩主前田綱紀はこの一柳直興の罪を解くことを周旋しており、約20年後の貞享3年(1686年)に「領國中住居及召仕人の事勝手次第」との許しを得、金沢城に登って綱紀に拝謁し、謝礼を述べているが、すでに60歳を過ぎており眼病を患い失明していたという。
石川県史 第二編 一柳直興の禁錮|ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
- この後「一柳安吉」は、寛文年間までに前田家に伝わったと思われる。
前田家代々
- 寛文2年(1662年)本阿弥に出され、金六十枚の折紙を付けている。その後百枚に値上がっている。
- 前田家の記録では長一尺五分半。
- 江戸藩邸に保管しており、文化9年(1812年)に本阿弥長根がお手入れしている。
渡邊三郎
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